遭遇
音無隆盛が意識を覚醒させてから、真っ先に目に飛び込んできたものは頼りない光を放つ、安っぽい電球だった。
最初はそれが電球だということも分からなかったが、だんだんと霧のかかった思考から復活する。次第にその視界は、電球を吊り下げている白い天井を捉え、この場所がどこか室内であるという確信を音無に与える。
「……ん、」
静かに首を傾ける。右を向いたら壁だったので、おそらくは音無が寝ている場所は部屋の隅なのだろう。左を向くと、古びた木製の卓袱台の上にガスコンロが鎮座しているのを視認した。寝たままでガスコンロを視認出来るのだから、自分はベッドぐらいの高さのある物で寝ているのだろうか。
そこからゆっくり上半身を起こすと、自分の真下から軋むような音が聞こえた。これはやはりベッドだったらしく、しかもかなり年季が入っている。高級というよりは、ただ古いだけだろう。すると、ガスコンロの乗った卓袱台の更に奥――つまり、音無とは反対の部屋の隅にある、比較的新しいテーブルが目に入った。その上にはブラウン管のテレビ、そして数冊の本がその横に積み重なっている。埃は被っていなさそうなので、つい最近まで誰かが使用していたのだろう。……と、そこまで推測した後で、音無は現状に対して当然の疑問を浮上させることにした。
(……ここ、どこだ?)
自分の家ではないのは確かなのだが、見渡してみるとあまりに生活感の欠片もない部屋だ。内装は先ほど述べたものに追加して、ゴミ箱が一つと錆び付いた緑色の扇風機がテーブルの横に設置してあるだけ。しかもこの部屋、窓というものが存在していなかった。
「質素っつーか……なんか、こう…………地味だな」
誰がいる訳でもないのに、思ったとおりのことを口にしてみる。反応が返ってきたらそれこそビックリ仰天どころではないのだが、それでも口にせずにはいられないほどに、この部屋は生活できるような環境ではなかった。不衛生の三文字がとても似合いそうである。
さてどうするか、とこれからの行動方針を決めようと再び頭を働かせたところで、
「……地味とは失礼なヤツね」
「うわっ」
突然、それは現れた。
現れたというよりも、ただドアを開けて入ってきただけなのだが、それでもかなり唐突だった。まるで予期せぬ来訪に、失礼な返答をしても仕方がないだろう。
入ってきたのは女性だった。それも、音無の通う高校の制服を着ている。ということは同級生だろうか……しかし、音無の記憶にはまったく覚えのない顔つきだった。
凛々しいというか、どこか達観したようなその目は僅かに赤みを帯びている。カラーコンタクトでも付けているのだろうか。さらに後ろで束ねている長い黒髪はそれでもバッサバッサと揺れ動き、馬の尻尾を連想させる。
ともかく、ここで音無が取れるアクションはただ硬直するということに限定された。ここからすぐ逃げるというのも目の前の女性が阻むだろうし、馴れ馴れしく接しようとしても、そもそも面識がない人間に馴れ馴れしくするのは気が引ける。
そんな思考の末に硬直状態になった音無を見て、室内に入ってきた女性は少しだけ困ったような表情をした。
「えーと……なんか、その、今の状況の説明とかさ、聞かない訳?」
「え? はあ……そうですね。あ、ひょっとして俺をわざわざ運んでくれたんですか?」
そのことに関してのお礼を暗に求めているのかもしれない、と失礼極まりない発想が頭の中で浮かんだが、それにしては本当に戸惑っているといった空気が女性から感じられた。
「そ、そうだ、俺の名前は――」
「音無隆盛くん、だよね」
「――音無隆盛です……って、あれ? なんで知ってるんですか?」
取り敢えずの話題を作るために名前を述べようとしたのだが、予想外に相手は音無の名前をフルネームで言い当ててしまった。それ自体も十分に話題性はあるのだが、今はそれよりも当然、どうして相手が自分の本名を知っているのかを確認することが急がれる。
