雑なダンジョン 04
そこには不快な羽音が充満していた。
「うわっ!」
ジュリーが思わず声に出したのも無理はない。十㎝級の蚊の群れが廊下のような細長い部屋の中を飛び回っていたのだ。
「あんなのに喰われたらたまったものではござらんぞ」
「かといってあの大きさではパンと手でつぶすのも嫌ですね」
「部屋から出るまで刺されなきゃいいんだろ?」
こともなげにロムが言う。確かに本来の蚊ならちょっと手を振って追い払うことも造作ない。四人は互いに目配せをすると頷きあい、固まって手を振り武器を振り回しながら部屋を横切って行く。頭の上には蚊柱が立ち昇り、耳に障る羽音が彼らを包む。
「今晩うなされるぞ、これ」
ジュリーの軽口はしかし、余裕の表れでもあった。
倒すとなれば苦労するだろう。少なくとも二十匹以上は飛んでいる。けれどこの部屋を出ていければいいのだ。肌へ着地させないよう体を動かし続けていればダメージもない。そんな風に考えていたことが慢心に繫がったのか、不意に首筋にぞわわと寒気が走るような感覚を感じた。
「わわっ!」
反射的に首をすくめ首筋を手で払おうとするジュリーだったのだが、左腕には盾を装着し右手には剣を握っている。
異変に気付いたロムが味方への配慮を欠いた剣の軌道をかいくぐり、ジュリーの首に取り付いた蚊を払いのける。
「悪りぃ」
「慎重に行くのはやめよう。それだけリスクが高まる」
ロムの提言を聞き入れたゼンは、サスケと一瞬視線を合わせた。サスケも小さく頷く。
「ここはロムの意見に従いましょう。一気に走るんです。」
いうと同時に走り出すゼンを追いかけるようにサスケとジュリーが後に続く。ロムはスナップを効かせたジャブで彼の周りを飛んていた四、五匹の蚊を弾き飛ばしてから仲間の元へ駆けてゆく。出口の前で待っていた三人は、彼がたどり着くと同時に扉を開けて外へ出る。間髪入れずにロムが飛び出すと、壊れよとばかりに扉を閉めた。
一瞬の静寂。
全員があの耳障りな羽音がしないかと耳をすませて身構える。
「大丈夫の、ようだな」
静寂を破ったのはジュリーだった。
「うむ誰の体にも取り付いておらぬし、羽音もせん」
それを聞いてこわばっていた全身の力を抜いたジュリーにロムが心持ち鋭く言い放つ。
「いちいち気を抜いちゃだめだ」
「え?」
見るとロムはいつもの自然体に見える姿で立っていた。
「悪い癖だ。無駄な力は強張りを生み反応を遅らせるからなるべく抜いたほうがいい。けど、気は抜いちゃだめだ。不測の事態に対応できなくなる。体の反応のことじゃない」
と言いながら自分のこめかみを二度三度と軽く人差し指で叩く。
「ここが働かなくなる。反応どころか思考が止まる」
そこで一度言葉を区切り、ジュリーの思考が追いつくのを待って改めてこう繰り返す。
「気を抜いちゃだめだ」
言っていることの意味が理解できると彼はうつむきぐっと嚙みしめる。
身に覚えがある。
いや、あるどころではない。
ジュリーは剣士の形こそしているが、その本質は文学青年である。幼い頃から決して運動系の活動で目立った活躍をしたことがない。むしろどちらかと言えば足手まといの部類だったという自覚がある。しかし、だからこそというべきか。彼はヒーローに憧れた。英雄譚を読み漁り物語の主人公に自身を重ねては夢想に時を過ごしてきた。こんな冒険に出るようになったのもその憧れの延長である。初めの頃の冒険では何度となく油断を突かれて罠に引っかかった。あの忌まわしい事件がなければ仲間を危険上等のこんなダンジョンアタックになんか巻き込んでいない。
もっとも仲間の側でも危険は承知で積極的に関わってくれている。特にロムは他の二人と違いあの日が出会いの日だったにもかかわらず、このいつ果たされるともしれない人探しに付き合ってくれているのだ。それも重要な主戦力として…。
「…判った」
低くつぶやいたジュリーは握っていた剣を鞘に戻すと空いた手でパンパンと強く頬を叩き、気合いを入れ直す。
「私たちも肝に銘じましょう」
「ロムの負担を軽減するためにもな」
そう言ってジュリーが向けた視線の先には、光の届かない暗闇の向こうに続く一本道がある。