【 4 】
翌日。休日の朝っぱらからはさすがに悪いかと思って、午後一時を過ぎた頃に僕はレンガ色のバスケットボールを抱えて白澤のマンションの下までやってきた。
このバスケットボールは家の中にあって、もう何年もただ転がっていただけのものだ。こうして有効活用する日がくるとは思わなかった。
マンションの自動ドアが開いても、誰ともすれ違わなかった。僕は階段下のポストから白澤の名前を探した。名前を出さないところもあるし、引っ越したばかりだからどうかと思ったけど、三階の部屋に白澤の名前があった。
僕は階段を上っていく。そうして、白澤のネームプレートがかかった入り口で、ダークブラウンの扉を眺めながら少し考えた。インターホンを押せば誰かしら出てくるかな。
でも、白澤のお母さんが出たら、なんて言えばいいんだろう。ただのクラスメイトなんだけれど、娘につきまとっているとか思われたりしないかな。
そんな心配もある。それでもこうして来たのは、昨日の父さんの話が耳に残っているから。
都の華やかさを恋しがって絶望する、そんなのはやっぱり悲しい。この田舎町にだっていいところはたくさんあるんだ。僕は白澤にそれを知ってもらいたいんだと思う。
白澤は嫌な顔をするかもしれないけれど、それを覚悟で僕はインターホンを押した。
ピンポーン。
鳴ってしまった。もうピンポンダッシュなんてするわけにはいかない。僕はようやく腹をくくった。
中から声はしなかった。でも、しばらくしてガチャ、と開錠の音がした。恐る恐るといった様子で扉を開いたのは、母親でもなくて白澤自身だった。
デニムのショートパンツにダブっとしたストライプのシャツ。何も特別いい服を着ているわけじゃないのに、量販店の広告のモデルみたいに見えた。
「……名塚?」
一応名前を憶えていてくれたみたいでほっとした。でも、目つきはすごく鋭い。扉の外へ出てくる気配もない。
「えっと、バスケしようかと思って」
そう言って、僕はボールを顔の横に並べてみた。すると、険しかった白澤の目がまあるくなった。
「何? 名塚ってバスケできるの?」
「多少は」
授業でやったくらいだけど、と心の中でつけ足す。
「二人だけで?」
「もっと人数集めてほしかったら集めるけど」
呼べば智哉たちも来てくれると思う。
白澤はいったん扉の奥に消えると、すぐに戻ってきた。メタリックカラーのスマホをポケットにねじ込み、スニーカーを引っかけて玄関から外へ出る。そして、鍵をかけた。
「誰もいないのか?」
「お父さんは仕事、お母さんは弟を連れて買い物」
なるほど。一緒に行くかって言われて、きっと断ったんだろう。鍵もスマホと反対側のポケットに仕舞うと、白澤は僕の手からバスケットボールをもぎ取った。そうして、両手で万力みたいに締め上げる。
「うわ、空気ちゃんと入れなさいよ。ぼよぼよじゃないの」
ずっと放置してあった。空気を入れるなんて発想、僕にはなかった。
「そんなにひどい?」
「上手く弾まないと思うけど」
なんてぼやく。でも、その後、バスケットボールを撫でる仕草はペットを撫でるみたいに優しかった。
このマンションのそばには小さな公園がある。遊具はジャングルジムと滑り台が一体になったもの、それからシーソーがあるくらい。チラホラと雑草が生えて、昨日の大雨の名残で地面は少しぬかるんでいるところもあるけど、広場の土の表面は乾いて見えた。
