【 25 】
玄関まで来ると、陽介さんはぽつりと言った。
「どうした?」
僕が陽介さんに言いたいことがあるんだって、すぐに察してくれた。
陽介さんは鈍い人じゃない。だから余計に、有紀子さんの気持ちもわかっている。
「ねえ、陽介さんって有紀子さんのこと、どう思ってるの?」
すごくストレートに訊いた。回りくどいことを言うと、僕よりも上手な陽介さんに煙に巻かれてしまうような気がしたんだ。
陽介さんはかなりびっくりして瞬きを繰り返す。
「本当に、いきなりどうした?」
「どうって、僕から見てもお似合いだなと思うんだけど」
強めの口調で言うと、陽介さんは困ったように苦笑した。
「有紀子は友達の一人だ。……前に言ったろ? 俺はそういうの、いいんだ」
陽介さん、僕に好きな人はいないって言いきった。でも、あんなに自分を好きでいてくれる有紀子さんのことをなんとも思ってないなんて、そんなことがあるんだろうか?
あるんだとしたら、それは陽介さんが誰かを好きになってしまわないように自分に言い聞かせているからなんじゃないかって気がするんだ。
だから僕は、おせっかいを承知で口を挟むしかない。
今はいない兄ちゃんのためにも。
「よくない。陽介さん、それじゃあ有紀子さんが身動き取れないじゃないか。嫌いなんだったら僕も仕方ないって思うけど」
心に深い傷のある陽介さんを支えたいって言ってくれた有紀子さんだから、僕はどうしても二人が一緒にいてほしいと願ってしまう。この先の陽介さんの救いが有紀子さんだって気がしてならないんだ。
陽介さんは僕の言い分に心底困ったんだと思う。駄々をこねる子供の相手をするようにゆっくりと言い聞かせる。
「……あのな、基輝。有紀子は駄目なんだ」
「どうして?」
僕は間髪を入れずに訊ねた。陽介さんは短く息をついて、そうして言いにくそうに言った。
「光毅は有紀子のことが好きだったんだと思うから」
兄ちゃんの、机の上の写真立て。
仲良く笑う部員たち。和気あいあいとした風景。思い出。
それらの意味が、陽介さんのひと言で一変した。兄ちゃんが机の上にあの写真を飾ったのは、大事な仲間たちとの思い出だからってだけじゃなかったのか。好きな人の写真をそこに――なんて、僕もその気持ちはわからなくない。
びっくりして瞬きを繰り返した僕に、陽介さんは少しほっとした様子だった。
「な? わかっただろ。有紀子は駄目なんだ」
そう言った陽介さんに、僕は頭に上った血が沸騰しそうだった。カッとなって思わず叫んだ。
「何が駄目なんだよ! 兄ちゃんのせいにするな!」
「も、基輝?」
陽介さんがうろたえた。それも仕方がない。僕は気づいたら泣いていた。
なんでだろう? 感情が昂りすぎて抑えられない。
「陽介さんは、陽介さんと有紀子さんが幸せになったら兄ちゃんが怒ると思ってるの? 兄ちゃんは、友達の幸せも願ってやれないような人じゃなかった!」
自分で叫びながら、零れる涙を拳で荒っぽく拭いた。これじゃあ小学生に戻ったみたいだ。
それでも、陽介さんが兄ちゃんのことを引きずりながらも、大事なことを見落としていることがすごく腹立たしかったし、悲しかった。
陽介さんはそんな僕に、ぽつり、と零した。
「……怒ったりはしないと思う。祝福もしてくれるだろうな。でも、光毅を悲しませたくないってずっと思ってた」
僕はひく、と一度しゃくり上げて陽介さんを見上げた。陽介さんはしょんぼりとして見えた。
陽介さんの傷は深い。僕はそれを知っているくせに、自分の願望を苦しんでいる陽介さんに押しつけているだけなんだ。
そんなことはわかっているけれど、それでも今、その傷の痛みを思い遣ることを優先したら、陽介さんはこの後どうなる?
ずっと一人でその傷口を抱えていくんだろう。それが本当に陽介さんのためなのかな?
