【 26 】
僕は体育館を出てから一度も振り返ることなく走り続けた。走る必要はなかったけど、走りたい気分だった。やり場のない高揚した感情を発散させるようにして全力で走る。
長距離マラソンなら絶対にしちゃいけない走りっぷりで、僕は海沿いの道を急ぐ。テツがいたら、きっと喜んで並走しただろうけれど。
隣の家のソーラーパネルが見えてきた。もうすぐ。あと少し。
見慣れた近所の風景なのに、ある一点を見た途端、息が止まるほどに驚いて急ブレーキをかけた。息がひどく乱れて、この時になって汗が一気に噴き出す。
前かがみになって呼吸を整え、手の甲で汗を拭う。その間、道の途中に佇んでいた白澤が潮風にスカートと髪をなびかせながら僕をじっと見ているのを感じた。
早鐘を打つ心臓を思わず押さえた。この動悸は、走ったせいなのか、白澤のせいなのか――落ち着きかかった心音がまた激しくぶり返したのは、やっぱり白澤のせいだ。
「なんでここに?」
いつもの岩場じゃない、道の途中に。
白澤は僕に出くわしても驚いていない。ばったり会ったってわけでもなさそうだ。
気のせいじゃなければ、この道で僕が通るのを待っていたみたいに見える。
白澤はブラウスの胸元で拳を握ると、軽く息を吐き出してから言った。
「有紀子さんが、名塚が今から帰るから、途中で会えるって連絡くれたの」
「有紀子さんが?」
すると、白澤はこくりとうなずいた。
でも、僕からは絶妙に視線を外して、僕のつま先の辺りを見ている。
「その……相談できる友達もこっちにはいないし、東京の友達は名塚のこと知らないから上手く話せなくて。それで、ちょっとだけ有紀子さんに相談しちゃった」
それは……僕に告白されたと、そういう相談だろう。
それを聞いたら急に恥ずかしさが込み上げてくるけれど、有紀子さんはだから僕に自分の好きな人の話をしてくれたのかな。スポーツマンの有紀子さんには、あれがフェアなやり取りだったのかもしれない。
「そ、そう、なんだ……」
動揺が声に出る。平然とはしていられない。さすがにそこまで大人じゃないから。
それでも、白澤は有紀子さんに相談したおかげで答えが出せたんだろうか。だからこうしてここで僕を待っていた。
僕は覚悟を決めて白澤の言葉を待たなくちゃいけない。
白澤はやっぱり僕を見ないまま、風にさらわれてしまうような声でつぶやいた。
「……あのね、あたし、夏休みに東京に戻れるのをすごく楽しみにしてたの」
うん、知ってる。目に見えて楽しそうだったし、戻ってきてからも上機嫌だった。
それくらい東京が好きだって言いたいのか。だから、僕を含めてこの町に東京に勝るものはないって――
心がぐらつく。けれどそれは、白澤の言葉の先を僕が勝手に決めつけて悲観しただけのことだった。
次に続いた白澤の言葉は、僕にとって意外なものだったから。
「ここへ転校した頃は、最低でも夏休みには東京に行けるから、みんなに会ったらどこへ遊びに行こうかなとか、そんなことばっかり考えて退屈な日常を紛らわせてた。それで実際に東京で友達に会って、いろんなところに遊びに行って楽しかったけど、気づいたらあたし、東京のみんなに名塚の話をしてた」
「え?」
「せっかく東京に来てるのに、名塚に何をお土産にしたら喜ぶかな、とかそんなこと考えて真剣に悩んだの。あんまり凝ったものだと重たく感じるかな、とか食べ物にして嫌いなものだったらどうしようとか」
お土産のクッキーは美味しかった。
自分のお気に入りの店だってさりげなく言って渡してくれたのに、そんなに迷っていたのか?
