xx とある従魔の追憶
人間はもちろん、悪魔にも海は渡れない。
まず単純に、距離の問題がある。この世界に生きる者たちにとって、海を越えた先にある大陸はとてつもなく遠いのだ。誰も見たことがなく、『本当に存在するのか?』と疑問視されているレベルである。
泳ぐのは論外であるし、この距離を渡り切れる船は現時点において存在しない。あったとしても途中、海流の激しい部分があり、飲み込まれてしまえば海の藻屑となってしまう。
空を飛ぶことができたとしても、途中で身を休めるところがなく、力尽きて落ちてしまう。そうなれば待つのは溺死のみだ。
次に、悪魔は光に弱い。
光を浴びれば死ぬ、ということは(極一部の悪魔を除き)ないが、大小の差はあれどダメージは負う。
その光が、海上だと防げない。その上、海面からの照り返しで全身に光を浴びることになる。マントなどを纏えばある程度は防げるが、影響を全て遮断することは不可能だ。
エネルギー事情も外せない。
精霊であれば大気中の霊力だけで事足りることが多いが、悪魔はそうもいかない。奪わねば、生きていけない。
海上に他の生き物はほとんど居ないし、魚類を捕獲しようにも海中では機動力に負け、また首尾良く捕まえたとしてもそれはそれで体力を消費してしまうし、濡れることで体が冷えてしまう。
だから、彼女、シルフィアーノが海を渡り切ったのは、奇跡としか言いようがなかった。
曇天が続き、光を浴びることが少なかった。雨は雨で体力が削られるので、曇り空は非常に都合が良かった。
道中で小さな島を発見できた。地図なんて存在せず、誰にも知られていない島を、それも何度もだ。無人だったので霊力は得られなかったが、体を休められるだけでも大助かりだった。
また、海底に霊脈が通っていたのか、海上まで霊力が豊富なところがあり、それでいくらか補給できたことも大きかった。
それでも海は広大で、先は見えなく。
彼女はただ『死にたくない』という一心で、当てもない逃亡を続けていた。
幾度となく挫けそうになった。気力が萎えた。諦めが脳裏をよぎった。最後の方には、何のためにこんなことをしているのかすらわからなくなった。
命を削りながら、心を擦り減らしながら、それでも彼女は飛び続けた。
そして、幾日――当人には何年にも感じられた――の後の夜に、それは報われた。
大陸が見えたのだ。
海岸線沿いに火の灯った建造物が建ち並んでおり、生き物が住んでいる、霊力にありつける、と最後の力を振り絞った。
彼女にとっての最大の奇跡は、その街にセレンディアが住んでいたことだと今でも強く思っている。
残存霊力はゼロに近くほぼ気力だけで海岸に辿り着き、シルフィアーノは霊力を求めて今にも崩れ落ちそうになる重い体で、足を引きずるようにしながら歩いた。
そして間もなく気付く。
この場所が霊脈の上を通った時より豊潤で、なおかつ今まで味わったことのない、最高に自分好みの芳醇な霊力が溢れていたことに。
極限まで飢えていたシルフィアーノはすぐさま貪欲に霊力を喰べた。
涙を流しながら。生きていると強く実感しながら。生まれて初めて、何かに感謝をしながら。
しかしこれだけでは彼女の空腹を満たすことはできなかった。だから彼女はもっと喰べられないかと周辺を探索し、この霊力がとある小さな屋敷から漏れ出ていると知覚した。
涙を拭き、舐められないために精一杯の見栄で平気な様を装い、『これほど濃密な霊力を溢れさせるのは相当の実力者だろう』と用心しながら近付いていった。近付きながらも摘まみ食いは忘れない。こんなに美味しいものを、残していくなんてありえない。
発生源は二階か、と静かに飛び窓からそっと中を覗く。明かりは点いていなかったが夜目は利く方であるし、月明りも差し込んでいた。十分に見ることができる。
目にした光景に、シルフィアーノは衝撃を受けた。
痩せっぽっちで、薬臭を漂わせ、血まみれで、今にも死にそうな小さな人間の子どもが、信じがたいほどの大量の霊力を纏わせていることに。
子どもはただ苦しそうに寝転がっているだけ術を使っているわけではない。それなのに、子どもの身だけでなく、この部屋を満たしてなお溢れるほどの霊力を生成していることに。
人間なんてどいつもこいつも格下だという認識が崩れ去るほどで、それどころか自分よりも、自分の知るどんな強力な悪魔よりも多く、下手をすると――
しかも大変美味だ。空腹というのもあるのだろうが先ほどからずっと涎が溢れそうだし、中てられて酔い始めたのか頭がクラクラしてきた。
まるで、麻薬のよう――いや実際、彼女にとっては麻薬に等しいのであろう。だから彼女は。
ずっと、永遠に味わっていたい――
そう、強く願い。
人間の子どもが救いを求めるかのように、これが最期だと言わんばかりの一際強い、それでいて風前の灯のような儚い霊力が流されるのを感じて思わず。
「……ねぇ、あなた……生きたい?」
窓から身を乗り出し、そう声をかけた。
シルフィアーノが人間の子ども――セレンディアを助けようとしたのは、食欲に端を欲する。