「ああ、それは。君の服を洗濯しようとした時に、生徒手帳を見たんだ」
「洗濯……? あれ、俺ってそんな汚れて……」
言いかけたところで、音無の寝起きの脳内で、やっと全ての記憶が蘇った。
というよりも、あまりにショッキングで今までわざと忘れていた……というのは考えすぎだろうか。とにかく、音無は恋人の頭が消える現象を克明に、鮮明に思い出す。
返り血を浴びた、あの感触も。
(………………………っ)
途端に、激しい吐き気を催した。それを右手で口元を抑えることで訴えると、目の前の彼女はすぐさまゴミ箱を差し出してくれる。それを奪うように取り抱え込むと、限界を迎えた音無の口から胃液が吐き出される。
それから二分近く、吐き尽くしてもゴミ箱を抱え続け、体の不自然な震えが収まってきた頃ようやくゴミ箱を手放した。取り敢えず手の甲で口を拭い、人に見せられる顔にする。
改めて目の前の少女の方へ向くと、音無は精一杯顔の筋肉を動かして笑みを作ろうとする。しかし、それはかえって不自然な笑みになってしまったかもしれない。苦笑のような、少し相手を見下すような表情になっていなければいいのだが。
「あ、ありがと……う、ございます……」
すると、お礼を言われた当人である彼女は少し驚いたような表情を浮かべると、こちらは本当の苦笑を浮かべた。
「やめてよ、そんな。吐きかけの人間がいたら、無視する訳にもいかないし」
一瞬、音無は目の前の彼女が聖人に見えかけたのだが、すぐさま再び血生臭い記憶のフラッシュバックが脳を傷つけ、冷静な思考が戻ってきた。
「そ、それで……俺は、どうしてここに……? というか、ゴミ箱どこに片付ければ……」
「ん? ゴミ箱は……あー、そこらへん置いといて。後で私が片付けるよ」
「……い、いやあ、俺が片付けますよ。俺が吐いたんだし……。あ、服も……」
咄嗟に自分の服を確認すると、なんとも適当に見繕ったような質素なシャツとジーパンだった。というか、寝ている人間にジーパンとはどうなんだろうかとも思わなくもなかったが、助けてもらった側の音無がどうこう言える筋合いはない。
「服はまあ、私が働いて稼いだ金だから良いんだけど……。そうだね、じゃあゴミ箱は中身だけ捨ててきてもらおうかな。そっちの方が手っ取り早いだろうし」
「手っ取り早い……?」
音無の頭上に疑問符が浮かんだ直後、それを予見したかのように彼女は言葉を続ける。
「今の状況の説明。口で説明するよりも、見てもらった方が早いっぽいしね」
「百聞は一見に如かず、ってことですか」
「そんな難しい言葉、よく知ってるね……」
なんとなく馬鹿にされた気分になったが、しかしこの胃液をどうにかしなければ臭いが部屋に充満してしまう。少なくとも、自分の家ではない空間でそういった臭いを広げるのは避けておきたい。
「じ、じゃあとりあえず行ってきます。あの、出てからどこに捨てれば良いんでしょう?」
「んー、ゴミ箱ごと外に放り投げれば良いよ」
「……ゴミ捨て場、探してきます」
彼女なりのジョークだったのだろうか、と思わなくもなかったが、少なくとも音無の倫理観、というか常識的に許せることではなかったので、大人しくゴミ捨て場を探すことにした。ゴミ箱を片手で持ちドアノブを捻ると、鍵はかかっていないようですぐに開いた。
そこで、彼は知る。今まで自分が寝ていた部屋は、どこのどんな空間であるのかを。
ドアノブを捻り、開けるとそこには――車が並んでいた。おそらく駐車場だろう。
いや、別に家の目の前に駐車場があるのは不自然なことではなかった。誰の家の目の前にも駐車スペースは存在するし、それこそ家の前の土地を駐車場にして貸し出す人もいるぐらいだ、おかしな話ではない。
問題はここが、明らかに立体駐車場の中だということだった。
立体駐車場の、何階かの隅っこということ。
「…………………は?」
つまりこれは、どういうことだ?
