6 昏く穢れた檻の中で
岩室は今居る場所と同じくらいの広さであり、見た目では他に繋がっている様子もない。もちろん、同様に崩せば現れるかもしれないが。
そして、大した物も見当たらない。
そう、『物』は。
「うぇ、何これ? 文字? 呪われてそうな雰囲気なんだけども」
固まってしまったセレンディアの肩口からアディーレが中を覗き込むと、思わずそんな感想を漏らした。
物はなかったのだが。
岩壁一面に、それこそ地面から天井にまで、びっしりと文字が書き殴られていたのだ。それも、血を連想させる赤で。
いや、実際に血なのかもしれない。気付けば血臭が立ち込めていた。閉ざされた空間に溜まっていたものが流れてきたのであろう。
セレンディアの血の匂いには昂ぶるシルフィアーノであるが、この臭いには鼻を摘まんで顔をしかめた。
更には霊力がおかしな具合になっているのか、粘り、まとわりつき、長時間滞在していたら病んでしまいそうな毒気のあるものとなっている。
不愉快さを少しでも紛らわそうと彼女の主を見上げると……苦しそうに、浅く小さく呼吸を繰り返していた。
「……っ」
重く、空気に染み付く鉄錆の臭い。
澱み、腐ってゆくばかりの小さな世界。
暗く、一片の光の差す余地もなく。
そこにはただ、絶望と共に縛り付けるだけの――
「マスター」
「っ……うん」
すっと耳に滑り込む柔らかい声と、袖を小さく引かれる感触に、セレンディアの鼓動は少し落ち着きを見せる。
あれは過去だ、と忘れるように首を軽く振り、深呼吸をしようとして、濁った空気に今更眉根を寄せた。
「霊的な何かが篭められているのは明らかにわかるんだけど……あたしは専門じゃないからそれ以上はわからないなぁ。セレちゃんには何だかわかる?」
セレンディアの変化に気付かなかったのか、アディーレがさして変わらぬ調子で問いかけてくる。セレンディアも気を取り直すべく調査の方に意識を切り替えた。
「えーと、これは……少なくとも、普段ボクたち術士が使っている霊術用の文字でも、精霊用の文字でもない……ですね。でも、どこかで見たことはある……ような……」
どこで見たのだったか思い出そうとしていると、掴まれたままだった袖がさらに引っ張られた。
首を傾げるようにシルフィアーノの方へ視線を向けると、何とも言えないような表情をしていることに気付き……どこで見たのか、思い出した。
シルフィアーノから経路を通じて流れてきた、嘗ての記憶。すなわち。
悪魔の文字。
悪魔であるシルフィアーノがこの文字を知っているのは当然だ。であるのに、このような微妙な、バツの悪そうな顔をしているということは。
――使ったことがあるんだね、とセレンディアはその理由に思い至った。
素人が見ても察することができる、良くない意味を持ち合わせているであろうこれを、己の主のトラウマを想起させるようなものを過去に使用したことがあるその事実に、居心地の悪さを感じているようだ。
セレンディアはそっと息を吐いてから、掴まれている方の腕を軽く振り、その手を離させた。
「――っ」
振り払われたことに、シルフィアーノの肩は大きく跳ね、顔色は蒼白になった。
気に障ってしまったのか、嫌われてしまったのだろうか、負の思考が刹那の間に脳裏をぐるぐると駆け巡る。理由に心当たりが多すぎて泣きそうになった。心当たりがないなどと全くもって言えないのが物悲しさを助長させる。
慌てて許しを請おうと縋るように顔をあげようとしたところ、上から抑えられた。
「わぷっ」
彼女の行動を遮ったのは断罪の鉄槌などではなく、幼子をあやすような穏やかな手だった。
シルフィアーノは紛うことなき悪魔である。セレンディアと契約してからはそれらしい行動をしていないので目撃したことはないが、多くを語りたがらない過去には、それこそ悪魔と呼ばれるに相応しい所業を行ったこともある。
それでも。共に在ることを望んでいる。自分が人としておかしいのだと、自覚していても、なお。
セレンディアは拒絶のために手を振り払ったのではなく、ただ単に『気にする必要はない』と示そうとしただけだった。
それを察し、自分の早とちりと気付いたシルフィアーノは一転して頭を撫でられていることに喜び、しまりのない笑顔になった。この真っ直ぐわかりやすい部分も、憎めない理由の一つでもあったりする。
「シロ、わかるんでしょう? これの意味。教えて」
「あ、はいっ」