とても美味しいから、何度も味わいたいから、その場で喰らい尽くしてハイお終いにするのが勿体なかったから、生かしてみようと思っただけだった。
その判断は正解だったとこの直後に痛感することになる。
契約のために霊力を交わそうとする前に(契約をしようにもシルフィアーノ側の霊力が足りていなかったのもあり)霊力を少しでも多く補給しようと子供の血を舐めたら、辺りを漂う霊力どころではない、トロリとした蜜のような、暴力的なまでの極上の甘味に全身が雷に貫かれたかのように痺れて思考が奪われ、理性を失った獣の如く夢中で貪った。
夢中になりすぎて子どもとの契約を放置していたことに気付いたのは大分後のこと、慌てて自分の霊力を流し込み名を交わしてやや強引に契約を完了させ、その恩恵で身体を強化させる。
シルフィアーノは霊力を身に纏っての身体強化が一番の得意分野なのだ、この程度は造作もない。次点で否応なく身に着けた霊力操作による幻影作成だったがこれがセレンディアに活用されたことはあまりない。
この時シルフィアーノは、この子どもは単純に内臓の病に罹っているのだと思っていた。だから体を丈夫にすれば生き延びるだろうと思ったのだ。
強化自体も延命になったのは別に間違いではないのだが、決定的な理由としてはあまりに多くの霊力を喰べられたことで体の負担が減ったからだったりする。
なお、ものすごくどうでもいい話であるが、この時何をされたのかセレンディアは決して口にしない。死にかけで覚えていないと誰でも嘘だとわかるほどあからさまに目を泳がせながらもそう言い張り、その様を見るのが大好きなシルフィアーノに数か月に一度くらいはからかわれている。
滅多に嘘を吐くことがない、嘘を吐かないようにしているセレンディアの嘘である。その心情は察してあげてほしい。
セレンディアはシルフィアーノに命を救われたと何度も言い、一時たりともそれを忘れたことはない。
ただこの時は飢餓状態で食欲が先行して意識していなかったが、シルフィアーノの命もまた救われたのだ。
彼女は非常に弱っていた。それこそ大して力のない人間ですら倒せるくらいに。人間を襲おうとしたところで返り討ちに遭うだけだった。
無抵抗に、大量に霊力を提供してくれるセレンディアが居たからこそ、その命は助かったのだ。
当時のシルフィアーノは助けられたことを認めなかった……と言うよりは気付いていなかったのだが、しばらくしてその事実に思い至った時、シルフィアーノは決まりの悪さを押し隠しつつもたかが人間の子どもに少し優しくしてやるようになった。
そしてもう一つ、別の方面でシルフィアーノを救うことになる、彼女がセレンディアに心酔する引き金となった事件が起こる。
悪魔は、騙し騙され、奪い奪われ、殺し殺される。
騙されるのは頭が悪いからだ。奪われるのは弱いからだ。殺されるのは生きている価値もないからだ。
悪魔は、そんな荒んだ世界に生きている者たちだ。シルフィアーノとて例外ではないし、そのような生き方をしてきた。
しかし。
シルフィアーノがいくらセレンディアを騙しても、騙されたことは一度もなかった。騙したことがバレ、泣かせてしまったことに動揺して思わず謝ったら、涙をぬぐいながらも笑って許してくれた。
いくら霊力を奪っても、セレンディアから奪われたり、何か代わりを請われることは一度もなかった。逆に体の調子が良くなるから、とやはり笑って差し出してくれた。
悪魔は霊力量が多いほど老いが遅く、寿命が長くなる傾向がある。よって、今は弱っているがかつては強力な悪魔として周囲を震わせていたシルフィアーノも見た目通りの年齢ではない。
見た目よりは長い生の経験からか、猜疑心からくる用心深さによるものか、それなりに観察眼はあるつもりだ。
しかし、何をどう見ても、セレンディアから害意は、敵意は、悪意は一切感じ取れなかった。
それどころか、逆に、謝意と、善意と、好意しか感じ取れなかった。
ある日、そんなセレンディアに苛立って、首を絞めたことがあった。
何故仕返しをしないのだ。何故対価を要求しないのだ。何故いつも笑うのだ。何故、何故なのだ。
イライラする。でも、それ以上に胸がザワザワする。これは、一体何なのだ。
別に本気で殺す気はなかった。でもこの時は、死んでもいいくらいには思っていた。
さてどういう反応を返すのか、と首を絞める手の力を緩めず、顔を覗き込んだ。
すると――
「……キミ が、そう、したい なら……仕方ない、ね」
そう言って、やはり、困ったように眉は下がりつつも、笑ったのだ。
シルフィアーノの頭は真っ白になった。
予想外も予想外、彼女の中では決してありえない反応に、認識が追い付かないでいるのだ。
気が動転するあまり、何もかもかなぐり捨てて真意を問い詰めるべく、溜め込んでいた疑問を爆発させた。
「あ……あなた……今、殺されかかったのですよ! 何故、どうして、笑っていられるのですか!? 命乞いしない! 抵抗しない! 怯えもしないなんて!