しかし、ここで慌てふためき部屋に戻ろうとしないのが、音無の長所とも言える点ではあった。彼は、慌てて行った思考がどれほど無価値で無意味なものか、常識などではなく経験で知っている。突然湧いて出た金の話に飛びつき、強制彼氏を続けさせられていた彼だからこそ、それは分かるのだ。
(……落ち着け。状況を整理しろ。別に、ここが立体駐車場だからなんだ? この中に隠れ家があったってだけの話――として、今は納得するんだ。ここで行き詰るのが俺の目的じゃない…………あの人は、俺に状況を理解させるために外に出したんだし……)
そうだ。音無を保護し、あまつさえ服を着替えさせ寝かせてくれていた彼女が、幼稚な驚きを目的に外へ行ってみろと言うとは思えない。というかそもそも、音無は自分からゴミ捨てを名乗り出たのだから、差し向けるとかそういうのは不可能だ。
取り敢えず、空いている手近な駐車スペースに踏み込むと、建物そのものの壁から顔を出す。空の色合い的にそろそろ夕暮れだろうか。
そこから見えた風景は、いつも学校帰りに見えるビル群と全く同一であったと言っていい。というよりも、この立体駐車場は登下校時に必ず目の前の歩道を通過している。
少し錆びた仕切りに手を掛け、少しだけ体を外へ乗り出すと、ここがおよそ立体駐車場の五階部分だと分かった。すぐ下にはゴミの収集スペースがあり、確かにここから落とせば積み重なっているゴミ袋の山に埋もれてしまうだろうが……胃液を空中に撒き散らすリスクを負うのは、あまり得策とも言えない気がして来る。
「下に降りるか」と呟き、壁からから首を引っ込めたところで、
音無の視界が、突如として出現した緑色一色に染め上げられた。
目の前を支配する、緑色の光。光の柱。それは今まで音無が首を出していた壁際ギリギリにまで届く太さだったのだが、あまりにも莫大な光量で視界を塗り潰された音無からしてみれば、確認も出来ない事実だった。
「な、ん…………!?」
思わず右腕で目を庇う。その場から足を一歩、後ずらしたところで、その光の柱から爆風にも似た衝撃が襲いかかってくる。それは凶器となって音無の体を叩き、彼の体は二メートルほどノーバウンドで後方へ吹っ飛んだ。
「い……っ、あぁ……!!」
床に背中を思い切り打ち付け、肺の空気が全て吐き出されたことにより、悲鳴らしい悲鳴のひとつも上げられない。そのままのた打ち回っていると、ようやくその光の柱は途切れた。そこには先ほどと同じ風景があり、夕焼けに染まったオレンジの空が、痛みにより涙を溜めた瞳に突き刺さるような光を送ってくる。
(なにが……起こったんだ? 何か、凄い光って暴風が吹いて……それで、)
呆然となりかけた頭が途切れ途切れの思考を起こす。しかしそれは、先ほど起きた出来事の回想としかなっていない。それでも、思考の沈静と冷静さを取り戻す上では役立ったのだが――冷静になったところで、話は一向に見えてこない。自分の当初の目的であるゴミ捨てすら頭の片隅に消え、ゴミ箱が暴風の影響でどこかへ飛んでいったことも気付いてすらいない。
そこでようやく体を起き上がらせようとした音無だったが、その為に腕を力ませたところで――――、
「あなたが『ファイブ』の同盟者ですね」
唐突に、まさしく先ほどの女性のように唐突に……声をかけられた。
またしても、女性の声。しかし先ほどとは違い、穏やかな物腰の声。
音無が、声の聞こえた方向――つまり、自分の後方を静かに振り返ると、そこには女性が立っていた。
顔は童顔のようで、音無と同年代か年下かといった程度。
そして次に目に入った物は、異常としか形容できないものだった。服装だ。
まるで西洋の甲冑……しかし、西洋の甲冑は目の前の少女が着ているような、緑色の明るいラインなど体に奔ってはいないだろう。それに、下半身が金属的な光沢を持つフリルで彩られたスカートで、こちらも緑色のラインがそこかしこに散りばめられている。それと、音無が倒れている体勢だから確認できたが……スカートの内側は緑色一色だった。
そしてその手には、複雑な幾何学模様が刻まれた棒状の何かが握られている。こちらは銀色の棒に太い緑色のラインが奔っているといった感じで、着ているコスチュームともよくマッチしている。というか、絶対にセットで作られたものだ。
そこまで観察したところで、音無は少し意識が目の前の人物へ集中していくのを感じた。
緑色の服。鋼鉄のコスチューム。緑のライン。緑色の柱。緑色の光の柱。光の……柱?
(いや、あれ、は…………)
そう、あれは昔、携帯ゲーム機の画面内でよく見た―――ビーム?
それが落ちてきた場所は、音無が首を出していた地点。首を出していて。そこに突如現れた……いや、放たれた。となると当然、あのまま首を出していたら音無は…………。
(――――――殺され、てた?)
