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【 21 】

 あれから五年。

 この五年は、僕たち家族にとって容易く過ぎた歳月じゃなかった。

 心にぽっかりと空いた穴を何度も何度も取り繕って、どうにか形を整えた――そんな日々だった。


 でも、ふとした時には思い出が僕を追い詰めるようにして湧き上がる。兄ちゃんとの大切な思い出なのに、どれも思い出すほどに苦しくなる。それでも、僕の思い出の中の兄ちゃんはいつでも笑っていた――



「基輝、お前も中学に入ったらバスケするのか?」


 兄ちゃんは部屋でボールを磨きながら僕にそんなことを訊ねた。

殺風景な兄ちゃんの部屋。でも僕はこの部屋が自分の部屋よりも好きだった。ひとつしかないクッションに陣取って、意味もなく兄ちゃんのそばにくっついている。小さかった僕にはそれが当たり前の日常だった。


「うん。そしたら背が伸びると思うから、そのうちに兄ちゃんも陽介さんも抜いちゃうよ」

「弟に身長で負けるとか絶対嫌だな。お前は野球部に入れ」

「えー! 野球部に入ったって伸びるかもしれないけど」

「さあな。でもお前は小さい方が可愛げがあっていいんだ」


 なんて言って笑っていた。兄ちゃんは父さんの若い頃にそっくりだって親戚の間ではよく言われている。僕はどちらかというと母さんに似ているから、兄弟でもそっくりってわけじゃない。


 頭の出来も兄ちゃんの方がずっといい。大学はレベルの高いところを狙えるだろうから、都会の方へ行ってしまう。


 覚悟はしていてもすごく寂しい。従兄弟たちは都会に行ったっきりそこで就職したり、年に一、二度しか帰ってこないんだから。兄ちゃんも家族を忘れて向こうで楽しく過ごすのかと思うと僕は寂しかった。


 でも、兄ちゃんは都会の大学へは行かなかった。

 そこへ行く前に天国へ旅立ってしまったから。


 兄ちゃんも陽介さんも僕から見たら十分に『大人』だった。そう見えたけれど、実際のところはまだ子供の部分が残っていたんだ。


 大人たちが口を酸っぱくして、危ないところへ近づいちゃいけないと言った言葉を、それほど真剣には受け止めていなかった。年若いその好奇心が兄ちゃんを殺した。


 あの時、この町はひどい豪雨に見舞われた。避難勧告が出るほどのことで、僕たちもいつでも避難できるように準備していた。そんな中、兄ちゃんと陽介さんは増水した川を見にいった。

 氾濫した川がどれほど危険か、聞いていなかったわけじゃない。でも、それを見たいと思ったんだって。


 危険ってものは自分とは縁のない、どこか遠くの世界の話のように感じられた。それくらい、僕たちの世界は平和で穏やかだった。だから二人はあえてその危険なものを見たいと思ってしまったんだろう。

 土色に濁った川の流れ、轟音、陽介さんは今も夢に見るって言っていた。


 二人の、ほんの少しの立ち位置が明暗を分けた。陽介さんは鉄砲水が押し寄せた時、とっさにそばのフェンスにつかまることができた。でも、兄ちゃんは――つかまれるものがなかった。陽介さんは手を伸ばすこともできず、流された兄ちゃんに向かって叫ぶしかなかったって。


 フェンスにつかまり続けた陽介さんの声を聞きつけた人が通報してくれて、陽介さんは救助された。でも、兄ちゃんはずっと下流の方でズタズタに傷ついた姿で見つかった。遺体がすぐに見つかっただけでも運がよかったなんて言われても、遺された僕たちにはなんの慰めにもならなかった。


 心が、半分にもがれたみたいに痛くて悲しくて、子供の僕は葬儀の間、なりふり構わずに泣きじゃくった。そんな僕に大人たちは優しかった。でも、父さんはぐっと我慢していた。母さんは泣いていたけど、燃え尽きたみたいにむしろ静かだった。僕たち家族は大きな喪失に満身創痍だった。


