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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

誕生日に死ぬということを考えてみる

作者: 西田彩花

 幼い頃、誕生日はいつもよりちょっと豪華なご飯を食べて、甘いケーキを食べるという日だった。物心ついたときから、誕生日当日は「おめでとう」と言われてきた。だから、誕生日には「おめでとう」と言ったり言われたりするのが正解なんだと思っていた。

 私の誕生日は8月19日だ。たくさんの人から無条件で「おめでとう」と言われるその日は、大抵残暑が厳しい日だった。私は明日、27回目の「おめでとう」と言われる日を経験する。何が「おめでとう」なのか分からなかった。だけど、無条件に祝われる日というのは、私がどこか遠い国のお姫様になったみたいだと感じていた。歳を重ねていくうちに、「おめでとう」の数が私の価値だと思うようになっていった。「おめでとう」の数が多いほど、大きな国のお姫様になれるのだ。でも、私はだんだんと「おめでとう」をもらえなくなっていた。幼稚園児の頃よりも、小学生の頃よりも、中学生の頃よりも、高校生の頃よりも、大学生の頃よりも。クラスで遠くから誰かへの「おめでとう」が飛び交っていたことがある。あぁ、彼、もしくは彼女は、きっと私が夢見た大きな国の王子様かお姫様なんだ、と思った。私は夏休み中だから忘れられやすいんだ、と尤もらしい理由をつけて納得しようとしていた。だけど、そんなちっぽけな理由は、私がお姫様になれない理由にはならなかった。

 私に少しだけ贈られる「おめでとう」は、定型文だと思った。私は義務感からその定型文を言わせているんだと思った。だけど。だけど。だけど。誕生日に、無条件の「おめでとう」がもらえるのは何故なんだろう。無条件の「おめでとう」は正解であり当たり前だと思っていた。その正解や当たり前は誰が作ったのか。その正解や当たり前に準じて行動する人間は、操り人形か何かなのか。


「27歳になったら死のうと思うの」

「へぇ、なんだかロッカーみたいだね」

「何それ」

「偉大なロッカーは27歳に死ぬっていう定説があるんだよ」

 あの日彼はこう言った。私は27歳というのが女の賞味期限だと思っていた。女には、若さ以外にもたくさんの武器があることは知っている。だけど、若さはそうであるというだけで男を吸い寄せるのだ。若さ以外に取り柄がない私は、賞味期限切れの饅頭になると思った。いや、本当は若さという武器を持ってしても男を吸い寄せる存在にはなれなかった。私の若さは、若さの無駄遣いのような気がした。

 生まれてこのかた恋人という存在ができることがなかった。一度だけ、甘い囁きに乗って男に着いていったことがあった。男は私のことを愛してくれるのかもしれない、と淡い期待を抱いた。男に迫られ、覆い被さられたとき、恐怖感が襲ってきた。でも、愛してくれるなら、と目を閉じて体を委ねた。男はその日以来連絡がつかなくなった。淡い期待なんて抱かなければ、と私は泣いた。でも、この涙すら、私のために流していることがもったいないことだと思った。


 彼には常に恋人がいる。幼馴染みで、小さい頃から誕生日に「おめでとう」をくれた少ない人の1人だ。それこそ幼稚園児の頃から女の子に人気があったのは知っていた。中学生になると、彼は初めてできた恋人を紹介してくれた。幸せそうな笑顔で彼の腕に抱きつく女と、照れ笑いを浮かべる彼は、なんだかお似合いだと思った。

 少女漫画なんかだと、こういった幼馴染みとの間にいつしか恋心が生まれて…なんてベタな展開が待っているのだろうけど、現実はそうではなかった。彼は私を異性として見ていなかったし、私もそれは同じだった。だけど、時々彼と2人で話すのは落ち着く感じがした。彼は27歳で死のうと思うと言った私を否定しなかった。それだけで、彼は私の理解者なんだと感じた。


 27回目の誕生日が来た。スマホの通知音が鳴ることはない。私に「おめでとう」をくれる人は、ほとんどいないのだ。その日は例年と違って台風が近づいていた。窓から外を見ると、家の前にある樹が揺れていた。雨足が強くなってきて、窓を叩く。

 誕生日に無条件で「おめでとう」と言われる意味。窓を叩く雨の音に耳を傾けていて、初めて気付いた。私がここに存在するようになった日。私の始まりの日が記念日と化しているんだ。私はここに存在するようになって、そのことに感謝した日があっただろうか。私はここに存在したいと主張した覚えはない。できることなら、存在したくなかった。世間では、存在すること、生きているということは、無条件で喜ばしいことなんだと思った。その価値観の押しつけが、「おめでとう」なんだと気付いた。生きることが喜ばしいと考える人間がマジョリティだとしても、それが正解だとか、当たり前なわけではないと思った。民主主義的な思想は、時に残酷だ。51%と49%だという結果が出たとしても、51%が勝利なのだ。勝利した者は正しく、その思考は次第に当たり前と化す。49%のマイノリティが声を挙げない限り、彼らは永遠に敗者でありその意見はマジョリティに届かない。生きることが喜ばしい、と考える人間は何%くらいいるのだろう。恐らく、地球上の人間のほとんど全部がそう考えているのではないかと思った。その大多数に、たった1人の私の声が届くのか。届く希望があったとしても、私には声を荒げる気はさらさらなかったけれど。


 私はここに存在したいと願ったことはない。だけど、ここに存在してしまっている。存在してしまっているから、マジョリティの価値観を押しつけられ、「おめでとう」という定型文が正解なのだと信じてしまった。でも、それは間違いだった。生まれたいか生まれたくないかなんて選択肢は与えられなかったけど、死にたいか死にたくないかという選択肢はここにある。世間が無条件で私に「おめでとう」と言う今日、死という選択肢を選んだらそれは美しいことではないか。始まりの日が終わりの日になるのだ。そして私は、二度と始まりの日を経験することがない。


 テレビで見た方法を真似てみる。ドアノブにタオルを結んだ。この輪っかが、私の存在を終わらせるのだ。無条件で「おめでとう」がもらえる日だから、私がここで死んでも、きっと「おめでとう」と言ってもらえるはずだ。

 連絡がつかなくなった幼馴染みの顔を浮かべた。彼は私を異性として見ていなかったし、私もそうだ。だけど、何であの時彼が私を愛してくれると期待したのだろう。きっと彼は、私の亡骸を見て言ってくれるはずだ。「おめでとう」と。だって、彼は私の理解者なのだから。

 私は目を閉じて、タオルに手をかけた。大丈夫、もし恐怖感が襲ってきても、あの時のように体を委ねたら良いんだから。

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