9 キミがボクの―― ○
このセリフのためにこの物語を書いたようなものです。
「な、何……?」
「人が黙っているからって、聞いてもいないことを色々としゃべってくれたみたいだけども」
呆気に取られる悪魔二人の様子を余所に、セレンディアは眼鏡を取り外し、レンズに付いた砂埃を拭ってから腰に身に着けていたポーチへとしまう。
そして、何でもないような声音で、あっさりと続けられた先に、シルフィアーノは思考停止に陥った。
「そんなこと、全部知ってるよ」
そう、セレンディアは、ダニオンが暴露したことを残らず全て知っていた。
シルフィアーノが避けていたので直接はあまり聞いていないのだが、ガードが甘い――出会った当初はガチガチに硬かったのだが、だんだんと甘くなり、やがてはだだ甘になり、以降に硬くなった試しがないので、本人の意図しないところで経路から伝わってしまっているのだ。
それゆえセレンディアは、契約前のシルフィアーノがどのような事を行ってきたのか、その多くを知っている。
ダニオンが知らない、知る由もない、シルフィアーノの心の内、真実も。
シルフィアーノは確かに大喰らいである。快楽主義者でもある。
けど、その裏では――とても臆病だった。
悪魔たちは、息をするように騙し、平気で裏切る。笑顔で傷付け、喜んで殺し喰らう。それが彼らにとって『当たり前』のことであったから。
騙されたくないから、先に騙した。騙されないように、逆らえないように、魅了の術をかけたりもした。
殺されたくないから、先に殺した。殺されないように、喰べて、喰べて、強さを求めた。
全てが怖いから、先に怖がらせた。誰一人近付けさせないように、暴虐の主を装った。
大人の姿だって偽りだ。本来の少女の姿では舐められ、手を出されやすくなるから。……もっとも、別の意味で手を出され逆効果になったのだが。
シルフィアーノは確かに数多の悪事を行った。しかし、そうしなければ生きていけなかったのだ。
それに、暴論ではあるが、そもそも悪事とはなんだ。
悪魔たちの住む大陸では法など存在しなかった。倫理など存在しなかった。それらが作り上げられる土壌ではなかった。
人や精霊を殺し喰らったところで、恨まれはしても、罪にはならないのだ。強者の成すことが全てなのだ。
その考えに賛同すること皆無であるが、心情まで知ってしまったセレンディアはシルフィアーノを非難することはできなかった。
セレンディアは、彼女の過去を許容したのだ。
「ボクが餌だって? いいんだよ。ボクは別にそれでも。だって――」
とは言え、例えそれが法を犯す行為であったとしても彼女を否定できなかっただろう。
「シロのおかげで、死ぬはずだったボクは救われたのだから」
シルフィアーノはセレンディアにとって恩人であるのだから。
当時は霊力のせいでセレンディアが死にかけているとは誰もわからなかった。保有霊力量の多さに父親は喜び、年々増えていくにつれ『この子は大成する』と期待をかけたが、それだけだった。自分自身を壊すほどの霊力を、幼い子供が持ち合わせているとは考えが及ばなかったからだ。
やがて育ちすぎた霊力に体が耐えきれなくなり、体が損傷し始めた。血を吐くようになって、やっと自他共に異常を認識するようになった。骨肉も、臓腑も侵され、機能を著しく低下させた。
単純に霊力が多すぎるだけだったのにそれ以外に原因を探そうとして見つからず、それゆえ適切な治療は行われず、治るはずもなく。
未知の病気だと思われるだけならともかく、ひょっとして呪われているのでは、とさえ思われるようになった。段々と恐れられ、忌み嫌われ、閉じ込められるようになった。
そんな闇に覆われた人生の中、終わりを迎えようかというその時に、月の光を従えるかのようにシルフィアーノが現れた。
あの時は、本当に彼女が神様に見えた。実際は悪魔だというのだから、何という皮肉なのだろう。
「シロと契約したおかげで、体が少しずつだけど丈夫になった。ご飯も喉を通るようになったから背も伸びたし、あの頃よりずっと健康になってる。
シロが霊力を食べてくれるおかげで、体にかかる負担がグンと減った。呼吸をするだけで痛みが走っていたというのに、そんなことはなくなった」
一般的な人間にとって、悪魔(もしくは精霊)との契約は霊力の消費をするだけでなく、従魔・精霊から経路を通して大なり小なり何らかの影響を受けるので本来の体のバランスを崩し、程度の差はあるが負担がかかるものである。
しかし、セレンディアは保有霊力量が桁外れに多すぎた。例えるなら、細い管に大量の水が流され続けているようなものだ。水圧で管は削られ、時には破裂してしまう。
そこでシルフィアーノが流量を減らす――霊力を喰らうことによって、負担をかけるどころか逆に減らしたのだ。
シルフィアーノからすれば契約によりセレンディアの体に影響を及ぼし、少しでも丈夫にさせれば延命できるだろう、その分霊力をもらおう程度にしか考えてなかったので結果論であったが、想定以上に遥かに良い方向に転がったので何の問題もない。
しかもこれは、大喰らいであるシルフィアーノだからこそ起こったことだ。そこらの精霊や弱い悪魔ではセレンディアの負担を大幅に減らすほどの霊力を消費できず、やはり死に至っていたかもしれない。