体に妙な悪寒が走る。別に相手は何も攻撃的な態度はとっていないのに。
頭が消えた、自分の彼女を思い出す。妙に鮮明に思い出す。
自分もああなるんじゃないか、などと、妙な被害妄想が頭を支配しかけたところで、
「やめてよ」
再び唐突に、今度は先ほど、音無を寝かせてくれていた女性の声が響き渡る。立体駐車場だということもあり普通の場所より声が反響するので、その声は強調された発音のように鼓膜を叩いた。
しかし事実、それは強調されあらゆる感情の篭った「やめてよ」でもある。なにせ、目の前の緑色の女性が明らかに猟奇的な笑みを浮かべたのだ。
声の主の方向を見た訳でもないのに、それでも誰かなど一瞬で分かったかのように。
心からその声を求めていたかのように。
恍惚にして異常な笑みを浮かべながら、緑色の女性はゆっくりと視線を右へ……つまり、声の主の方へ向けた。その口が裂けるように開き、何かを言おうとした直後、
「うっさい」
そんな、ある意味では暢気とも取れる言葉と共に、声の主は緑色の女性に「それ」を向けた。それは銀色の妙に重々しい光沢を帯びた物で、少なくとも音無の生活とは何ら一切の関係がない物のはずだった。
拳銃。リアリティーがないかのような、そんな殺しの定番のようなものを向け――容赦なく、その引き金を引く。
瞬間、発せられた発砲音に身が竦んでしまった音無だったが、よく観察してみれば、その拳銃から射出されたものは実弾ではないと理解できたかもしれない。しかしその場から思わず目を背けていた音無は、それがただの拳銃の発砲だとしか認識できていなかった。
(うわ、うわうわうわ……!!)
内心で「うわ」しか呟けない音無だったが、そんなことを知る訳もない女性は、緑色の女性に向けて発砲を続ける。二発、三発、四発、五発。次々と発射されるその弾丸は、明らかに緑色の女性の胴体に直撃している。いくら鎧のような服を着ていても、内部への振動などは半端なものである筈がない。
ここで音無が、どうして再装填もせずにそんな連射出来るんだとか、そういったことに気が回る要領の良いミリオタなら良かったのだが……いきなり発砲シーンを見せられて、それで冷静に分析出来るなんてそれこそ、小説の中の生き物だけだ。
身を竦ませる、どころかその場で音無が蹲りかけたところで、ようやくその発砲は終わりを告げる。五秒待っても次の発砲音が来ないので、蹲りかけていたその頭を少しだけ上げてみると、
「うわっ、」「こっち来て!」
いきなり、シャツの襟首を握り締められる。地肌が多い腕や声からして音無を寝かせてくれていた女性の方だろうが、引っ張っていく方向が明らかにおかしい。ここで下へ続く階段を目指すならば話は分かったのだが――なんと彼女は、建物自体の仕切りの壁目掛けて走っていた。そこから飛び降りるということはつまり、五階の高さからコンクリートへダイブするということ。
死、という言葉が頭を過ぎった。
しかしそれについての言及や抵抗のする間もなく、彼女は壁際に停車してある車のボンネットに飛び乗り、その上を走り、そこから勢い良くジャンプして、
(ちょ、待て―――)建物の仕切りの壁を、一気に飛び越えた。(う、そぉぉっ!?)