主の要請にこれもまた一転してキリっとした表情になる。
面白いなぁ、などとひっそりと思われてることにも気付かず、言葉を探すために少しだけ沈黙してから語り始めた。
「これは、わたくしたち悪魔が開発した……とされている文字ですわ。曖昧なのは起源が不確かだからですが、今はそこは気にしないでください。
霊術用の文字と同様で術の補助や、その場所に継続的に術の効果を及ぼす陣を作成するために使われたりします。この場合は後者ですわね。
血臭がするのは、人間ならインクで作成するところをご覧のように血で作成しているから。『何の』血なのかまではわかりません。
そして、これの効果は――監禁と搾取。
霊力を帯びる生き物なら何でも、精霊ですら囚われる。
生かさず、殺さず、延々と。
霊力が最後の一滴になる寸前まで喰らい、回復を待ってはまた喰らう。
愉しみながら、嘲笑いながら、壊しながら、呪いながら、堕としながら。
囚われたモノは永遠に続く痛みに発狂し、それでも自死は許されない。
終わるとすれば、それは術者が飽きた時か、陣が劣化して壊れた時のみ。
……とまぁ、悪趣味なものですわね」
極力感情を篭めないよう淡々と述べていたシルフィアーノだったが、重くなる空気を察して適当なところで切り上げた。
実はもう一つ大きな意味があるのだが、その内容はあえて避けていた。己の悪事を自白するかのようでセレンディアに知られたくないという臆病心もあるが、ここに部外者が居るのが大きな理由だ。
「……何で、こんな、ことを? 何て言うか、その、無駄が多い、と言うか……」
アディーレが理解できない、というような顔で呟く。
そう、こう言っては何なのだが、この陣の効果は無駄が多い。搾取するだけなら霊力を絞って回復するのを待つ、それだけでいい。むしろそれ以外は対象の回復力を弱め、時間が経過するにつれ効率が悪くなっていくばかりだ。
しかし――
「アディーレさん」
シルフィアーノが視線を向けた。当人にとっては何のこともない、何の力も、理由もない、ただの、抜け殻のような視線。
「こういうことをやるのが、『悪魔』ですわ――」
その何でもないような言葉に、アディーレの背筋が震えた。
シルフィアーノは悪魔だ。それは知っている。
知っている、つもりだった。
強い力を持ってはいるが、いつもセレンディアにべったりと甘えて、おバカな言動ばかり繰り返して。
悪魔とは言っても怖くはない。
そう、思っていた。
アディーレは、今初めて、シルフィアーノを恐れた。
ごくりと唾を飲み込み、弓が引き絞られるように気の質が変わってゆく。
そして、無意識のうちに手が剣の柄へと――
「はーいシロー、そこでストップしようかー」
「いた、いたたたたたっ」
セレンディアが間延びした声をあげつつシルフィアーノの耳を引っ張ることで、チリつくような空気は発火することなく霧散していった。
アディーレも唐突な悲鳴に呆気に取られ、気勢がすっかりと削がれたようだ。
「い、いきなり何をするのですかマスターっ」
シルフィアーノにしても不意打ちすぎて思わず涙目になりつつ、特に何も悪いことをしていない(はずである)のに痛みを与えられたことに抗議をする。
が、振り返った視界に入ったセレンディアの困ったような顔に、瞬時にして激しく悪いことをしたような罪悪感に襲われる。
が、続けられた言葉により、それも瞬時に彼方に飛んでいってしまった。
「シロ。ボクはどんなキミでも好きだよ。でも、無表情はダメ。絶対。
ちゃんと笑って、泣いて、怒ってほしい。キミが望まないキミにならないためにも――」
シルフィアーノは過去の自分が嫌いである。これまでも過去を語りたがらない様子に何回か遭遇し、セレンディアにも察することができた。
今でこそこんなおバカであるが、出会ったばかりのシルフィアーノは喜怒哀楽が薄く、脳裏には常に計算を巡らせていた。
……その状態は言い変えれば理知的で、物事に動じないクールビューティーでもあったので、『どうしてこうなったんだろう』と思ったりすることもあるのだがそれはさておき。
シルフィアーノが無表情であると、どうしても思い出してしまうのだ。
彼女が痛みと絶望を、仮面で隠していた日々を。
過ぎ去った時に絡め取られ、引きずられてしまいそうだった日々を。
セレンディアと会う以前の頃には絶対に戻りたくない、シルフィアーノはそう言ったことがある。
だから、セレンディアは引き留める。気付かせる。