白澤はやっと、恐る恐るといった様子で僕を見た。その目にはまだ疑いがこもっている。僕の言葉と気持ちがまだ半信半疑で、探るようにして白澤は続きを口にしていた。
「東京には名塚がいないなんて当たり前で、それをつまらないとか思うあたしも変で……。こっちに戻ってから名塚に会える日、あたし結構はしゃいでた。気づかれたかなって思ったけど、名塚は鈍いからバレなかったみたい」
鈍い。……うん、鈍いみたい。
かぁっと顔がほてっているのが自分でもわかった。そのせいか、白澤はちょっと笑った。
「多分、名塚があたしのことを好きになるよりも先に、あたしが名塚のことを好きになってた。わかってるの、それは。でも……東京にやりたいことは残ってる。名塚といるのは楽しいし、できるなら一緒にいたいけど、だからって全部は諦められないの。あたし、こんな気持ちで返事なんてできなくて……」
「うん」
僕は必死で言葉を吐き出す白澤を真剣に見守っていた。
一生懸命、駆け引きのない、ありのままの気持ちを語ってくれている。それが嬉しかった。
白澤は不器用だから、僕のことを好きだって感じてくれていても、その先に別れがあると思うと、じゃあそれまでの期間でいいやなんてことは考えられない。そういう子だって、少なくとも僕は思っている。だから、僕にこれを言うまでに結構悩んでくれたんだろう。
「なあ、白澤。僕はそれでもいいよ」
「え?」
白澤は弾かれたように、うつむき加減だった顔を僕に向けた。僕はそんな白澤の緊張を解そうと笑った。
「先のことなんてわかんないよ。だから今は一緒にいよう」
「……そんなんで、いいの?」
真面目な白澤は、僕の言葉に声を詰まらせていた。僕はそんな白澤にうなずいてみせる。
僕たちには大事なもの、手に入れたいものがありすぎる。
全部を守ることも手に入れることも多分できない。でも、今、目の前にあるものから目を背けて手を伸ばさなければ一生悔いが残る。それだけははっきりとわかるから。
「うん。お互いに探していこう。たくさんある大事なものの中から、たったひとつの譲れないものを」
僕にとってそれが白澤で、白澤にとってそれが僕であれば、僕たちの道は繋がる。
けれどそれは絶対じゃない。道の先は繋がらないかもしれないし、くっついたように見えてまた分かれるかもしれない。
それは結局、僕たち次第だから。
●
その翌年。僕たちは三年生に進級した。
僕の家の庭先、縁側に腰かけて僕は後ろを振り返った。
「理沙」
「うん、何?」
遊びに来ていた理沙が、足元にじゃれつくテツの頭を撫でてから僕の隣に座る。一年経って、なんとか僕の身長は理沙を五センチほど抜いた。でもそれくらいヒールの高い靴を履かれたらおしまいだから、ここで止まってもらっちゃ困るんだけど。
僕の背が伸びたように、理沙も変わった。あれだけ壁を作っていたけど、それを取り払い、自分からクラスメイトの輪に入る努力をした。
初めが肝心というのに、最初を随分悪い態度で過ごしてしまった理沙だから、受け入れられるのにはやっぱり少し時間がかかった。勇気も要ったと思う。
しばらくして、その輪の中に入れるように手を引いてくれたのは中川だった。
なんでだか、正直に言うとわからない。僕にはわからないけど、理沙にはわかるみたい。だから理沙は気づけば中川に『ナカちゃん』なんてあだ名をつけて親しんでいる。
女子のそういうところ、単純な僕には理解できないけど、でも、理沙が嬉しそうだから中川にはすごく感謝している。
そんなこともあってか、理沙は一年でぐっと大人びた。
今日は白地に黒いドットのワンピース。理沙は何を着ても似合うからって智哉に言ったら鼻で笑われた。そういう智哉だって僕のことを言えないくらいよくのろけるくせに。
「あれ、なんて花だか知ってる?」
爽やかな五月の庭先に広がる白い花。可憐って形容がぴったり来る。
僕はその花が咲き誇る辺りを指さした。理沙は軽く小首をかしげていた。
「うーん、ごめん、わかんない」
そういう僕も、毎年庭に咲いていたくせに、なんの花だか父さんが教えてくれるまで知らなかったんだけど。そこはあえて言わない。
教室で初めて会った時の取っつきにくさが嘘のように、理沙は僕の隣で可愛く笑う。僕もそんな彼女に笑って返した。
「ミヤコワスレっていうんだ」
「ああ、名前を聞いたことはあるかも」
「順徳天皇が都に帰りたい気持ちを慰められたからってそう名づけたんだって」
「えっと、承久の乱?」
さすが優等生だな、なんて感心してしまった。僕はその小さな花を眺めつつ、去年の出来事を懐かしむように話した。
「僕もミヤコワスレみたいに東京に帰りたい理沙の気持ちを慰めたかった。でも、ミヤコワスレは順徳天皇を完全に救うことはできなかったから、僕にそれができるだろうかって不安はいつもあったよ」
「じゃあ、基輝があたしの『ミヤコワスレ』だね」
そんなことを言う理沙。僕はこの繋がりが切れてしまわないようにこれから必死で繋ぎ止めておかなくちゃいけない。でもそれは僕にとって嫌な労力じゃないんだ。大事な理沙だから、僕は気持ちを伝えるのをやめない。理沙がそれを受け取ってくれると思いたい。
「誰かさんは都を忘れちゃくれないみたいだけど」
冗談めかして言うと、理沙は困ったように唇を尖らせた。
「それでいいって言ったじゃない」
僕は小さくうなずいて、寄り添う理沙の手を握った。
「うん、大丈夫。僕はまだまだ頑張れるから」
途端に理沙は照れてうつむく。
風にさわさわとミヤコワスレの葉が揺れる。
僕は笑った。
大好きな君のそばで。
《完》