今回だけじゃない……いつも、いつも! 何故、わたくしを騙さないのですか! どうして、わたくしから奪わないのですか! せめて何か要求の一つでもしてみなさいよ!
あなたみたいなバカな人は、わたくしみたいな悪い悪魔にとことん利用されて、肉は食い散らかされて、骨の髄までしゃぶりつくされて、霊力の一滴も残らず搾り取られて、最後にはポイされるだけですわよ!?」
まさにこれまでの自分がやってきたことであり、説得力と皮肉と、澱んだ感情が篭められて。
一方のセレンディアとてこれまでの人生において荒んだこともあるのだが、あの日の月の光で、浄化されたかの如くまっさらになると共に――どうしようもなく歪んだ。
「何故、と言われても……ボクの命は、キミに救われたわけだし。キミのおかげで生きていられる。
だから、キミがボクを要らないと思うなら……死も、受け入れるしかないかな、って……」
少女はあの日、悪魔に魂を売り渡したのだ。
誰にも見放された自分に、ただ一人手を差し伸べてくれた悪魔のために生き、悪魔のために死ぬことを選んだのだ。
人間が備えている自己を守るための本能も壊れてしまった。あげく、その状態を是としている。
しかし、だからこそ、一途に悪魔を想うその無垢さは、猜疑と欲望の汚泥に埋もれた悪魔の心の闇を浚ってゆく。
「そもそも、何故キミを騙さないといけないの? 奪わないといけないの?
ボクはキミから、いっぱい、いっぱいのモノをもらっているのに。もらいすぎているのに。その上で更に要求するなんてとんでもない……っ」
一体何のことなのか、シルフィアーノには一切心当たりがない。
でもセレンディアは、たとえ霊力だけが目的だったとしても、必要とされたのが本当に嬉しかったのだ。
それだけでなく、一緒に居てくれて、名前を呼んでくれて、存在を認めてくれて。
セレンディアにとって、充分以上に対価は与えられているのだ。とっくに溺れそうなくらい多幸感に満たされているのだ。
「ボクは、キミにとても感謝している。恩返しがしたいんだ。
だからもしボクが要求がするとしたら、キミが望むモノをあげて、キミに喜んでもらいたい。もっと笑ってもらいたい」
セレンディアは幼いながらも、これまで送ってきた人生のせいで『絶望』には人一倍敏感だ。
シルフィアーノがセレンディアの霊力を食べる時は非常に美味しそうに、幸せそうな顔をしているし、セレンディアに悪戯する時も嗜虐心を覗かせながらも楽しそうにしている。
そんな日常のふとした合間に滲み出るのだ。
何もかもを諦めたような、生に疲れた老婆のような、全てを失くしてしまったような、絶望が。
セレンディアは今でこそシルフィアーノのことを(本人すら気付かぬままに)色々と知っているが、当然この時は何も知らなかった。
彼女が、どのように生きてきたかなど。
何も知らないのに勝手に自分の状況と照らし合わせて、その痛みをわかろうとすることも烏滸がましくて出来なかった。
でも、それでも。
そんなのは、嫌だと思った。
カミサマが、辛さを抱えているなんて、嫌だった。
だから、深く考えるでもなく、するりとその言葉が出てきた。
「ボクは……キミに幸せになってもらいたい」
「――っ」
シルフィアーノは、幸せだなんて、これまで考えたこともなかった。考える余地もなかった。むしろ自分から放棄している節すらあった。
得られるなんて、これっぽっちも思っていなかった。思いつきもしなかった。思うことを無意識に避けていた。だというのに。
今になって、こんな場所で、まさかただの餌だと思っていた人間から、可能性を提示されて。
普通の人間が相手であれば、異常なまでに悪魔に傾倒する少女の状態に待ったをかけ、どうにか治そうと、矯正しようと奮闘するのだが、それを知るのは負けず劣らず歪みを抱えた悪魔のみであった。矯正などそんな発想には思い至らない。
加えて悪魔は、屈折しているとはいえ、初めて善意を、ストレートで勘違いのしようもない(色欲の混じらない)好意を向けられたのだ。免疫などあるはずもない。
かくて悪魔は、何一つ奪われることなく陥落し。
「……ごめんなさい。ちょっとイライラしてましたの。八つ当たりしてしまいましたわ。
だから、その、えっと……あなたが要らないとか、そういうのじゃなくて、その。
わ、わたくしには……あなたが、必要……です、わ」
「…………そっか。……うれしいなぁ」
小さく、無力な人間の子どもに、透明で純粋で幸福を噛みしめる笑顔に、心を奪われるのであった。
それから進んで世話をするようになり、尽くすようになり、気付けば力関係が逆転していた。
それでもシルフィアーノは、心の底から幸せだと、誰憚ることなく主張できる。
何とも胸が焼けそうな話であるが、本人はいつでも全力で大真面目だ。
「マスター、マスター!」
「はいはーい、なぁにー?」
「大好きですわ!」
シルフィアーノに首輪をはめた(はめることを強制された)のは大分後のことです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
第二部を書きたい気はあるのですが未定ですので、ひとまず閉じさせていただきます。