『キミの心は、ちゃんと生きている』 と――
今、実際にそこまで考えていたのかは定かではないが、根底は変わらない。
ただシルフィアーノが心配なのである。
……まぁ、その心配が(間違っているわけではないが)変な風に伝わることは多々あるのだけれども。
「ま、マスターが……マスターが……わたくしのことを好きって!」
「ねぇ食いつくのそこ!?」
感極まって抱き着きながら相変わらずのズレた発言をするシルフィアーノに、相変わらずの即ツッコミをいれるセレンディアであった。
もはや日常すぎて、これもきっと、幸せの一つ。
そんな、ギャーギャーと騒がしく姦しく、じゃれあう主従を眺めていたアディーレだったが。
「……ぷっ……あは、あははははははっ」
「!?」
考えるのが馬鹿らしい、とばかりに腹を抱えて笑いだす。
この悪魔は恐怖の対象になりうるが、警戒する必要はない。
少なくともセレンディアが居る限りは。セレンディアに敵対しない限りは。
先刻、身の内に沸いた感情を吐き出すかのように笑い続け、それを向けられているセレンディアはシルフィアーノに抱き着かれながらも疑問符を飛ばすしかできなかった。
なお、グラフはこの主従のやりとりはやはりいつものことだと傍観……すらしていない。地味に周囲に気を配り、自分なりに調査分析をしていた。スルースキルが高い、もとい真面目なのである。
「話を戻しましょう」
よくわからないままに散々笑われ、釈然としないながらもいつまでもそうしているわけにもいかず、逸れに逸れた話題を元に戻す。ついでに未だくっ付いてたシルフィアーノをやんわりと引き剥がす。
この迷宮の奥まで来た目的は三つ。
一つは被害状況の確認。これはもう、他に人は居なかったと判断していいだろう。
一つは巨大スライムの発生原因の調査。
一つは噂のお化けの調査。
セレンディアはすぐに済みそうな方から先に切り出した。
「あのスライムの件ですが、発生原因はこの部屋でしょう。この部屋から漏れ出る霊力を喰らい急激に育った。もしくは、少しずつ育っていき、最奥……この隣の部屋のことですが、元々は通路が埋まってて長いこと誰にも見つからず、しかし何らかの理由で最近開通して外に出てきた、という感じでしょうか。あぁ、悪魔が飼っていたけれど放棄された、という線もあるかもしれませんね」
「ふむ、なるほどねぇ」
専門家でなくしっかりとした調査を行ったわけでもないが、セレンディアのその推測にアディーレは納得の色を見せた。
実際はどうなのか突き止めようにも、唯一真相を知っている、ここで活動していた悪魔はすでに居ないようであるし、捕まえろと言われてもこれだけの情報では無理である。とりあえずはこの陣を消せば同じことは起こらないだろう、ということくらいか。
「シロ、この陣の内容覚えておいてね。ギルド長に報告しなきゃいけないから」
「わかりましたわ」
報告はもちろん、主犯悪魔がまだどこかをうろついている状態で、今後同じような事件が発生する可能性があるために対策も必要である。
……誰が悪魔の術に詳しいのか、という問題があり、貴重な意志疎通の可能な悪魔であるシルフィアーノ共々巻き込まれるのだろうか、と内心ゲンナリした。
「そして、お化けの件ですが――」
「え、わかったの?」
「はい、グラフが『発見』してくれました。霊力絡みの問題でしたし、この子も精霊ですからね」
いつの間に、と目を丸くするアディーレがグラフの方を見る。犬顔なのでよくはわからないが、どことなく得意そうな――尻尾が揺れている――様子であった。
「なんだかなぁ、これじゃあたしが一番役立たずだねぇ」
前半はともかく、スライムの登場の頃から碌に事態に対応できておらず、ひよっ子だと思っていた後輩に頼りっきりとは自嘲するしかない。
セレンディアに期待してこの迷宮に連れてきたのは確かだが、自分がこの様では立つ瀬がないと感じてしまうのも仕方ないだろう。
「いえいえ、たまたまボク……ボクたちの得意分野だっただけですよ」
相手がただの――というと語弊があるが――巨大スライムで霊力でのゴリ押しができたセレンディア、自身が悪魔であり当然悪魔に対する知識があるシルフィアーノ、地形を利用した術が得意で当然霊力関連には気付きやすい精霊グラフ。基本的に霊力やら種族やらで解決しており、たまたま状況にハマっただけと本人は考えている。