 こんなのが現実なんて嫌だ。目覚めたら全部夢だったらいいのに。

毎日そう思って泣きながら眠った。それでも現実は何ひとつ変わらずに朝を迎える。僕は僕で、兄ちゃんはもういなくて。


 二度と会えない。ここにはいない。

 その事実に僕は打ちのめされていた。でも、一番苦しんだのは多分僕じゃなかった。


 体が回復してから陽介さんがうちにやってきたその時に、僕はそれを知った。

 いつも兄ちゃんと仲良くつるんで、僕のことも可愛がってくれた陽介さん。自信家で輝いていた陽介さんは、びっくりするくらい顔色が悪く、やつれて見えた。まるで別人みたいに暗くて、僕にはそれが恐ろしくさえあった。陽介さんのご両親も一緒だった。


 家にやってきてお焼香をしてくれた陽介さんたちを、父さんと母さんはまず労った。お悔やみの言葉を並べた陽介さんのご両親に、母さんが薄い返事をしていたのを覚えてる。


 あなた方の息子さんは生きていらっしゃいますから、私たちの気持ちはおわかりにはならないでしょう、という言葉を必死で抑え込んでいる。それが僕にまで伝わった。明るいいつもの母さんの面影がそこにはない。


 父さんはそんな中でも落ち着いて、無言で肩を震わせている陽介さんを気遣っていた。その眼差しが陽介さんにはかえってつらかったのかもしれない。急に畳に伏せって陽介さんは叫んだ。


「俺も一緒に死ねばよかった……光毅だけ逝かせてごめんなさい!」


 あの陽介さんがそんなふうに泣くなんて、僕には考えられなかった。

 この時まで僕は、少しくらい陽介さんを恨む気持ちも持っていたんだと思う。どうして危ないってわかっている場所に行ったのか。陽介さんがひと言やめようって言えば、兄ちゃんだって行かなかったのにって。


 むしろ遺された陽介さんの苦しみを思い遣れるほど、僕は大人じゃなかったから。

 でも、その陽介さんのむせび泣きが、凍りついていた母さんを解かした。


「陽介くん、ご両親の前でそんなこと言っちゃ駄目よ。子供を亡くすことがどんなに悲しいか、私たちは身をもって知っているから、それだけは駄目」


 そう言って泣いた母さんの背を、父さんがそっとさすった。そうして、父さんは穏やかに保った声で陽介さんに言った。


「危険な場所へ行ったのも、思い留まらなかったのも、陽介くんと光毅だ。だから、君が悪いというのなら、同じように光毅だって悪い。むしろ、君が生きていていることが不幸中の幸いなんだ。死ねばよかったなんてことは絶対にない。陽介くん、君は光毅の分も生きて、君を見守っているだろう光毅に誇れる人生を歩んでほしい。それが光毅の親として私が君に望むことだ」


 終始落ち着いて見えた父さん。人前では決して泣かなかった。

 陽介さんにかけたこの言葉は、きっと父さん自身が自分に対して言い聞かせる意味もあったんだと思う。そうして僕も、兄ちゃんに恥ずかしくない人にならなくちゃいけないんだなって思った。


 それから陽介さんは兄ちゃんの月命日ごとにうちに来た。でも、高校を卒業してからは進学するのに地元を離れて、そうそう帰ってこられなかった。それでも度々電話をくれた陽介さんに、父さんは無理しなくてもいいから、学業に専念するようにって先生らしく言った。年に一度でも顔を見せてくれたら十分だって。


 陽介さんは結局、大学を卒業して地元に戻ってきた。陽介さんは生涯、この町で暮らしていくつもりをしているのかな。


 生き残って、そうして、陽介さんは兄ちゃんの一生を背負う。兄ちゃんはそんな陽介さんをどんな目で見守っているんだろう。

 僕以上に、陽介さんは兄ちゃんに会いたいんだろうな。


 でも、どこにもいないから。

 生きて、いないから。


 死んでしまった人には二度と会えない。

 生きてさえいてくれたら、どこにだって会いに行くのに――


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