1.ある男の回想録
古びた古城のバルコニー。朧げに夜空に浮かぶ青い満月。くすんだ銀製のロケット。ロケットに入った二枚の家族の写真。なんとも言えない気分になってグラスの酒を煽る。
「……まだそんな物持ってたの。」
振り返ると頭と腕に包帯を巻いた男が松葉杖に支えられながらこちらを睨んでいた。
「……調子はどう?」
「いいわけないだろ。」
大切なものだから。とは言えず、ついはぐらかす。男はそれを察しているようで、呆れたようにため息をついた。
「そんなんだから、あんたを殺そうとした義弟を助けるなんて馬鹿な真似ができるんだね。僕を舐めてるの?」
恨みのこもった声は心なしか泣きそうなほど悲しげな色を帯びていた。フルーツナイフを握る手は震えている。
「ウィル。」
「うるさい!」
感情が高ぶった義弟の目から大粒の涙が零れ落ちる。ケガでおぼつかない足取りでゆっくりと歩み寄った義弟はナイフを振り上げ、そのまま動きを止めた。
「……して。」
嗚咽にかき消された声は子どもの頃にそっくりで、余計に心に突き刺さる。見た目も声も、あの頃とは違うはずなのに。
「どうして避けないんだよ!どうして黙ってたんだよ!どうして……どうして俺は何も知らなかったんだよ……!」
「ウィリアム。」
そっと背中に手をまわして、そのまま抱きしめる。カラン、とナイフが床に落ちる音がした。
「どうして変わってしまったんだろう。父様も、母様も、あんたも、僕も……。」
「……変わらないほうが異常だよ。昨日と同じ自分なんて、どこにも居やしないんだから。」
変わらないものなど存在しないはずだったんだよ。だけど、今の俺は異常の部類だ。そう言いたくて、また口をつぐんだ。
「ウィルは大きくなっても泣き虫なのは変わらないね。」
「兄様だって、優しすぎるところは変わってない。」
大勢の人間が死んだ。
国王も、兵隊も、仲間も、ボスも。
大勢の人間が識った。
小さな世界は、大きくは変わらないはずだった。
変わらないものなどないと、信じて疑わなかったはずなのに。
過去の自分の言葉が、毒のように今の自分を苦しめる。
「ライ。少しいいですか。」
「ああ。……ウィル、部屋に戻っていて。夜風は傷に障る。」
いつの間にか入室していた両目を布で隠した男が遠慮がちにこちらに声をかけた。目を赤くした義弟が顔を上げ、部屋を出ていくのを見送ると男が口を開いた。
「今のはライではなくリオンでしたね。兄の顔をしていたよ。」
微笑む男はどこか安心した様子でバルコニーの椅子に座っていた。
「悪いな。心配かけただろ。」
「ふふ、僕はそうでもなかったけど。他はかなり心配そうだったよ。」
二つのグラスに酒を注ぐと男は片方の酒に少しだけ口をつけた。
「ボスが二回も死んで変わったのに、新しいボスが革命が終わった後に殺されちゃたまんないもんな。」
もう片方のグラスを手に取り半分くらいまで一気に煽る。
「わかってるならいいよ。後でソフィアにでもたっぷり叱られてきなよ。不用心だってすごく怒ってたから。」
面白そうに笑う男とは対照的に苦笑いを浮かべざるを得ない。
「……今日は見事な満月だと聞きました。それを見て、ライ、君は何を憂いでいるの?」
空になったグラスが小さな音を立ててテーブルに立つ。そのグラスに酒をつぎ足しながら、また苦笑した。
「千里眼には何でもお見通しか。」
「ライはわかりやすいからね。」
顔を見合わせてクスッと笑みが広がる。
「今日の満月は少し青みがかっているんだけどな、前にもこんな月を見たことがあったから。」
仲間同士のいざこざが本格化する前の、裏切者を始末した晩のことだ。今でもよく覚えている。
青い満月の浮かぶスラムの街。あの街はもう燃えてしまった。暗く淀んだ肌にまとわりつくような空気は殺気を隠し、判断力を鈍らせ、異常な心を表に引っ張り出してくる。
裏切者と買収者と、それらを殺す異常者の心理は、ついぞ知ることはなかった。
*
雨上がりの晩。数年に一度見られる青い満月がスラム街を朧げに照らす。街外れの細い路地に入っていった四人の男を、屋根の上から見ていた。四人の内三人が憲兵の隊服を着ている。
「これがリストだ。」
唯一質素な服を着ている髭面の男が紐でくくられた紙束を憲兵の一人に差し出した。紙束を渡されたのは偉そうな男で、後ろに控えていた背の高い仲間にそれを渡す。
「ほ、本当に約束は守るんだろうな!?」
偉そうな男はうっとおしそうな表情を浮かべた。
「これが本物だったらな。」
その後ろでは束を渡された男と、もうひとり気の弱そうな男が束をのぞき込んでいた。
「ライさん、間違いないです。」
「そうか。」
腰に下げた異国の剣の柄を握る。裏切られた怒りと、これから起こることへのやるせなさと、裏切者への諦めとがごちゃごちゃに混ざり合って、なんとなく冷めた気分になっていた。
裏切者が手渡したリストというのは、仲間の情報が満載の、敵に渡ればただじゃ済まない代物だ。秘密結社と銘打っている以上、メンバーの名前すら極秘情報になりうる。
「ライさん。」
「……援護は頼んだぞ、メリー。」