当然、襟首を掴まれたままの音無も引っ張られ、空中へ身を投げ出す体勢となってしまう。そんなことになれば、あと数秒もしないうちにあの世行きだ。
と、そんな思考の雁字搦めに囚われている間、襟首を掴んだほうの女性はきちんと音無に対して、「舌噛まないように口閉じて!」などと叫んで入るのだが、それすら耳を素通りするほどのパニックに陥ったのだろう。
すると、次に彼女は音無の襟首を掴んだ右腕を自分の体に引き寄せ、音無を片腕で抱くような姿勢を空中で行った。当然、その遠心力により彼女らの体は横へ回転し、今まさに飛び降りた立体駐車場が目の前にある状態となる。
いきなりのホールドに少しどぎまぎしながらも、音無は顔の向き的に強制とも言える形で立体駐車場の方を見る姿勢となった。なってしまった。
そこで音無の視界が捉えたものは、こちらへ手に握っていた棒状の何かを向けている緑色の女性。そして、その女性を中心に集まっている緑の光。
音無側の女性は空中ダイブから体の回転までやったのに、その間に緑色の女性がした行動は棒状の物を向けるだけ、というのは少し身体能力の差を感じさせるが、時計で測れば空中ダイブから一秒未満の時間しか経過していない。むしろ平均的な反応速度は緑色の女性の方である。
そして、空中の音無と女性が四階の高さまで重力により落下する、その直前。
緑色の閃光が、音無たち目掛けて発射された。
これこそ形容するべきは「ビーム」なのだろうが、しかし先ほど音無が見た柱のような光とは比べ物にならないぐらいに細いそれは、「レーザー」とでも呼びたくなるような虚弱さが目立つ。無論、それでも音無の顔面に直撃すれば、どうなるかは分からないのだが。
刹那の時間で、その光のみが音無たち目掛けて迫り来る。
しかし、そんな凍て付いた時間の中で、彼女のみは動いていた。
音無を右腕で抱え込んでいた彼女は、左腕で先ほどの銀色の拳銃を構えていたのだ。それを躊躇なく、本当に分かりきっていたかのように引き金を引き弾丸を射出する。
そこで音無が目撃したのは、弾丸と呼びたくても呼べないような代物だった。
紅い、閃光。閃光というよりそれは、紅い槍のようにも見えた。
射出されたその紅い槍は、迫り来る緑の閃光と激突し――瞬間。
その激突した地点を中心に、紅い平面の円の図形が浮かび上がる。
(……!?)
まるで、立体映像。様々な模様と文字がその円に書き込まれており、それは激突していた緑色の閃光を跡形もなく消し飛ばした。
すると次は、その紅い円が自由落下途中の音無たち目掛けて、物凄い勢いで寄って来る。謎の緑の閃光を吹き飛ばすほどの硬度を持つようなものと激突しては、それこそ危険だと頭の中が警告信号で一杯になるのだが――避けようにも、女性の右腕でがっしり抱え込まれている以上、回避行動は不可能だった。
結果、無情にもその謎の紅い円は迫り。
(……っ!)
反射的に目を瞑ると同時、その身を肉片の一片も残さず完全に消し飛ばすような衝撃が、襲ってこなかった。
ただ、紅い円が音無たちの体を通過した。それこそホログラム、立体映像のように。
そこには実際何もないかのように――通過したのだ。
「……………………え?」
もしここで、このまま自由落下して死んでいれば、この音無隆盛という少年の人生はまだ幸福に近い形で終われたのかもしれない。
しかし、それは出来なかった。気付いてしまったのだ。
自分が、「え?」という疑問を投げ掛けるような言葉を、「言えている」ということに。
そんなの、落下中に口ずさもうとしてもその前に地面に激突するだろう。しかし、確かに立体駐車場からダイブした空中で、音無は疑問符を口にする事が出来ていた。
(……まさか、な)
そんな、落ちていたほうが常識だという思考。それを頭の片隅に留め、音無は自分を抱えている女性の方を見た。先ほどまで、音無の通う高校の制服だった彼女を。
そこには、先ほどと同じ鎧があった。
西洋の甲冑のようなものに、今度は紅いラインが入っている。硬質なフリルもきちんとあり、手に持っている拳銃には紅いラインが三本ほど奔っていた。
おそらくは、そういうことなのだろう。
ビームまで撃った女性と同じような服を纏っているのだ、おかしくはない。
音無はそんな、納得など到底出来なくても理解するしかない、目の前の現象を認める。
音無を抱えている彼女は、完全に空中に浮いていた。物理法則に逆らった、まるであり得ない超常現象。
そう、まるで超能力のような、物語の中でしか存在しないと思っていたもの。
それが今、目の前にある。