十分に誇っていい内容であるのに、調子に乗るわけでもなく謙遜をするセレンディアの自己評価の低さにアディーレは気掛かりを覚えないでもないが、自分への反省と共にひとまずは心の棚に置いておくことにした。
「で、お化けだけど……霊力絡み?」
「はい。そこに『居ます』よ」
えっ、という声を聞きながら部屋の奥へと視線を向けるセレンディア。そしてこの部屋を照らしていた光球――霊力の塊の位置をずらす。
少し暗くなったそこには、小さく、ほんとうに微かな光を放つモノがセレンディアの瞳に映った。
「アディーレさんには見えないかもしれませんが……あれは精霊です。……おそらく、ここで捕まっていたのでしょう」
「――っ」
思わぬ『犠牲者』の登場に、アディーレは息を詰める。
「あの精霊が少しでも生き長らえるために、ここを訪れた人たちの霊力を奪っていたのだと思います。いえ、ひょっとしたら助けを求めていただけなのかもしれません」
霊力を奪われ続け、苦痛で正常な判断もできなかっただろうに。
近くを通り掛かる人が居ても誰も自分に気付いてくれず、助けてもらえず、絶望が増すばかりだっただろうに。
それでも、なお、あの精霊は、精霊として存在を保っていた。もはや死に体であるのだが。
シルフィアーノと出会う一歩手前、いや、一歩遅かった自分を見るようで、セレンディアの胸はやりきれない気持ちで一杯であった。
この精霊は、もう救えない。
霊力を摂取し、その身を修復するだけの力が残っていない。
本当に、もう、最後の一滴。
だからせめて、セレンディアはその消滅を静かに見守ろうとした、のだが。
『主よ。あの精霊、何か、言っている』
「……えっ?」
グラフから伝えられた念話に、慌てて耳に意識を集中する。他の皆も自然と口を閉じ、訪れた静寂の中、それでも微かにしか届かない、本当に小さな声。
『……このまま……』
『……危…………光の……霊が……』
『……助……しい……』
「……なんですの?」
セレンディアに合わせてシルフィアーノも耳を澄ましていたが、ぶつ切れでところどころが聞き取れない。
もっとよく聞こえないかと足を一歩踏み出したその時。
『う……うわあああああっ! あく、ま……悪魔めええええええええっ!!』
シルフィアーノ――悪魔の存在に精霊が今になって気付いたのだろう。
自分をこのような目に遭わせた憎き悪魔へと一矢報いようとしたのか、人違いならぬ悪魔違いであるのだが、瀕死の精霊にそのような分別を付けろというのも無理がある話で。
ロウソクの炎が燃え尽きる間際に一瞬大きくなるかの如く、わずかだったその身の霊力を爆発させ、シルフィアーノへと猛然と迫る!
「!?」
予想だにしなかった出来事にシルフィアーノは避けることができず、その光は――
「それは、許さない」
――セレンディアの伸ばした手の平により、遮られた。
「光の精霊が閉じ込められて危ないから助けてほしいんだね? 似たような経験がボクにはある。だからボクはキミに同情するし、キミの願いをできるだけ叶えられるよう努力するよ。
悪魔に復讐したかったんだね? こんな酷い扱いをされて、恨み辛みが溜まる気持ちもわかるよ。
でも……シロに手を出すのだけは、許さない。
……このままでもキミはもう間もなく消えるだろうけど、キミが『堕ちる』前に消すね」
最後は囁き声で、他の誰かに聞かれることを避けるように。
そうして手の平に霊力を集め、精霊を握り潰すようにぎゅっと力を篭めた。
これは正当防衛であるが八つ当たりでもある。頭の隅でいくらか申し訳なく思いつつも霊力を弱めることはせず、やがて自分のもの以外の霊力が消滅したことを感じ取った。
「……マスター……その」
庇われたシルフィアーノがおずおずと声を掛けたが、セレンディアはにっこりと笑顔を見せることで続きを封じた。その手の平はずっと握られている。
ない交ぜになった感情の吐き出し口がない、というのもあるのだが、主な理由は、火傷した手の平をこっそりと治療中であるからだ。
もちろん、肉の焼ける臭いがしているので、シルフィアーノは気付いている。気付かれていることを知った上で、それ以上を言わせないようにした。あまり騒がれると、芋づる式にアディーレにまで色々とバレてしまいそうであったから。
――精霊は、悪霊へと堕ちることがある。
もはやそれは愛すべき隣人などではない。怪物と、何も変わらない。
精霊使いの間では割と知られていることであるが、逆に言えば精霊使い以外で知っている人は少ない。
