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いま、はじめよう。いまから

バスが進んでいく。懐かしい景色が見えてきた。

山口県、湯浅町 高陽団地。

 この場所に戻ってくるのは三年ぶりになる。中学を卒業して三年と数カ月。時が立つのは早いものだ。もうずっとずっと昔のことのように思える。

中学を卒業と同時に家族で名古屋に引っ越して、それ以来だ。


僕は近頃、昔のことを思い出すことが多くなっていた。小学校時代と中学校時代のことだ。夢に出てくることもよくある。夢中で鬼ごっこをしたり給食で牛乳の早飲み対決をしたりする夢だ。

こんな夢を見て、朝目が覚めると思わず溜息をついてしまう。

 どうして? どうしてなんだろう。少し考える。

 答えは簡単だった。そう、あの頃に帰りたい。そういう願望の現れ。

 ただそれだけだった。

 あの頃は全てが輝いて見えていた。毎日毎日新しい発見があり、何に対してもわくわくしていた。小さなことに心が躍った。友達と虫獲りや魚釣り、駄菓子屋めぐり、プール、町内会の小さな祭りだって本気で面白かった。間違いなく、全力で生きていた。

 それに比べて、今の僕は何?

 バスが止まる。湯浅東小学校前。僕の母校だ。

 僕はバスから降りた。蝉の鳴く声が響き渡る。今僕が住んでいるところにはない自然の風景が、そこにはあった。

 ‥‥‥。

 

 バス停から僕の足は動かない。

 日々を、振り返る。

今の僕は毎日を無意義に過ごしているようでならなかった。新しい発見なんて何もない。小さなことに心が動くことはない。機械のように大学に行き、やることを最低限やって、帰る。その繰り返し。油断すれば、あの頃は楽しかったなぁと訳のわからないことを漏らす日々。

「今」に何の価値も見だせない。

 このままでは駄目になる。そう思った僕はふと思い出の場所、僕の故郷、高陽団地に帰ってみることにした。

 僕は母校に六年ぶりに訪問することにした。しかし不覚にも今日は日曜日。校門は固く閉じられていた。これは、入れないな。

 フェンス越しに眺める母校の景色は、あの頃と何も変わっていなかった。どっと胸の奥に懐かしさが込み上げてくる。

「また、皆で鬼ごっこしたいなあ‥‥‥」

 思わずぽつりと声を漏らしてしまっていた。疲れている。それも相当。

 やることもないので昔よく遊んでいた公園や川や駄菓子屋を周ってみることにした。


「変わってないな、どこも」

 驚くほど変わっていない。右側の田んぼ。その先の自動販売機。そこにひっ付くアマガエル。

 古本屋の錆びれた看板。赤煉瓦の歩道に町内会の花壇。その横の小さな神社。 

 歩道を越えると左側に大きな溜め池。その溜め池から用水路に流れる水の音が夏の暑さを和らげる。池の横には小さな石段があり、その石段を登ると小規模の霊園がある。

全部昔のままだ。

僕はそれぞれの場所を思い出しながら、歩き続けた。

 

 門前公園。木々が生い茂り、遊具はブランコだけ。以前はすべり台もあったが錆びて撤去されたのか。

 平地を越えると奥には両端を無数の木々に囲まれた一本道があり、進めば駄菓子屋への最短ルートだった。外観は少し小さな森である。そのことから小学校時代、ここは「モンゼンの森」と呼ばれ木の陰に隠れたり急な傾斜や段差を使ったりして、一味違った鬼ごっこが楽しめる場所でもあったな。

 蝉の泣き声が四方八方の木々から鳴り響く。どこか懐かしい景色と音と風。

そういえば村原や三橋は元気にしてるかな。ふいに仲の良かった二人のことを思い出す。

中学卒業以来、こっちの同級とはほとんど会っていない。

「会いたいな‥‥‥」

 そう、ぽつりと呟く。

 少し風が吹き、木々を揺らした。葉が数枚、落ちる。

「ん?」

 向こうの一本道から何かが駆けてきた。犬だ。確か、ポメラニアンって種だったか。犬は僕の足元まで駆け寄り、止まる。

「何だ、この犬。可愛いな」

 つぶらな瞳。艶やかな麦色の毛色。愛くるしい動作。思わず目の前の犬に手が伸びそうになった時、飼い主らしき人物が向こう側から歩いてきた。

 その姿はどこか、見覚えがあった。飼い主の足が止まる。そして、僕をじっと見つめた。


「‥‥‥もしかして、須山くん?」

 僕は驚いた。昔の記憶に色がついていく。きりっとした瞳。その瞳にかかりそうな黒髪には見覚えのある緑のピン留め。夏仕様の薄い青カーディガンにチェック柄のロングスカート。

 何よりその落ち着きのある透きとおった声が、僕の記憶を揺さぶった。

「‥‥‥鈴森か?」

 僕が懐かしいその名前を口にしたら、彼女はほっとしたように笑った。

「よかったー。間があったから忘れられてるのかと思った。正解。鈴森だよ」

「いやいや、さすがに忘れないって」

 突然の再会。僕はそう返しながらも、この後に続く言葉を見つけられず戸惑った。鈴森とは小さな縁があったといってもいい。小学校中学校はもちろん一緒で不思議と同じクラスになることが多かった。また鈴森、須山と出席番号が近かったので何かと席が近くになることも多々あった気がする。ただ、具体的にどんなことを話していたかは、もうあまり憶えていない。