この事実だけで少し滾るものがあったのは事実だが、しかし同時に音無は、その空中に留まった姿勢でいつまでもこうしている訳がないと咄嗟に予想が出来なかった。
出来なかった、というよりは、刹那の恐怖から解放され、全身の気が緩んでしまったという方が正しいのだが。とにかく彼女は、音無に対しこう言った。
「逃げるよっ!」「え? あ、」
短く鋭く叫び、彼女は音無が何か返答をする前に急速に移動を開始する。空中をまるで走っているかのように移動する様は、まさしく飛行と呼んでも差し支えないものだった。
しかしそんな急速飛行に音無が対応できた訳もなく、思い切り舌を噛んでしまう。口の中に鉄の味と臭いが充満するが、今は文句の一つも言える状況ではなかった。
何故なら、音無が口を切り少し顔をしかめるという動作をする間だけで、飛行の速度が五倍近くにまで上がっていたからだ。風景が全て線にしか見えないほどのスピードで、もはや呼吸をする為に口を開けてもそれで喉を詰まらせそうな恐怖を感じる。結果、音無は自分の鼻の粘膜を信じて鼻による浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
そんな、いきなり物理法則を完全無視した逃走を五分続けた後、彼女は今度は緩やかにスピードを緩め、どこかのマンションの屋上に足を付けた。
それに従い、音無も地に足を付ける。数分味わっていなかっただけなのに、踏みしめる大地があることは音無に途轍もない安心感を持たせた。
ゆっくりと彼女は音無を抱いていた右腕を放し、それによってバランスを失った音無は膝をつくような格好になってしまう。
しかし、それでも構わなかった。大きく息を吐き出し、再び深呼吸をする。
「……ふう。よし、生きてるな、俺」
呟くと同時、音無は自分を抱えてここまで飛んできた紅い女性を見る。まずは、彼女が何者かなのかを聞く必要があると思った。
ということで、音無があまり考えも纏まらないうちに口を開きかけた時、
「えー。色々と聞きたいことはあるだろうけどさ。それは、あっちでしたほうがいいね」
そういって彼女は親指で右方向を指す。そちらを律儀に向くと、マンション最上階の一室と思われる部屋の大きな窓があった。
しかし、なんだか高そうな部屋である。ほぼ不法侵入のような状態の自分たちが入って、もし中に住人がいたらどうする気なんだろうか……という、音無の思考を表情から読み取ったのか、彼女は少しだけ苦笑を浮かべながら、こう言った。
「ああ、大丈夫だよ。だってあそこ、私ん家だもん」
ということで現在、音無は何故か今日出会って数十分の女性の家でお茶を出されていた。
わざわざお茶まで出すというのもだが、この女性は面倒見の良い性格なんだろうか。
ちなみにマンションの一室であるこの部屋だが、一番隅の安い家賃の部屋だったらしく、リビングとバスルームにトイレ、そして靴入れ程度の内装だった。それでも壁紙なども高級そうで、とても安い家賃で賄えそうもないのだが。
そして音無はリビングの中心に設置された卓袱台、その目の前に敷かれた座布団に正座している。卓袱台を挟んで真向かいにはもう一つ座布団があり、そこに恐らく先ほどの女性が座るのだろう……が。
未だに、女性は腰を下ろしてはいない。
お茶を最初に音無に出した後、バスルームに引っ込んでしまったのだ。そちらへ行く前に「二分ぐらいで済むから」と言っていたのだが、そろそろ五分ぐらい経過している。
「……大丈夫かな」
何を心配しているのか分からなかったが、とにかく予定が狂う何かがバスルームの中であったということなのだろう。しかし、そこが和室などならいざ知らず、バスルームに入りなかなか出てこない女性を確認する、というのは憚れる。別に音無は、世間で言うところのラッキースケベを進んでしたいとは思っていない。
というか、ああいった少しエロチックなシーンを見て毎回思うのだが、何故ああいったアクシデントを何十回と起こす主人公は嫌われないのだろうか。現実でそんな存在がいたとしたら、間違いなく警察へ突き出されるレベルだというのに。
「うわあ。ヒネてるなあ、俺」
しかし、なんというか、よくよく思い返してみると、音無がいきなり血染めの光景を目撃してからまだ一時間と経過していない。それでこんな自嘲気味の冗談を言えるのだから、音無は実のところサイコパスだったりするのだろうか。
「…………いや、結局は、アイツが嫌いだったしな」