せめて、裏切者と密会する憲兵が少なければよかったのにと思わずにはいられない。
四人全員、殺さなければならないから。
少年が頷いたのを合図に背の高い憲兵に狙いを定めて屋根の上を飛び降りる。空中で知らず知らずのうちに荒くなっていた呼吸を整える。無自覚のうちに恐怖しているのか、それとも興奮しているのかはもうわからない。ただほんの数秒の浮遊感の後に鮮血を浴びて、理性が消え去ったのは確かだった。
「なんだお前は!?」
血飛沫のあがるお仲間の首の向こう側。突然現れた殺人者に偉そうな憲兵が叫んだ。恐怖のせいか、怒りのせいか、困惑のせいか、剣に手をかけることすら忘れている。いいや、憲兵の様子なんてものはどうでもいい。ただ急所を狙って、自分に身を任せればいい。
背の高い憲兵の、首と別れた頭がゆっくりと足元を転がった。気弱そうな憲兵は少し怯んで、こちらを睨んで、そして剣を抜く。
「遅い。」
その隙を待ってやれるほどお人好しでもなければ善人でもない。
「え……?」
気弱そうな憲兵が声を上げた時には既に刃は体を貫いていた。力なく倒れてくる騎士を避けつつ剣を引いた。
あと二人。
「くそ……っ!騙したな!?」
見当違いな叫び声とともに剣抜いた偉そうな憲兵が突進してくる。既に事切れたお仲間の胴を踏みつけた音が妙に響いた。
「そういうことにしておくよ。」
パスッ、と乾いた音が1つ響いた。遅れて憲兵が倒れる。
「ぎゃあああ!痛い……痛い……!」
汚い悲鳴を上げて、足を抱えて憲兵は転げ回った。
「……まさか死んでからも上司の足蹴にされるなんて思ってもみなかっただろうな。」
踏みつけられた気弱そうな騎士を流し見て、ゆっくりと、焦らずに、冷静に、荒い呼吸を繰り返す憲兵に歩み寄る。その顔に刻まれているのは漠然とした死の恐怖……といったところだろうか。体液でぐちゃぐちゃの顔は醜く、見るに堪えなかった。
「せめて苦しまずに、死ね。」
鈍い音が響く。心臓を貫かれた憲兵は口をパクパクさせながら、宙を掴もうともがいて、やがて息絶えた。
剣を引くと同時に馬車の車輪の音が近くで止まった。
「また派手にやったな、ライ。」
「ライさーん!メリー!」
馬車から出てきた二人の男は見知った顔だった。長いウェーブのかかった黒髪を一つに束ねた男と、金髪の小綺麗な男……いや、青年と言う方が正しいだろう。近づいてくる二人から視線を外して刀についた血を拭う。
屋根の上にいたメリーが飛び降りてきて、二人の方へと駆け寄った。
「レイジさん、ユリウスさん、わざわざありがとうございます!」
三人が談笑している間、血濡れたリストを拾い上げ、裏切者の方へと歩み寄った。裏切者は憲兵の血を頭からかぶって放心状態だった。
「俺は……殺されるのか……。」
「いずれな。裏切っておいて生かしてもらえると思えるほどおめでたい脳みそではないとわかって嬉しい限りだ。……メリー!縄持ってきてくれ。」
はいはーい、と軽快な返事のすぐ後に縄と細長い布が飛んでくる。縄で裏切者の手首を縛り、布で目隠しをする。
「どこへ連れて行く気だ……!?」
縄で縛られ、目隠しまでされたものだから裏切者は急に焦り始めた。
「地獄へ、かな。」
「レイジ。」
いつの間にか近くまで来ていた髪の長い方の男、レイジが裏切者を無理やり立ち上がらせた。
「いい実験台をありがとうよ。」
「ああ。いつも通り好きに使え。」
馬車の方を振り返ると、路地に転がっていたはずの死体と、おびただしい血の跡が綺麗になくなっていた。
「あ、ライさーん!死体は全部あいつらが乗ってきた馬車に詰め込んできたよ!」
路地の入口にいた小綺麗な青年が褒めてと言いたげな犬のように飛びついてくる。
「ユーリ、助かった。」
そう言うと青年、ユリウスは得意げに笑った。
「馬車ごと燃やすか?」
いつの間にか裏切者の口も塞いでいたレイジは裏切者を乗ってきた辻馬車に押し込んで楽しそうに煙草を吸い始める。
「ああ、それはこっちでやっておくよ。馬はそっちで預かっておいてくれ。後で取りに戻る。」
メリーがすかさずマッチとオイルを取り出してニヤリと笑った。
「じゃあ頼むわ。明日また顔出すぜ。」
「ああ。助かったよ。」
馬車の中でユリウスに足も縛られてしまった裏切者は毛布をかぶせられ、芋虫のように蠢いている。そのうちユリウスにうっとおしがられて殴られるだろうと頭の隅で思った。
レイジが御者台に乗り込み、一言二言、言葉を交わした後三人は去っていった。
「ライさん、僕らも行きましょうか。」
「ああ。……メリーも今日はありがとうな。」
へへ、と得意げに笑ったメリーはまだまだ元気が有り余っているらしく、少し先まで走ってからこちらを振り返った。
「まだ仕事は残ってますし、早く行きましょう!」
「そうだな。」
仕事と言えど、死体を詰めた憲兵の馬車に火をつけるだけなのだが。そう思いながら手中の血が変色し始めたリストに再びやるせなさを感じ、振り切る思いでメリーの後を追いかけた。
翌日、馬のいない馬車が燃えて中から三人の遺体が見つかったと新聞は報じた。
これは、、とある男の回想録だ。