【 13 】
夏祭があるのは神社の境内だ。
あの八幡神社は僕が――ううん、父さんや母さん、祖父ちゃんたちが生まれるもっと前からある。春には桜が綺麗に咲いて、花見がてらよく遊びに行った。石段を上った先に石の鳥居があって、その先が境内だ。
僕は当日、白澤を迎えにマンションまで行った。この季節の六時は夜とは思えないほどに明るい。白澤は三階まで呼びに行くまでもなく、マンションの入り口にいた。
僕は白澤の立ち姿にしばらく見とれる。
紺地に桃色の花が鮮やかな浴衣だった。それに黄色っぽい色合いの帯、髪の毛はまとめていて、連なった花の髪飾りが風に揺れる。
白澤は両手をそろえて巾着を提げて、いつも以上におしとやかに見えた。すごく大人っぽい。僕が隣にいても、本当に同い年には見えないんじゃないかな。
そんなことを考えた僕に、白澤はちょっと緊張したような顔で言った。
「何?」
何って、どういう意味だ? そう思ったけど――ああ、僕が立ち止まって無言で見ていたから変に思ったのかな。見とれていたって正直に言ったら、どう返すんだろう。
なんて、そんなの言えるわけがないんだけれど。
「ううん、大人っぽいなと思って」
そんなふうに言うのがやっとだった。白澤はちょっと複雑そうに小首をかしげた。
「それ、褒めてるの?」
「そのつもり」
なんで伝わらないかな。
でも、白澤はギリギリ納得してくれたらしく、うなずいてみせる。
「じゃあ、一応ありがとう」
不機嫌そうじゃないのに笑わないのは、もしかして照れている?
そう思ったら、こっちまで照れる。照れ隠しに僕はなんとなく口を開いた。
「祭って言っても小さなものだから、もしかするとガッカリするかもしれないけど」
「でも、名塚は毎年行ってるんでしょ?」
「うん、まあ」
そう答えたら、白澤は少し笑った。大人びた表情に見えたのは浴衣のせいばかりじゃない。
「じゃあ、行こ」
カラコロ、と白澤の下駄の音がする。僕は白澤への気持ちを自覚してしまったせいか、また緊張してきた。それを押し隠しながら白澤の隣を歩く。身長差はやっぱりほとんどない。
僕の身長は伸びないままなんだろうか。白澤の隣を歩くには相応しくないんだろうか。そんなとりとめのないことを考えてしまう。
それでも、沈黙に耐えられない僕の口からは他愛ない世間話が零れ続けていた。白澤はそれを受け止めてくれている。
「――そうなの? あたし、東京にいた時もマンションだったし、ペット禁止だったんだ。生き物は金魚しか飼ったことない。いいなぁ、犬」
犬、つまりテツのおかげで会話が弾む。ありがとう、テツ、と心でつぶやく。
「ミニチュア・シュナウザーの四歳。今度連れてこようか?」
「うん!」
大きくうなずくから、髪飾りが揺れた。無邪気な笑顔が可愛い。こういう顔もするんだって、知っているのは僕の特権。
歩道を歩いて神社に近づくにつれ、人が多くなっていく。親子とか子供たちも多いけど、カップルだって多い。僕たちはその中に紛れて浮くことはなかったはずだ。どこかに智哉たちがいたとしても気がつかないかもしれない。
祭の囃子の音が聞こえてくる。点々と吊るされた提灯の電球に蛾が吸い寄せられるように集まっていた。夏の夜の熱気は、祭のせいでさらに熱くなるけれど、不思議とそれは不快じゃない。ドキドキと心拍数が上がっていくのを感じる。
白澤は石段を上りながら物珍しそうに神社を見回した。日が暮れたら普段は薄暗いここも、祭りの時ばかりは賑やかなんだ。
出店とは言っても、本当にささやかなもの。かき氷、焼き鳥、焼きそば、ヨーヨー釣り、金魚すくい、輪投げなんていう一般的なものの他には、地元で採れた野菜なんかも並べて売られている。
多分それが白澤には不思議だったんだろう。なんで野菜が並んでいるのか考えているふうだった。
人に押されるようにして先へと進んでいく。祭になると、地元にはこんなにも人がいたんだなって思うくらいだ。東京から来た白澤は人混みには慣れっこなんだろうけれど。
僕はそう思っていた。でも、そうじゃなかったみたいだ。
急に僕のポロシャツの裾をつかんだ。
「あたし、ここへ来たの初めてなんだから、帰り道わからないからね!」
はぐれるほどじゃないし、そんなに複雑な道は通ってきてないけど、ちょっと不安げにそんなことを言う白澤が珍しくて、僕は頼りにされているのがどうしようもなく嬉しかった。舞い上がりそうな自分を落ち着けと諭しながら、僕は立ち止まらずに言った。
「大丈夫、ちゃんとついてるから」
こういう時、どさくさに紛れて手を繋いでみたりしたらどうだろう。
それも考えたけど、もし振り払われたら立ち直れない。だから、そんなことをする勇気は結局持てなかった。
「……不安なら裾、つかんでていいよ」
考えた末にそれを言うと、白澤はふぅ、と小さくため息をついた。
「こういう時、手を引いたりするものじゃないの?」
「へ?」
もしかして、元カレがそういうことするタイプだったとか? ふとそんなことを思ってしまった。都会だったら高校生まで付き合ったことがないとか、そんなの変なのかな。
ためらっているのを悟られたくなくて、僕は頭の中を空っぽにして白澤の手を引いた。細い手は、思ったよりも柔らかい。……なんてことより、白澤は自分で言ったくせに僕の行動にびっくりしたみたいだった。
「だって、こうしろって……」
