雪のふるまち
(こういう方を「傑物」と言うのかもしれませんわね……真っ黒な誰かさんとはまた違った意味で)
水楓の館へいくつか届け物をして、ギルド会館へと帰り着いたヘンリエッタは、思いがけず見知った顔と行き会うことになった。
見知ったと言ってもこの場合、アキバの街で彼の顔を見知らぬ者のほうが珍しいけれど。
アキバ<円卓会議>11ギルドの一角であり、生産者ギルドとしては最大手と言える<海洋機構>の総支配人。
豪腕の二つ名を持ち、本人もなかなかに迫力ある風貌をしているミチタカだったが、性格は「気取らない」の一言につきた。
今も、何をしていたのかと尋ねたヘンリエッタに「なに、少し<生産者ギルド連絡会>に顔を出してきただけだ」という返答だったので驚いてしまう。
(おつかいを頼める人なんてたくさんいらっしゃるでしょうに)
気取らないと言えば<エターナルアイスの古宮廷>での領主会議に参加した後ぐらいから、ミチタカはヘンリエッタの顔を見ると気さくに話しかけてくるようになった。
その声のかけ方は尊大さも下心も感じさせない大らかなもので、ヘンリエッタはつくづく五千人の上に立つ人物の器に感じ入ってしまう。
あまりに気さく過ぎて恐縮しそうになることもないではないが。
などと、内心の考えごとは顔に出さず、にこやかに世間話をしていたヘンリエッタだったが、ミチタカの急な大声に瞠目してしまった。
「ッかぁ~~、しまった降りだしちまったか!」
ヘンリエッタの肩越しに、今初めて外の天気に気がついたらしいミチタカが大げさに天を仰ぐ。
一時間ほど前から降りだした雪は、みるみる粒を大きくしてアキバの街に降り積もっていた。彼がここに来た時にはまだ降っていなかったのだろうか。
「まいったな、夜までもつかと思ってたんだが」
そうぼやくミチタカにヘンリエッタが首を傾げた。
「あら、雪が降るとなにか困ることでも?」
「困ることってそりゃあ──」
彼女の問いに即答しようとして、「ん?」とミチタカが思いとどまる。
そしてそのまま「そうか……電車は、今は関係ないし」と呟き始めたのでヘンリエッタは思わず小さくふきだしてしまった。
馬鹿にしている訳ではない。つい先だって、全く同じことに自分も気がついていたからだ。
「驚いたな、確かに降って困ることなんて別になかった」
そう言って目を見開くミチタカにヘンリエッタが微笑みかける。
「わたしも先ほど思いましたの『困ったわ、雪だなんて』って。だけどよくよく考えてみたら、降ったからといって電車が止まる訳でなし、遅刻して困る会社がある訳でもなくて……」
「雪が降ると困る、なんてな、完全な思い込みだったという訳か」
「少し寒くはありますけれど<冒険者>の体なら辛いというほどではありませんでしょう? それにゲームだった頃、画面に降る雪を見るのは好きでしたわ。現実に降られたら困るけど、なんて思いながらでしたけれど」
「まったくだ」と同意して見せるミチタカは、恐らく現実世界ではヘンリエッタ──つまり梅子と同じ勤め人だったのだろう。
雪を素直に喜べるのは幼いころだけ。
ことに社会人になってしまうと雪の風情より気になるのはまず電車の運行状況だ。
けれど今は。
「ガキの頃は好きだったよなあ、雪。予報で明日降るかもなんて聞いた日はなかなか寝つけなくてな」
「わたしも、あまり降らない土地にいましたから雪は楽しみでしたわ」
言いながら何となく、二人並んでギルド会館の玄関先、屋根のあるギリギリまで歩いていって雪を眺める。
ふわふわと柔らかそうな、綿のような雪が舞い降りてくる。
見渡すと、そこかしこで雪が積もり始めていた。自然と、廃墟と、新しく生み出されたものとで渾然としたアキバの街が、白に塗られてまるでひとつの絵画になろうとしているようだ。
「ああ、そういや……」
「え……」
穏やかに降る雪に見とれていたヘンリエッタは、隣の大男が取った行動に再び驚かされた。
雪を見て何か思い出したような顔をしたミチタカが、急に狙いを定めて、降ってきた雪をぱくり、と口に捕らえたからだ。
「はは、つめたいな」などと笑ったミチタカが、舞い込んできた雪をもう一度口にする。そうして呆気に取られてその様子を見ていたヘンリエッタに気づくと、少しだけ耳を赤くして訊いてきた。
「あー…その、子供の頃やらなかったか? 雪ってほら、なんか旨そうに見えるだろ?」
「いえ、どうでしたかしら、私はあまり行動的ではありませんでしたから。……雪って美味しいんですの?」
つい大真面目に質問すると、まいったな、というように肩をすくめたミチタカが苦笑いで返す。
「今食ってみると特に旨いもんじゃないな。ああ、じゃあ雪だるまはどうだ? 雪だるまくらいは作っただろう?」
「ええ、作りましたわね。三つ目の雪玉を乗せるのが難しくて」
「ん? 雪だるまなら二つでいいだろう」
「私の家にあった児童書には三段の雪だるまの挿絵が載っていましたの。とても憧れて……ええ、頑張って作りましたわ。楽しかった……」
優しい思い出に目を細めると、隣に立つミチタカが何故かこほん、と小さく咳払いした。
よく見ると少し顔が赤らんでいるようにも見える。
「あら……すみません、寒い中引き止めてしまいましたわね」
もしや風邪でもひかせたのではと申し訳なく思って声をかけると、ミチタカは鷹揚に首を振った。
「いや、おかげでいい事に気づかせて貰った。ギルドに着くまでのんびり雪見を楽しむとするさ」
「帰ったら雪見酒、とか?」
いかにも飲みそうに思えて訊いてみるとミチタカはがっくりうな垂れてしまった。
「そういきたいところだが書類が山積みでなあ……連絡会を言い訳に出てきたもんだから戻ったらまず仕事だろうな」
心底切なそうな様子につい同情してしまう。
「それは…お疲れ様です」
「いや、詮無いことを言っちまった。……ま、雪にはしゃいだ馬鹿がヘンなこと言い出さない事を願うさ。今度は雪祭り! なんて言われた日には書類が十倍になっちまう」
「嫌だわ、うちのマリエールなんて雪が積もったら真っ先に遊びに行きたがりそう……」
「おいおい…周りを巻き込んで話をでかくしたりしないでくれよ?」
ぎょっとしたミチタカにヘンリエッタも困り笑いで返す。
「心しておきますわ。そうじゃなくてもはしゃいで走り回るわんこやきつねに心当たりがありますもの」
「はは、会社がなくてもお互い悩みはつきないもんだな。──じゃあそろそろ失礼する」
「足元悪いですから、お気をつけて」
最後の言葉にひらりと手を振ってミチタカが広い通りに踏み出す。
縮こまるようにして歩く人が多い中、広い背中が悠々と、楽しげに歩いてゆくのが印象に残った。
ふと気になって、手の甲に降った雪にヘンリエッタは唇を寄せる。
唇の熱で溶けた雪からは、淡く甘い水の香りがした。