セレンディアにとって、この偶然を奇跡と言わずして何を奇跡と言うのだろう。
そして、救われたのは命だけではない。
「それに……シロが一緒に居てくれるおかげで、寂しくなくなった。生きる希望が……持てるようになった」
孤独であった、心すらも。
「友達なんてできるはずもなかった。医者には匙を投げられた。父親ですらボクを見離した。
天の神様に祈るだって? 何度祈っても、何にも起こりはしなかったよ」
セレンディアは神の存在を疑っても嫌ってもいないが、信仰心は持ち合わせてはいない。神官や他の聖職者を馬鹿にすることはないが、神に向かって祈ることはしなくなった。
そもそも神が人に手を貸すことなど全くないわけではないが確率は非常に低いので、敬虔な信徒でもないセレンディアが救ってもらえなかったからと言って怒るのは筋違いであるし今は別に何とも思っていないのだが、死の間際に居た少女に冷静さを求めるのは酷なことだろう。
胡乱な、だが妙に圧を感じさせる瞳に、ダニオンは知らず一瞬たじろいだ。歩みがふっつり止まっていることにも気付かないくらい、すっかり呑み込まれていた。
別にダニオンがただの視線に圧されているわけではない。セレンディアが、ダニオンが無駄に時間を使ってくれるのをいいことに少しずつ、少しずつ霊力を練っていたのだが、(ダニオンにとって)わけのわからない言葉の羅列に冷静さを奪われていてその圧力を知覚できなかった。
シルフィアーノも別のことに気を取られて、霊力の流れが見えていなかった。不意に知った事実に未だ頭が回らず、それでも一語一句聞き逃してはいけないと、己が主に見入っていた。
混乱しているシルフィアーノの様子をダニオン越しに眺め、セレンディアはふっと笑みを向ける。
これらの話は、決して、ダニオンなどのためにしているわけではない。全て、彼女に聞かせるためなのだから。
「でもね。シロが、シロだけが、ボクを救ってくれたんだ。
奈落の底から救い上げてくれたんだ。
病んでいくだけだった体も。
擦り切れていくだけだった心も。
朽ちるしかなかった魂も。
全てを。
だから――」
――キミがボクの、カミサマだ――
「ボクは、キミになら祈ろう。キミになら捧げよう。だって、ボクの命は、全ては、キミのものなのだから」
「――――――――っ」
悪魔である彼女にとって、その絶大なる信頼は、無欲の奉仕はどれほどの喜びであるのだろう。
初めて心を許すことのできた相手から想いをはっきりと返されるのは、どれほど幸福であるのだろう。
溢れる情動はまともな言の葉を成さず、滂沱のごとく流れる涙が、紅潮する頬が、彼女の歓喜を代弁していた。
「ま、ま゛す゛た゛あ゛あ゛あ゛あ~……っ」
相変わらず無駄に色気を振り撒いているものの、鼻水まで出てていつもの『どこか残念な美少女』感を漂わせるシルフィアーノに、珍しくセレンディアは少しばかり悪戯心が沸いた。
「あぁ、あんたはシロのことを頭が回るって言ってたけど……実際はものすごくおバカさんなんだよ」
「ちょっとマスター!?」
天辺まで上げてからの唐突な落としに、止めどなく流れるかと思われた涙がピタっと止まる。
「知ってる? 精霊や悪魔と契約をするとこちらが霊力をあげるだけじゃなくて、逆にこちらに流れてくることがあるんだ。抱く感情も、過去の記憶すらも。
それなのにまぁシロってば最初はともかく、今となっては無防備すぎるでしょ、ってくらいにダダ漏れで。ボクがシロの過去を知らないと思われていたことに逆にビックリだよ」
明かされる更なる真実に、シルフィアーノは別の意味で顔を赤くするしかなかった。実際にノーガードだった自覚はあるが、まさか昔のことまで漏れていたとは。
言ってくれてもいいじゃないか、と心の中でちょっとばかり拗ねる。
「確かにシロは初めのうちはボクをご飯としか思ってなかったみたいだけど……それでも良かったんだよ」
ふっとわずかに過去に思いを馳せる。出会った日は、今でも鮮明に思い出せる。死の寸前だったというのに、強烈なまでに刻まれている。
そして、共に過ごしてきた日々は、褪せることなく、色鮮やかに。
「それだけで、シロに喜んでもらえるだけで良かったのに。
いつからかシロは変わっていって、ボクを喜ばせようと、色んなことをしてくれるようになってきて、やがては。
言葉でも。態度でも。心でも。裏も表も。
ボクのことを。好きだ、好きだって。
本当にもう、そればっかりで。斜め上に空回って暴走して、周りに迷惑かけても、ボクがそれに怒っても、バカみたいに変わらずに。
それで信じられないというほど……騙されていると思うほど――ボクは愚者じゃない」
最後の言葉に、置いてけぼりで当惑していたダニオンがはっと我に返るも、己の理解の範疇の外側の出来事に、酷薄で尊大な態度が保てないでいた。
「シルフィアーノ……まさか貴様、本当に、本気で、人間の小娘などに従属しているのか!?」
怒鳴りつけるような問いかけに、何故かシルフィアーノはしどろもどろになって。
「だ、だって! マスターってば会ったばかりの頃は、中身がないお話でも、名前を呼ぶだけでも、極め付けには何もせずとも同じ部屋に居るだけでも喜んでいたのですのよっ?
