【 23 】
僕は土曜日、部活を終えると家でじっとしているのもつらくなって、テツの散歩に行った。いつもよりも遠いルートで時間をかけた。テツが見るからに嬉しそうにはしゃいでいるのが、今の僕には結構な救いだった。
それから日曜日。今日は部活もない。
午前中はやっぱりテツの散歩。それから家に帰ると、父さんと母さんはまた二人で出かけていて、いなかった。
僕はなんとなく仏壇に手を合わせると、それから兄ちゃんの部屋に行った。部屋の主がいなくなっても、母さんはこの部屋を適度に掃除している。
白澤と公園で遊んだあのボールはまたこの部屋に戻った。僕がいつも乗っかっていたクッションの上に鎮座している。
僕はそのボールを拾い上げ、胸に抱え込むとクッションの上に体を沈めた。バフッと部屋の中を細かい埃が舞う。それが差し込む光に照らされてキラキラして見えた。
こういう時、兄ちゃんがいてくれたらなんてアドバイスしてくれたのかな?
それを聞きたかったけど、できないことを言っても仕方がない。
ボールを両手の指先でクルクルと回してみせる。そうしたら気持ちが落ち着くかと思ったけど、ボールに触っていると余計に白澤のことばかり考えてしまう。
僕はボールから視線をずらし、机の上の写真立てに目を向けた。あれを飾ったのは兄ちゃん自身だ。確か、何かの大会の時の――
いつも必ずと言っていいほど、兄ちゃんの隣には陽介さんがいる。でも、それだけじゃなくて、周りには多分同じバスケ部のメンバーがいる。よくよく見て見ると、マネージャーの女の子二人には僕が知る面影があった。
この女の子、有紀子さんと那奈さんだ。
五年で大人っぽくなったし、髪型も違うけど、多分そうだ。特に有紀子さんは髪の毛が長かったんだ? 今はショートカットだけど、当時のポニーテールもよく似合っている。
今まで、ずっとこの写真を眺めていたのに、兄ちゃんと陽介さんしか見てなかった。そうか、そういえば、僕が挨拶をした時、ちょっと反応していたかもしれない。
それに、後ろの方に小さく写っているのは匠さんかも。匠さんの髪の色は今、すごく明るいけれど、高校生のこの写真では黒いから印象が随分違う。
僕はぼんやりと、陽介さんに会いに体育館へ行こうかなって思った。
さすがに今日は白澤と一緒には行けないけど、僕だけでも行こう。一人で余計なことばかり考えているくらいなら、体を動かしてきた方がいい。
思い立った途端、僕はクッションの上から勢いよく跳ね起きてボールを元の位置に戻した。そうして部屋を出ようとしたけれど、ふと一度だけ振り返った。
机の上の集合写真。
――兄ちゃんにも好きな人、いたのかな?
●
体育館に行ったら、そこに陽介さんはいなかった。他の人たちはいたんだけど。
真っ先に僕に気づいて手を振ってくれたのは有紀子さんだった。
「あ、基輝くん! いらっしゃい」
活発で明るい笑顔を僕に向けてくれる。
「お邪魔します」
ぺこりと頭を下げてみんなのところに合流した僕の頭を匠さんが軽く小突く。
「おい、一人か? 理沙ちゃんは?」
う……やっぱりそれを訊かれたか。
「今日は別行動で……」
僕が苦笑いを張りつけて答えると、有紀子さんが他のみんなを目で黙らせてくれたようだった。
「理沙ちゃんにも用があるんでしょ。陽介も今日はちょっと遅れるって言ってたし」
「そうなんですか?」
陽介さん、遅れるんだ?
どうしようかな、と少し考えた僕の胸に有紀子さんはボールを押しつける。
「まあ、せっかく来てくれたんだし、とりあえず体動かしたら?」
綺麗に笑う有紀子さんに僕はうなずいた。
ここへ何度か白澤と一緒に通ううち、白澤に毬つきだと言われた僕のドリブルも少しくらいは様になるようになった。タンタン、とボールをついて走る僕の周りを有紀子さんがついてくる。
Tシャツから伸びた、細くしなやかな手が軽やかに僕からボールを奪い取る。白澤が、有紀子さんたちは自分よりも上手いって言っていたくらいだから、僕なんか到底敵わない。
いつもなら簡単に見送っただろうけれど、今日だけは何故か食らいつきたいような気持ちになった。
僕は有紀子さんの背中を負って駆ける。追いつくことはできるけれど、有紀子さんは巧みにボールを足の間を通して背中に回したり、いろんな工夫をして僕の手から逃れる。
僕一人ではやっぱり敵わないなと思っていたら、有紀子さんが僕に気を取られている隙に近づいた憲和さんが有紀子さんからボールを奪い取った。
「あっ!」
「油断大敵」
そう言ってニヤリと笑った憲和さん。パスを出して、ボールを受け取った那奈さん。僕はゴール下に向けて一生懸命に走った。那奈さんはそんな僕にボールを回してくれる。
「基輝くん、シュート!」
的確なパス。僕はボールを受け取って足を止めた。
背の低い僕だけど、それでも白澤の綺麗なフォームを思い出しながらボールを放った。ゆっくりと落下していくボールを眺めながら、僕は祈るような気持ちだった。
ポス、と控えめな音がして、ボールはゴールのどこにも触れることなく、ネットだけを正確に捉えて落ちた。それはゴールにボールが吸い込まれるようにも見えた。
那奈さんは喜んで、手を叩きながら飛び上がっている。
「すごいすごい、基輝くん! 綺麗なシュートだったよ! 光毅もロングシュート得意だったもんね!」
那奈さんの無邪気な言葉に、和やかな場が一瞬で冷えきった。敵チームの有紀子さんや愛美さんが慌てた顔をした時、那奈さんの口があ、と小さく声を漏らした。
やっぱり、みんな兄ちゃんと接点があったのかな。でも、僕を腫れ物のようにして扱わないために、僕の前で兄ちゃんの話はしないように決めていたのかもしれない。
ううん、それは僕のためというよりも陽介さんのためかも。
「ごめんね、基輝くん……」
那奈さんがしょんぼりとそんなことを言う。僕は首を振った。
「いえ。僕だって、兄ちゃんが試合でロングシュートを決めるところ、何度も応援席で見てましたから。那奈さんと有紀子さんはマネージャーだったんでしょ?」
僕が笑ったら、那奈さんたちもほっとしてくれたみたいだ。
「えっと……あたしと那奈はね。愛美はソフト部だったし。典幸は帰宅部で、クラスも違ったから、光毅との接点はあんまりないの」
有紀子さんもそんなことを言った。匠さんは頭をガリガリと掻きながら言う。
「俺はバスケ部だったけど、まあ補欠だったしな」
「そうだったんだ……」
こうしてここにいると、大人になった兄ちゃんの姿が少しだけ想像できるような気がして嬉しかった。生きていたら、こうして休日には好きなバスケをしていたのかなって。