不安になって訊ねたら、白澤は表情こそ変えないように努めていたけれど、耳が赤かった。
「言ってみただけなんだけど、名塚って自然にこういうことできるタイプなんだ?」
「え! なんでそうな――っ」
焦りすぎて僕は舌を噛んだ。ぐっ、と唸ってうつむく僕に、白澤はクスクス笑ってみせる。その顔が抜群に可愛かった。なのに、言うことはひどい。
「天然タラシだもんね」
「違うし!」
そうやって茶化すから、せっかく繋いだ手を離してしまう。もう一度手を伸ばすには、僕の心臓はデリケートすぎた。
僕たちは何かを買うでもなく、ただ並んで歩く。でも、歩いているだけだと境内は狭い。すぐに出店が切れて僕たちはなんとなくすぐに引き返した。
でも、それじゃあ早々に帰ることになるから、何かしようってことになった。
金魚はお互いの家に水槽の用意がないから却下だ。消去法で僕たちはヨーヨー釣りをする。
高校生にもなってヨーヨーなんて子供っぽいけれど、白澤とだったらそれも楽しいような気がした。
白澤は浴衣の袖を濡らさないように挟みながらフックのついた紙縒りを垂らす。その真剣な横顔を僕はじっと見つめているだけで満足だった。
要するに、白澤に見とれていて、僕には集中力がまるでなかった。さっさと紙縒りは水を吸ってプツリと切れた。
白澤は素早く上手にヨーヨーを釣り上げた。全部で六個。僕は一個。
「お嬢ちゃん、好きなの三個持っていっていいよ」
エプロンをした出店のおばちゃんがそう言ってくれたけど、ヨーヨーばっかりぶら提げていても邪魔になるから、白澤はひとつもらっただけだった。僕は最初からひとつだし。
僕が青、白澤はピンク。斑点模様は白澤が高速でヨーヨーをつくからまるで見えない。ドリブルしているみたいに必死でヨーヨーをついているから、ちょっと可笑しくなった。
そんな白澤を見て、何故かニヤニヤした小学生が通りすぎる。男の子だと思うけど、まったく癖のないサラサラの髪で、すごく可愛い顔をしていた。友達たちと遠ざかるその子に向かい、白澤は何か言いたげに口をパクパクさせた。そこで僕はやっと気づく。
「あれ? 今のって、もしかして?」
「……おとーと」
「ああ、そういえば似てたかも」
弟もちょっとこの辺りでは見ないくらい整った顔だった。
それに、他の子よりもオシャレだ。いかにも都会から来たっぽい。
「似てた? どこが?」
白澤は嫌そうにそんなことを言う。弟は顔に似合わずナマイキなんだろうか。
姉と弟。白澤も、当たり前みたいに喧嘩するんだ。僕にはそれが、すごく羨ましい。
それから、僕たちは境内の端の方に座ってかき氷と焼きそばを食べた。白澤の口には合わないかなって思ったけど、僕に合わせてのことなのか、美味しいって言ってくれた。
もしくは、祭の雰囲気がいい調味料になったってことかな。喜んでくれて僕も嬉しかった。
そんな僕たちにいくつかの視線が向いていたかもしれない。その先を辿ることはしなかったけど、智哉だったのか、クラスの誰かか。
でも、いいんだ。白澤がいいって言ってくれたから。
僕は人の目を気にすることをやめた。
僕たちはそれから、祭の空気を体いっぱいに詰め込んで神社を後にした。
日常とは違う、ほんのひと晩の別世界。楽しみにしていて、それが終わって、ここからいつもの毎日に戻るけれど、楽しかった思い出はしっかりと残る。
また来年もこうして白澤と来られたらいいのにな、と僕はぼんやり考えた。
白澤は僕の隣でヨーヨーをつきながら歩く。道路を走る車の走行音の中に、ヨーヨーを弾くリズミカルな音が混ざる。街路灯にうっすら照らされた白澤の浴衣姿は今日限りのことだから目に焼きつけておきたい。
そんな僕の視線に気づかないくらい、白澤はヨーヨーに夢中だから切ないけど。
すっかり暗くなった道を、僕は白澤を送り届けるためにマンションまで一緒に行った。
「今日はありがと」
ボソ、と白澤がガラスの自動ドアの手前で言った。マンションの明かりを背中に受けて、白澤の表情は逆光でよくわからなかった。
「ううん。僕も楽しかった。じゃあ、また」
「うん。気をつけて帰ってね」
そう言って、白澤は小さく手を振る。やっぱり、浴衣のせいか今日は仕草もおしとやかだ。僕は大きく手を振って返すと、白澤に背を向けて歩き出した。
その時、ふと歩き始めて一度だけ振り返った。どうして振り返ったのかはわからない。白澤はもうマンションの中に入ったと思っていた。
そうしたら、まだ入り口にいた。中に入る素振りもなく、じっと立っている。そこから僕を見ていた。
本当に、僕だけを――
そんなふうに思うのは自惚れだろうか。
僕が暗がりで転ぶんじゃないかとか、送ってくれたんだから見えなくなるまで見送るのが礼儀だとか、そんな程度の理由で僕を見ていただけかもしれない。
すでに遠ざかった白澤の表情はやっぱり見えない。
心臓がドクン、ドクン、とうるさく鳴り響く。僕も今、どんな顔をしているんだろう。自分でもよくわからない。誰にも見られたくない。
家に着くまで、どうか知り合いには会いませんように。
そこからもう一度大きく手を振る。白澤もまた手を振り返してくれた。じんわりと胸が熱くなる。
僕は今度こそ前に向き直ると、そのまま駆け出した。中指にはめたままのヨーヨーが激しく振れる。シャツの胸元をギュッと握りしめ、僕は夜道を駆け抜けた。