白澤はボールの具合を確かめるように広場でボールをついた。空気の抜けたボールに地面の硬さも物足りないのか、あまり高くは跳ね返ってこない。不満の声が出るかと思ったら、白澤の口元は少しだけ持ち上がっていた。
「やりにくいけど、まあいいわ」
トン、トン、と姿勢を低くしてドリブルを始める白澤。レギュラー間近だったと本人が言うように、こなれた様子だった。
「カットしてみてよ」
ボールを取ってみせろと言う。
「うん」
僕はすぐそこにあるボールに手を伸ばした。その途端、白澤は右から左にボールを移動させ、僕から遠ざける。利き手じゃない左手でも右と変わりなくドリブルは続いていた。
僕が踏み込んで回り込もうとすると、今度は片足を軸にして回り、僕に背中を向ける。トントントン、とボールをつく音が僕の気持ちを焦らせるようだった。
回り込もうとしたら、白澤は体を翻して駆け出した。僕は全力で白澤を追い越すと、その正面に立ち塞がる。そしたら、白澤は意地悪な笑みを浮かべた。それは悪戯っ子みたいな表情だった。
でも、笑ったんだ。そのことに僕はびっくりした。
そんな一瞬の隙に白澤は僕の隣をすり抜け、両足をそろえるとジャングルジムのネットに向けてシュートを放った。綺麗な放物線を描いて落ちていくボールを、僕はぼうっと眺めていた。
目は粗いけれど、ボールが潜り抜ける隙間のないネットの上にボールがはまった。すると、白澤はドヤ顔で僕を振り返る。
「あんた、バスケ経験あんまりないでしょ。それであたしの相手なんてできるわけないじゃない」
「う……」
「場所もボールもあんまりよくないし、あたしだってこんな動きしかできないんだから、もうちょっと食いついてよ」
「こんな動きって、十分すごいと思うけど……」
別にお世辞を言ったつもりはない。本当に速かったし、僕なんて完全にあしらわれていた。
白澤はまた意地悪く笑った。
「あたしの周りはすごい人ばっかりだったの。全然抜けなくて、悔しくて、それでいっぱい練習したんだから」
本気で打ち込んでいたんだ。その大好きなバスケが、うちの学校ではできない。
それは本来ならこんなに活発な白澤が、暗く感じられてしまうくらいの衝撃だったんだって改めて思った。
白澤は白いスニーカーに泥をつけながら水溜まりを越えてボールを取りに走った。そうして戻ってきて、そのボールを僕に向けて投げた。僕がそれを受け取ると、白澤は手首にはめていたゴムで髪をひとまとめにする。
本気だ、と僕はちょっと焦った。でも、髪をくくったところを初めて見た。そうしていると、顔立ちの綺麗さが際立つ。僕がなんとなくと眺めていると、白澤は今度は急に無邪気な笑顔を向けた。
教室ではひたすらに仏頂面なのに、この数分だけで表情がコロコロと変わるのを見たんだから、白澤って極端だ。
「今度は名塚からね」
『くん』とか、やっぱりつけてくれないらしい。僕も白澤って呼ぶからいいけれど。
あんな笑顔で言われたら気を悪くするどころか、名前を呼ばれて浮かれてしまう男子が大半だろう。悔しいけれど、僕もその例に漏れなかった。
「う、うん」
テンテン、とボールをつく。何か間延びした音だと自分でも思ったら、しっかり突っ込まれた。
「毬つきじゃない。ドリブル!」
「いや、ドリブルだから、これ」
「絶対違う」
なんで笑うんだ?