いくら首が消し飛ぼうとも、金に物を言わせて強制彼氏を続けさせていた女の死を悲劇的に悲しめる訳もない。結局、「死んだ直後こそ涙するだけ」という音無の性格からしてみれば、この程度の出来事だったというだけだ。この程度というと軽いように感じるが、それよりもインパクトの大きいものを見てしまったが為に、城山の死の印象が薄くなってしまっているのかもしれない、というフォローを頭の片隅で一応は考えておく。
そうだ、それよりもあの、ビームやら拳銃やらだ。あのまるで創作物のような展開はなんだというんだろう。恐らく、というか憶測の域を出る訳ではないが、あの緑の光線を次々と射出してきた女性はあの棒状の物を起点に放っているのだろう。落下時の一瞬だが、音無の視界は確実にそれを捉えていた。
つまり、あの棒状の「何か」が光線を放つ光学兵器のようなものなのだろうか。しかし、あれを光学兵器と仮定したとしても、音無を抱えての高速飛行は説明もつかない。説明もつかないというか、物理的にあんな重そうな鎧に一瞬でドレスチェンジしたところで、飛行もなにもあったものじゃないのだろう。
「うーむ。わからんなあ」
この流れでいけば説明は受けられそうなので深くは考えないが、それでも頭が痛くなってきた。純粋に人の死体を見て気分が悪くなっている、ということだろう。
それにしてもこの音無という少年は、この場面でいくら友好的とはいえ、拳銃らしきものを振り回し高速飛行をする人物から「確実に説明を受けられる」と断定して考えている。ここでは普通、不安に襲われマンションから逃げたりしてもおかしくはないだろうに。
しかし結果として言えば、音無があの立体駐車場の目の前で落下死しなかった時点で、もう生き残る道はこれしかなかった。それほどまでに、ものの数十分で彼の人生は激変していたのだから。
未だにそれに気付かず、暢気に頬杖を突いて窓から空を眺めている音無は途轍もなく緊張感のない――言ってしまえば、危機に巻き込まれたという自覚が微塵もない精神状態だ。
ちなみに外はもう、星がちらほらと見え始めているぐらいになっていた。あの緑色の女性の奇襲(?)に遭う前が夕暮れだったので、時間経過の遅さを改めて思い知る。
(はあ……親には今日、アイツの家行くって言ってるから良いけど――明日までに帰れんのかなあ)
考えてみると、親に怒鳴られるのが鬱だ。そう思いながら溜息を一つ吐いたところで。
「ふぅー。いやぁ、待たせてごめんね」
頭から湯気を上らせながら、女性がラフなパジャマでバスルームから出てきた。
(風呂に入ってたのかよ……)
明らかに「ちょっと着替えてくる」みたいなニュアンスだったので盲点だったが、そもそもバスルームは入浴するための空間だということを忘れてはならない。
一方、未だに熱を帯びて顔全体が朱色に染まっている女性は、音無の方をチラリと見て、
「あ、君も入る? お風呂」
「あ、いえ、俺はそんな汗とかかいてないし……」
「あ、そう? …………なーに硬くなってんの」
「はいっ?」
思わず飛び上がってしまいそうになるのを堪え、少し裏返った声の返事をした。
「別に、硬くなってる訳では……」
「いや、そんな他人行儀になんないでさ。もっとこう、砕けた感じで良いよ。同い年だし」
「……あー、やっぱり」
音無の「やっぱり」を良い方向の意味へと脳内で置換したらしい女性は、笑みを浮かべながら次にこう告げた。
「まあ取り敢えず、最初に自己紹介かね」
「ああ、えっと……俺はおとな――って、もう知ってるんですよね」
「他人行儀きんしー」
「……もう知ってるんだよな」
すると女性は更に満足したような顔を浮かべ、続けて自分の事を親指で指しながら、
「私の名前は赤井沢朱音。君は音無隆盛で良いんだよね?」
「は……おう」
慌てて敬語を直す。しかし、これはそうそうすぐには直りそうにない口調なので、先が思いやられるというものだ。
ともかくは、ここから音無もある程度の主導権を握っておかなければなるまい。下手をしたら、おかしな口車に乗せられかねないという可能性も無きにしも非ず、だ。
「えっと……あなたは、じゃない。赤井沢さんは……」
「さん付けはやだなあ」
「俺のこと『君』って呼んでるだろ。『さん』もありにしろ」
「……えー。親しみでも持って呼び捨てで良いよ。あ、名字ね」
不満を言いながらも要望をする赤井沢の態度に対し、さしもの音無も折れるしかないと踏んだようで、素直に呼び捨てでいくことにした。
「……赤井沢は、その、『何』なんだ?」
「何って? 職業?」
「まあ、それもあるな」
「そーだね。職業は、正義の味方やってます」
あからさまに胡散臭そうな表情を浮かべた音無に対し、赤井沢は頬を少し膨らませながらも卓袱台の脇に置いてあった小さなケースのようなものを開け、そこから一枚の名刺を取り出した。
「よろしくね」