時間が癒してくれるのかどうかもわからない大きな傷を癒すには、荒療治だって必要なんだ。
こうやって話さないと、陽介さんだって僕や有紀子さんの気持ちはわからないままだから、今はぶつかることを避けずに向き合うしかない。
陽介さんはそんな僕の言い分を勝手だと思うかもしれない。それでも、言わなくちゃ。
「兄ちゃんは悲しんだりしないよ。ほっとすると思う。今の陽介さん、多分怒られるよ。有紀子さんを悲しませるなって」
「……ほっとする、か」
ねえ、兄ちゃん。僕が陽介さんが前を向いていけるように背中を押せたら、それは兄ちゃんのためにもなるって、そんなふうに思うのは的外れなことじゃないよね?
僕は震えるくらい拳を強く握って、そうして陽介さんに訊ねる。
「陽介さんは、明日有紀子さんがいなくなっても後悔しない?」
「え?」
「僕はそんな後悔なんか絶対にしたくない。あの時、もっとちゃんと接するべきだったとか、可哀想なことをしたとか、そんなの後になったらなんにもならないんだ」
明日いなくなるって知らなかったから、僕は兄ちゃんに日頃の感謝を伝えなかった。
いつも面倒を見てくれてありがとう。
忙しい時も鬱陶しがらずに構ってくれてありがとう。
兄ちゃんの真似ばかりしたがる弟でごめん。
本当に、兄ちゃんの弟でいられて、僕は嬉しかった。
大好きだった。いつまでも一緒にいたかった。
――そんな言葉は、もう二度と本人には言えないんだ。
「大事な人に言葉を伝えるのを後回しにしたら後悔するって、兄ちゃんがそれを教えてくれたから、僕は自分の気持ちには正直でいるよ。陽介さんもちゃんと考えてよ」
思いのたけをぶちまけた。陽介さんは僕なんかよりずっと大人で、子供の僕にこんなことを言われたくないと思うけど、それでも言わずにいられなかった。
兄ちゃんはいない。この事実はもう変わらない。
生き残った陽介さんが兄ちゃんを忘れずにいてくれるのはありがたいけれど、でもこんな引きずり方は見ていてつらいから。
「……後悔、すると思う」
陽介さんは苦しそうに、やっとそれだけつぶやいた。
それが言えたのは、陽介さんにとって大きな一歩だったんじゃないだろうか。陽介さんは手で顔を覆って、そうして深々とため息をついた。
「光毅みたいにいなくなったら、多分もう耐えられない」
見送る苦しさを、陽介さんは知っているから。
僕はそんな陽介さんの二の腕をポンと叩いた。
「そういうことは有紀子さんに言ってあげてよ」
思わず笑ってしまった。だって、有紀子さんにそんなこと言ったら、なんて返すか想像がつく。
陽介より先に死なないって、逞しい言葉をくれるよ。
「なんて、僕も人の恋路に構ってる場合じゃないんだ。だって、僕も白澤に好きって伝えて返事待ちなんだから……」
胸を摩りながら正直に言うと、陽介さんはパッと顔を上げて目を見開いた。
「そうなのか? ……そっか、それで今日、一人で来たんだな」
「う、うん」
そうして、陽介さんは僕の頭をポンポン、と叩いた。
「基輝も頑張ってるんだな。ごめんな、心配かけてばっかりで」
「何回でも言うけど、僕だって陽介さんには幸せになってほしいんだから」
それが、涙が出るほど腹が立った一番大きな理由なんだ。
でも、陽介さんはきっとわかってくれた。それが表情からわかる。
「ありがとな、基輝」
「うん!」
大きくうなずいた。そうして、少しだけ笑ってみせる。
「陽介さん、今日の帰りにちゃんと有紀子さんと話してよ」
「え、今日か……」
陽介さんがたじろいだ。心の準備ができていないって言いたいんだろうね。
心の準備なんて、そんなのしようと思ったらどんどん言えなくなる。考える暇なんて、陽介さんにはない方がいい。
「そう。今日じゃないと駄目だよ。明日、何が起こるかわからないじゃないか」
畳みかけるようにして言うと、陽介さんは一瞬口ごもりながらも軽くうなずいた。
「わかった」
「約束だよ」
「ああ」
それを聞けて、僕はやっと安心できた。陽介さんが重荷で潰れそうでも、有紀子さんなら隣から手を差し伸べてくれる。
そう思えたから、僕は陽介さんに別れを告げて体育館を出た。
僕たちは今を生きている。つらかったことも全部、忘れられるわけじゃなくて、それでも胸に刻んで乗り越えていかなくちゃいけない。しっかりと前を向いて、そうして生きることが、それが叶わなかった人へのせめてもの敬意なんじゃないかな。




