【 11 】
白澤のいない七月。
僕は夏休みの初めに宿題をする。高校に入って夏休みの宿題はぐっと減ったから、先にしてしまった方が楽だってことを覚えた。でも、数学のわからないところだけ何問か飛ばした。
それから、智哉たち野球部の数人と、家の前の海で泳いだ。海開きのその日から、浜は海水浴客でいっぱいだ。僕は家が近いから着替えも楽で、みんなうちでシャワーを浴びて帰るのが毎年のパターンになっている。
僕の運動神経は中の下。自覚はある。
それでも、泳ぎは海ならそれなりに泳げる。流れの速い川なんて絶対に行かないけど――
人混みを避けるようにして泳いだ僕のそばに来て、智哉は海面からプハと顔を出すと息継ぎをする。それからゴーグルを外して僕に笑いかけた。目元の跡がうっすら残っている。
「あのさ、基輝」
「うん」
僕は波に揺られながら智哉の言葉を待った。いつも元気な智哉はキョロキョロと周りを見回した。でも、その仕草はちょっと挙動不審だった。
海水浴客は多いけど、それでも半径五メートル以内には誰もいない。照りつける太陽光の下、子供たちの無邪気な笑い声が周囲に響いている。
智哉はなんとなく言いにくそうに、それでも波の間でボソボソと言った。
「今年の夏祭な、俺、戸上と行くことになったんだ」
「ええ!」
思わず声を上げた僕の口を智哉が大慌てで塞いだ。智哉の立てた水飛沫が遅れて海面に落ちる。
「声がでかい!」
智哉の声の方がよっぽどでかいけれど。僕はその手を押し退けると、可笑しくなって笑っていた。
戸上奈央。隣のクラスの女子だ。
小動物みたいな、黒くて丸い印象の目と、少し大きめの前歯がリスみたいな――いや、褒めているんだ――ちんまりして可愛い子。癒し系でいつもニコニコしている。
この戸上はサッカー部のマネージャーなんだけれど、ある時、校庭の端を歩いていた戸上に、智哉の打った球が命中するっていう事件があった。
完全にファウルのゆるいボールだけど、当たりどころが頭だっただけに戸上もびっくりしたと思う。脳天にボールが降ってきたんだから。
本来なら気づいて避けられたと思うけど、戸上は少しおっとりしている。まさか自分の上に物が落ちてくるとは思わなかったって後で言っていた。ちょっとしたコブにもならずに済んだみたいだけど。
で、智哉はすごく焦って一生懸命謝ったんだ。そうしたら戸上は、避けてあげられなくて、こっちこそごめんねって笑った。
それからだ。智哉が戸上を見かけると上機嫌ではしゃぐようになったのは。
智哉の成績はアレかもしれないけど、見た目がいいだけじゃなくて中身もいいヤツだから、男女問わず人気がある。
それでさ、智哉が告白すれば戸上も満更じゃないと思うって、何度か智哉をけしかけたことがあった。
いつものノリなら、智哉はすぐに乗ったと思うのに、こと戸上に関してだけはびっくりするくらい慎重だった。
そんな簡単に言えるかって顔を強張らせていた。ああ、真剣なんだなって思ったから、僕はそれから茶化すのをやめた。
それがだよ。ついに、やっと前進したんだから、僕がびっくりするのも当然だ。
サッカー部の連中が絶対狙ってるとか言ってやきもきしていた姿を知っているだけに、この結果に僕も心底嬉しくなる。
「そっか、おめでと。やっとだなぁ」
しみじみと言った僕に、智哉は日焼けした顔を赤く染めて視線をさまよわせた。日焼けしてなかったらきっと、もっと真っ赤だったんだろう。面白いなんて言ったら怒るから言わないけれど。
「ん。なんかさ、緊張してカミカミですげぇカッコ悪かったと思うんだけど、戸上はニコニコしながら俺がちゃんと言い終わるのを待っててくれたんだよな」
微笑ましい。僕は自然に声を立てて笑っていた。
そうしたら、不意に智哉が僕をもの言いたげな横目で見ながらつぶやいた。
「基輝は?」
「え?」
「夏祭、どうするんだ?」
返答に困る質問だ。笑った仕返しかな。
それとも、今年は一緒に行けないから僕のことを気にしてくれているのかな。
僕はとりあえず黙った。
僕たちは泳ぎに来たはずなのに、温泉みたいに海に浸かって話し込んでいる。何をやっているんだろうなって思うけれど、話は続く。
「誰か誘ったのか?」
「……誘ったような気はしてるけど」
「オカンとかやめろよ?」
「違うし!」
バシャ、と智哉に水をかけてやった。水飛沫が夏の日差しに煌めく。
智哉は水のかかった首を軽く振ると、今度は真剣に言った。
「違うのか。じゃあ、女子?」
尋問だ。嘘はつきたくないけど、白澤はあの調子だから智哉にもちゃんと言えない。
結果、僕はまた黙ってしまった。
でも、その様子に智哉は何かを感じたみたいだ。ぽつりと零す。
「そうか、女子か。うちのクラスの?」
「智哉、この話はまた今度に……」
「なんで? 俺はちゃんと報告したぞ」
それはそうなんだけど、僕は微妙な事情があるんだ。
それが説明できないから困るわけで――
「誘った気はしてるけど、行くって返事はちゃんともらってない。だから、もうちょっと待ってよ」
それが今、僕が言える精一杯のこと。
智哉は不思議そうだった。
「返事をもらってない?」
「うん。考えとくって言われた」
何か変なことを言っただろうかと思うほど、智哉は目を瞬かせてからじっと僕を見据えた。そのうちに、ふと智哉の表情がゆるむ。
「いや、ほんとに女子なんだなぁ」
「……どういうこと?」
僕が女子を誘うのがそんなに変なのか?
思わずムッとすると、智哉は僕の頭をポンポンと叩いた。まるで子供扱いだ。
「お前って、誰にでも分け隔てなくて、女子とか男子とかそういう区別してないみたいに見えたから、特別意識する子ができるのも当分先かなって思ってた」
「へ?」
「誰にでも優しくて、誰も特別じゃないってのかな。みんな友達って感じがした」
「……そうかな?」
「うん」
そうだったのかな。そうだったのかもしれない。
嫌いな人もいない。みんないい人ばっかりだと思う。
みんな、同じくらいの『好き』ってことなのか。
じゃあ、白澤に対して僕はどうなんだろう。
東京へ行って何日目だとか、後何日で帰ってくるとか、そんなの数えてしまう僕は、白澤をどう思っている?
会えない間、白澤は何をしているのかな。向こうの友達とは僕以上に親し気に話すんだろうなって、僕は毎日そんなことを気にしている。
こういう時こそ、電話するほどの用事がなくても、携帯があればメールでやり取りくらいできる。携帯持ちたいって父さんに頼もうかなとか真剣に考えた。
白澤は東京にいる間、楽しくってこっちの僕のことなんか思い出さないんだろう。そう思うと割と悲しかったり――自分でも不思議なくらいの心の動きがある。
考え込んでしまった僕に、智哉はぼそっと言った。
「上手くいくといいな」
「うん……」
僕も苦笑して返した。
次に白澤に会う時、僕はこの不確かで曖昧な自分の気持ちにはっきりと名前をつけられるかな。
相手が相手なだけに不安しかないけれど。
そうして僕は、白澤が帰ってくるって宣言していた三十日を一日過ぎてから白澤の携帯の番号をプッシュした。