なのに、怒れない。笑いを堪えようとしつつも堪えきれないなんて、白澤もそんなふうに笑うんだと思ったら、嫌じゃなかった。思わず僕までちょっと笑ってしまう。
「ほら、腰が変に曲がってるからだよ。ちゃんと足を開いて腰を落とす。そんなんじゃ走れないでしょ」
プチ指導が入った。僕なりにそうしているつもりだったんだけど、どうやら違うらしい。足をもう少し開いてみた。そしたら、確かにさっきよりはやりやすくなったように思う。
「こう?」
「うん。そうそう」
白澤は髪の房を揺らしてうなずく。そうしていたかと思うと、瞬時に動いた。僕の手元でト、と小さな音がして、ボールは白澤の手に吸い寄せられるようにして奪われていた。
「ドリブルにばっかり集中しすぎ。相手のこともちゃんと見てなきゃ」
これは部活じゃなくてほんの遊びなのに、白澤はそんなことを言う。本気でバスケが好きなんだ。手なんか抜けないんだろう。そんな相手なら、僕だって手を抜いちゃいけないんだと思う。
ひとつ息をつくと、僕は白澤の手元のボールに食らいついた。指先がボールをかすめるけど、白澤はとっさにも関わらず機敏に避けた。
「うわ、危なかった!」
口ではそんなことを言うけど、顔は楽しげに綻んでいる。大人っぽい子だと思ったら、小学生みたいにも感じられた。
「次は取る」
「取れるならね」
ニヤリと笑って白澤はドリブルで駆け出した。長い脚がしなやかに動く。軽やかな足取りだった。
僕もあしらわれてばかりじゃ悔しい。何度も前に回り込んでは手を出す。白澤は僕の動きを全部読んでいるみたいに巧みにかわし続けた。
でも、ここは平坦な体育館の中じゃない。デコボコな地面の公園だ。地面から生えた雑草の塊の上にボールをついてしまった瞬間に、ボールは跳ね上がらずに横に跳んだ。
「あ!」
白澤はそれに反応するのが遅れた。ボールは道路へと飛んでいく。僕の目にも遠ざかるボールが見えた。チャコールグレーのアスファルトにレンガ色の丸がひとつ。道路へ転がれば、車に引かれて潰れてしまう。そう思ったら、僕は心臓が破れるくらい全力で駆け出していた。
「名塚!」
追いついて、手を伸ばし、指がボールに触れる。それを受け止めることはできなかった。追ってきた白澤が僕のシャツの裾を思いきり引っ張ったからだ。
パッパ――
クラクションを鳴らし、僕の目の前をトラックが通り過ぎていく。僕の指が跳ね飛ばしたボールは、歩道の端へ転がっていた。
「前見なさいよ!」
かいた汗が一気に引いてしまったような顔をして、白澤が僕に怒鳴った。
叱られても仕方ない。僕は今、ボールしか見てなかった。白澤が引っ張ってくれなかったらトラックに轢かれていたかもしれない。
「ご、ごめん」
本当に夢中だった。今、我に返ってゾッとした。
白澤は僕もショックを受けているって思ったのか、ひとつ息をつくとぽつりと言った。
「……でも、最後まで諦めないで食らいつく、そのガッツは認めてあげる。試合だったらあたしもラインぎりぎりまで絶対諦めないから」
苦笑する白澤の顔には、昨日とはまるで違う親しみがあった。ボールひとつで戯れて、それだけのことで僕たちの距離は縮んだんだろうか。
「うん、ありがと」
曖昧に僕は笑った。
田舎に楽しいことなんて何もないと思っているみたいな白澤が楽しそうにしてくれたなら、今日の僕の行動は間違ってなかったんだろう。そう思いたい。
僕は転がったボールを拾うと、『M・NAZUKA』のアルファベットを指で撫でた。
白澤は大きく伸びをする。
「そろそろお母さんたちが帰ってきたかも。あたし、帰るね。それで――」
と、急にポケットに手を突っ込んだかと思うと、白澤はスマホを取り出した。そうしてその画面に指先で触れながら言った。
「連絡先交換しとく?」
チラ、と僕を見た。少し照れているように見えたのは気のせいだろうか。
白澤からそう言ってくれたのは嬉しいけど、すごく残念なことがある。
「……僕、携帯持ってないんだ。ごめん」
まだ早いと言われ続けて今に至る。うちは特別厳しいってわけじゃないけど、父さんが教師ってこともあってか、携帯だけは駄目だって許可が下りない。
白澤は大きな目を瞬かせた。
「そんなことってあるの?」
「あるよ、普通に」
僕以外にも何人かはいる。でも、東京では稀なんだろうか。
「そっか……」
しょぼんとした。目に見えてガッカリされたから、可愛いと思ってしまった。
可愛いってタイプじゃないと思ったけれど、可愛いところもちゃんとある。
変な意味で近づいたわけじゃないはずなのに、少しだけドキドキした。