0 悪魔の囁き
よろしくお願いします。
そこは、血と闇のみで構成される世界だった。
澱み、重さを増してゆく空気と、濃密に漂う死の気配。
この場の主である少女はか細く非力で、押し潰されるばかりであったが、それでもなお今の今まで抗い続けてきた。
しかし――
もう、痛みも感じない。
そのような感覚は先ほど消え失せた。
臓腑を焼き焦がすような熱も、脳を抉られるような衝撃も感じないのは、不幸中の幸いになるのだろうか。
もう、味なんてとうにわからない。
苦い薬を飲む時も、口腔から血が溢れ出す時も、同じ。
まともな食事をしたのはいつだったか、霞がかった頭では思い出せない。
もう、鼻だって麻痺している。
どうせ機能したところで、薬物や鉄錆の臭いだけであろうので、いらない。
その他のものなど、この部屋には存在しない。
もう、何も聞こえない。
こんなにも必死に呼吸をしているというのに。
……いや、本当に、呼吸をしているのだろうか?
もう、目も霞んでゆくばかり。
海の底へと、深く、静かに、沈んでいく。
夜よりもなお暗い、光の届かぬ場所。
少しずつ、少しずつ、命が流されてゆく。溶けてゆく。
ヒトのカタチを、失ってゆく。
あぁ、奈落への扉はすぐそこだ。
後は終演を待つばかり。
(……これで……死んじゃうの……か……)
下ろされようとする幕。観客の居ない劇場。
たった一人の演者であった少女の、たった独りの物語。
何の見所もありはしないのだから、誰も観ようとはしないだろう。
(せめて……さい……ごに……だれか)
そう願ってしまったのは、温もりが欲しかったからか。寂しかったからか。
感情すら乾ききったと思っていた少女の中で、僅かな未練が燻りだす。
最後の一滴を火種に、天まで届けと狼煙をあげる。
そして願いは、叶えられる。
もたらされたのは、奇跡という名の第二幕。
天秤が不幸と釣り合うべく動き出したのか。ただの偶然か。
しかしそれは夢幻などではなく、確かな現実で。
孤独の舞台に、人生に。
誰にも省みられることのなかった少女を要求する、月の光が差し込んだ。
「……ねぇ、あなた……生きたい?」
――かくて少女は、崩れ落ちるだけの世界より、その魂を引き上げられた。