 鈴森はしっかりした女子で、一見おとなしそうにも見えるのだが、話すとそんなことはないし、むしろ明るい印象を僕は持っていた。それは憶えている。僕は、彼女と特別仲がよかったというわけでもない。席が近いから話しやすかったというだけだ。

思い出せば、彼女は男女ともに優しく話しやすい性格であったため、クラスでは相談役として人気だった。曰く、鈴森に悩みを聞いてもらうとすっきりする。らしい。

 その優しく聞き上手なこともあってか、鈴森は男子の間で密かに人気だった。そして。

 いや、そんな昔のこと。今思い出しても仕方がないな。

「須山君くん、名古屋の方に引っ越したって聞いてたけど、戻ってきたの?」

「まあ、そんなところかな。久しぶりに高陽団地の景色が見たくなって」

 正直な気持ちである。別に意地を張ることもない。

「なるほどね。大学も名古屋? あ、もしかして就職してる?」

「いや、大学生だよ。名古屋工科大ってところ。工学部」

「工学部なんだ。なんかすごいね」

「いや、別にすごくはないよ。鈴森は県内にいるの?」

「いるよー。山口大学。教育学部ね」

「へえー、先生になるんだ」

 鈴森は耳に手をやって少し恥ずかしそうに答えた。

「うん、高校の国語の先生になれたらいいなって」

 将来の夢か。はっきりとした目標があって、ちょっと羨ましいな。僕はそう思った。

 ふと気付く。鈴森の飼っている犬が僕の下から鈴森の方へ戻っている。

「あ、そういえば村原くんも私と同じ大学なんだよね。しかも同じ教育学部で!」

「え? 村原、まだ山口にいるんだ」

「いるよ。っていうか須山くんのことだからてっきり知ってると思ってたんだけど、二人っていつも一緒にいたし」

「それは中学の頃の話だよ。卒業してからは一度も会ってないな」

「えーー。あんなに仲がよかったのに? 何、喧嘩でもしちゃった?」

 鈴森は瞳を大きく開いて本当に驚いた様子だった。気付けば僕はその瞳から目を逸らしていた。

「いや、別にそんなことはないけど、引っ越してから色々忙しくて、気が付いたらもう大学生になってた」

「ふうん。そうなんだ。今日は会わないの?」

「いや、別に約束もしてないし。いきなりあいつの家に行っても迷惑かもしれないし」

「女々しいっ、須山くんすっごく女々しくなってるよ。須山くんは会いたくないの? 村原くんに」

 その問いは、とてもシンプルな問い。鈴森の直球が僕の心に飛んできた。

「それは、その。‥‥‥会いたいとは思う」

「じゃあ会えばいいじゃん」

 鈴森の即答に僕は戸惑った。心の奥を突かれた気がした。

「え?」

「だから会えばいいじゃんって」

 その言葉は実に単純明快だった。確かにそうだ。でも。

「会ってどうするんだよ」

「さあ? それは私に訊かれても困るかな」

 鈴森は、あっさりと答える。

「‥‥‥。まあ、そうだよな」

「でもせっかく戻ってきたんだし、会いたいんだったら、会いに行ったほうが、会いやすい? 会いた、あれ? なんだかよくわかんなくなってきた」

 鈴森はあたふたとした表情で手を口にあてた。

「会ったほうがいいか。そうかもしれないな。‥‥‥会ったほうが」

 僕は鈴森に言った。そして自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。

「ありがとう。鈴森。なんかちょっと元気出た」

「そう、それは、よかった」

 鈴森は嬉しそうに微笑んだ。気が付けば、犬が足元に戻ってきていた。

「ちょっと村原の家行ってみる。あ、でもいなかったらどうしようか」

 すると鈴森は少し呆れた様子で答えた。

「村原くんの家って確かすぐそこでしょ。私同じ5丁目だから知ってるんだ。そうだね、もしいなかったらここに戻ってきなよ。私はゆっくりはむはむと散歩してるから」

「はむはむ?」

「この子の名前、はむはむ。可愛いでしょ!」

 ああ、はむはむって名前なんだ。はむはむは鈴森の周りをくるくると回っていたが、やがて鈴森の下で止まった。

 はむはむは可愛い。でもそれ以上に。

 少し強い風が吹いて、木々の葉が何枚か落ちる。

 鈴森の髪がたなびいた、そしてロングスカートがふわりと揺れる。

 緑のピン留め、まだしてるんだ。髪が伸びたんだね。少し大人びたな。鈴森、憶えてる? 僕が中学の時、いや。

 僕が今話すべきことは、そんなことではないような気がした。僕は今胸のなかにある精一杯の気持ちを込めて、ひとことだけ言った。

「鈴森、ほんとうにありがとう」

 




『まもなく東京行き、19時5分発 ひかり。発車します』

 アナウンスがかかる。ベルの音が響く。

 僕は窓の外の行きかう人々を眺めながら、思った。

 いつのまにか僕は弱くなっていた。いつも後ろばかりを振り返る人になっていた。

だけど今日からは少し、前を向いて歩こう。

そう、思った。


 


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