悪意や苦痛、恐怖に晒され続けることで変化するため、ある日突然、ということはないが、精霊は街の中にもそれなりの数が存在しており、すぐ側に居る者たちが『敵』になるかもしれない、と言われて平気な人がどれほど居るだろうか。さりとて今更精霊を排除し、害のある者として扱うこともできない、悩ましい問題である。
ひょっとしたらアディーレは知っているかもしれない。でも知らない可能性もあるので、藪を突くに越したことはない。口の堅さを信用していないわけではないが、自分から伝えるのは憚られた。
とりあえず、今さっき何が起こったか把握できていないのだろう。疑問を投げかけてくる。
「あの、セレちゃん。一体何が……?」
「……こんなでもシロは悪魔ですからね。悪魔に痛い目に遭わされた精霊が恐慌状態に陥ってしまったのでしょう。元々消滅寸前でしたし、それで霊力を使い切ってしまったのだと思います」
シルフィアーノに危害を加えようとしたことを除けば、この精霊の境遇と顛末は痛ましいことである。黙祷するように目を伏せ、他は何もないというような態度を見せる。
納得したのかしていないのか、その胸中はわからないが、これ以上の追及はなかった。
「アディーレさん。この陣は今は効力を失っていますが、復活する可能性もあります。再利用されないよう、消してしまいますね」
「……そうね、犠牲者が増えてはいけないもの」
上位者の言質を取ったことにより、気が変わる前にそそくさと消して――浄化してしまおうとセレンディアは準備を始める。
再利用されないよう、というのは本音である。しかし本音の本音は……ひょっとしたらシルフィアーノを連れて、調査のために何往復もさせられるかもしれない、と面倒くさい未来を回避するためであった。
セレンディアはどちらかと言えば善人に分類されるが、他人のためにそこまで奉仕できるわけでもない。効力は失われているのだから実物を見たところで大して意味はない、悪魔の文字がわかればなんとかなるだろう、という考えである。
ちなみに、シルフィアーノはこれまでの言動から想像も付かないだろうが、元々頭は良いのだ。その叡智は失われてはいない、はず。きっと。多分。
「ジンとルカが居ればもうちょっと楽だったんだろうけど……っと」
ルカが流れを操り、ジンが空間を満たす。この場には居ない彼女と彼の術の使い方を参考にしながら、組み立ててゆく。
残念ながらグラフは物体ではないものの操作が苦手であるし、シルフィアーノは浄化ができない。むしろ天敵だ。だから見学するのみである。
詠唱すること五分ほど。時間が掛かったのはやはり未熟者が霊力量にあかせて構築しようとしたのと、それでいて焦る必要もないので自分の体を傷付けないよう注意を払ったから。そしてシルフィアーノに配慮したからである。
悪魔は光属性に弱く、通常の浄化術だとシルフィアーノまで余波を受けてしまう。それゆえ、別の属性を付加することで効果を落とさず影響を弱めようとしたのだ。……それがどれだけすごいことであるのか、自覚もなしに。
完成したのは、水と風と光の複合霊術。
「遥か彼方の聖領域――」
アディーレが呆気に取られるのは今日これで何度目であろうか。
霊術にそんなに詳しくないというのもあるのだが、『消す』と言っていたのを、単純に汚れ落とすために水を出すとか、岩壁を削るとか、そんな想像をしていた。
しかし実際はどうだ。
さして広くない空間とはいえ、濁った空気が涼風によりむしろ爽やかと言えるまでになった。壁面に塗りたくられた血が水で流すように消えていき痕跡もなくなった。そして、陰湿で、劣悪で、汚染されてしまった霊力が、術師でなくてもその身で感じられるほどに清冽になった。
怪物の湧き出る迷宮とは思えない、それこそ目を瞑れば術名のように聖域だと勘違いしてしまいそうなほどに、世界が変わった。
シルフィアーノを抜きにしてもこの子を敵に回すべきではない。アディーレはこの光景を見ながら、そのようなことを思ってしまった。
余談ではあるが、この後三日間程、イゲート迷宮全体で怪物が沸かなかったらしい。
セレンディアが浄化の術を使い、悪魔の作り出した檻を完膚無きまでに破壊していたその頃――
薄暗く、砂埃に塗れ、広くはあるが息苦しい場所で。
「――あぁ……なんだか……少し、なつか……し、い……」
一人の少年が、息も絶え絶えに小さく呟いた。