わたくしがどれだけ食べようと『まだだいじょうぶだよ』って苦しむどころか嬉しそうなくらいでしたし!
軽く苛めただけでこの世の終わりのような顔もされましたが、ちょっと謝っただけで涙を目に貯めながらも許してくれましたし!
ケンカ……というのとは違うのですが、わたくしが悪いことをしたのに怒らないどころかわたくしを気遣う言葉をかけてきますし、さすがに罪悪感が沸いて優しい言葉をかけたら、はにかんでとても幸せそうに笑うんですのよ!
あの時は『これでもか!』ってくらいに胸が打ち抜かれましたわ!
そんなものすっっっごく可愛い生き物、絆されないわけがないでしょう!!」
平時のセレンディアなら恥ずかしさのあまり思わず顔を覆いたくなるようなことを、腹の底から力の限りに叫んだ。
かつての悪逆非道の同僚の、別人じゃないかと思えるほどのあまりの変わりっぷりに、ダニオンはあごが外れるんじゃないかというくらい口を大きく開け呆然としていた。仕方のないことではあるかもしれない。
しかし、セレンディアは本来の目的を忘れてはいない。
あまり漏れないよう慎重に体内の霊力を練り、外からも掻き集め、重ね合わせ、『準備』を進めていた。こっそりと陣から霊力も少しずつ抜き取り、効果を薄めてシルフィアーノ(と光の精霊たち)の負担も減らしていたりする。
それらはもちろん、眼前の敵を取り除くため。
「ねぇ、そろそろシロを解放したいんだけど、どいてくれない?」
「……何だと。今、何と言った」
意識が散漫になっていたというのもあるが、道端で『ちょっと通してくれない?』くらいの調子で言われ、内容がすぐには飲み込めなかった。
「だから、どいて、って言ったの。ここで素直にどいて――尻尾を巻いて逃げてどっかに行方を晦ませば、命は助かるかもよ?」
ピキッと、空気が震えた。
本人たちは大真面目であったが脇に逸れた感は否めなく、どこか弛緩していた雰囲気が刹那の間に塗り替えられる。
セレンディアは未だ冷静に。だが、ダニオンは。
「……たかが人間風情が、ゴミ屑にも劣る雑魚が、このオレに意見したあげく逃げろだと!? 舐めてるのか貴様ァッ!!」
ドンッ!
こめかみに青筋を浮かび上がらせながら大喝し、苛烈な霊力をその身から爆発させたかのように溢れさせた。
間近に居たセレンディアはその余波を正面から食らったが、床を踏みしめてこらえる。爪先に、力を篭める。
「許さんぞ小娘! 貴様は地獄すら生ぬるく思えるくらい惨たらしく殺してやるわ!!!」
「……許さない? 許さないのは、ボクの方だよ」
ダニオンの本気の怒りと殺意を前に、臆した様子など微塵も見せず。
ギチリと音が鳴りそうなほどにその拳を握りしめ、わずかに腰を沈めたその直後。
ゴッ!!
音の速さでダニオンの懐へ潜り込み、その脇腹へ鉄槌の如く重い一撃を放った。
「――か……はっ……!?」
人間の少女の細腕では何をしてもビクともしなさそうな悪魔の巨体が瓦礫を巻き込み、派手な音を立てて階段をぶち壊していった。
想像だに出来ないことに――主の暴力的な面を見たことがなかったこともあり――シルフィアーノは驚きに目を見開く。
「……ぐ」
吹き飛ばされていったダニオンも何が起こったのか全く理解できないまま、よろよろと視線をあげた。
そして、遅れて体に激痛が走ったことと、自分がさっきまで立っていた場所でセレンディアが拳を振りぬいた姿勢のままでいたことで、初めて自分が殴られたことを悟る。
セレンディアはシルフィアーノをかばうように立ち位置を変えてから再度拳を掲げ、怜悧な刃物のように冷たく、だが煮えたぎるほどに熱く、小さいけれどあらん限りの激情を篭めた声で。
「――シロはボクの従魔だ。ボクからシロを、奪うな」