第4章
私の世界は小さいものだった。
何をするにも1人では何もできず、何も変えることができない。
何度もう終わらせてしまいたいと思ったことだろう。何度諦めてしまおうと思ったことか。
けれど卑怯者にはなりたくなかった。いや、真綿のような後悔がずっと私を現実に繋ぎ止めてくれていたのだ。私は私の罪を償う必要がある。きっと笑って許してくれるだろうそれを、だからこそ償いたかった。
彼が私にくれた後悔と罪を――
***
カンカン カンカン
電車は繋ぐ
遠い記憶とまだ見ぬ世界を
カンカン カンカン
電車は乗せる
思いを込めた椿の花を―
***
「瑞樹!瑞樹!!」
甲高い声が家中に響き渡り、少女はビクッと体を強張らせた。慌てて階段を駆け下りれば、玄関先でパタパタと忙しく立ち回る母親の姿が目に飛び込んでくる。
「あぁ、そこにいたのね。お母さん今日は夜遅くまでお仕事だから夕飯は暖めて食べるのよ?わかった?」
そう問いかけられ少女は小さく頷いた。が、ふと父親の存在が気になり問いかけるように母の顔を覗き込む。
「どうしたの?あぁ、授業参観のこと?ごめんなさいね。お母さんもお父さんもその日はお仕事なの。また、今度見に行ってあげるからね?」
少女は返された言葉にあいまいに笑いながら、それでもこくりと頷いた。それを見て母親は瑞樹の頭をすぃっと一撫でする。その拍子に香水の人工的な臭いが鼻についた。
「瑞樹はいい子ね。じゃあ行ってきます。」
そう言って母は押すように肩でドアを開け外に飛び出し、彼女はそれを閉めようと玄関に下りる。しかし閉まりかけた扉の微かな隙間から聞こえてきたものは小さなため息で、
「どうしてこんなことに・・・」
と呟かれた言葉にギクッとドアノブに向かって伸ばされた腕が止まる。パタンとかすかな音を立てて扉が閉まると、広い家の中は音をなくしたかのように静かになった。
少女はのろのろと腕を上げ背伸びをしながら鍵を閉める。カチリと鍵のかかる音がすると彼女の役目はそれで終わりだ。
外に出ようとは思わなかった。なぜなら瑞樹には一緒に遊ぶ友人がいなかったから。そしてそれ以上にかわいそうね、といって頭をなでる大人に出くわすことが嫌だったから。
彼女は這うようにして階段を上り、自身の部屋の扉を開ける。と、途端に目に飛び込むまろやかな日差しに目を細めた。瑞樹はそれが少し苦手だ。温かく、包み込むような感覚にどうしていいか分からなくなる。けれど、嫌いなわけではない。
「・・・・・・」
ふいにポケットに入れてある椿の花を取り出すと彼女はそれを光の中にかざしてみた。少年が別れ際にくれるその花はいつの間にか両手では抱えきれないほどになっており、今もまだ生き生きとしたものから、既に干からびて色を変えたものまで様々なものが取り置かれている。そして今もこの部屋の片隅で慎ましやかな芳香を放っていた。
まろやかな日差しとそのあまい香り。
それら2つに包まれて、彼女はコクコクとまどろみ始める。ふわぁと大きな欠伸を漏らせば、後は眠りの世界へ一直線だ。瑞樹は体を床に横たえギュッと椿の花を胸に抱きこみながら目を閉じた。そうすればいい夢が見られるような気がした。彼女の大好きな茜色の世界のような夢を・・・
ピンポーン
耳に飛び込んできた機械的な音に少女はパチリと目を覚ます。よくよく辺りを窺えば既にあの日差しは姿を消しており、凝縮した闇の気配が漂っていた。真っ黒に塗りつぶされた窓に寝ぼけ眼の自身の姿が映し出されている。
ピンポーン
再び鳴らされた呼び鈴。
瑞樹はごしごしと目を擦り、急いで階段を駆け下りると爪先立ちでインターホンにうつされている来訪者の顔を確かめた。
「ッ!?」
が、そこにいるはずのない人物を見つけて慌てて玄関に駆け寄った。鍵を開けるのももどかしくドアを押し開ければ、ダッフルコートとジーンズを身に着けた少年――釜胴海斗が恥ずかしそうに佇んでいた。
「よぉ、こんばんは。」
「・・・・・・」
少女はまん丸な瞳で少年を見つめる。彼は照れくさそうに笑った。
「これでも苦労したんだぜ?お前の名前も住んでるところもしらねぇーし、わかってるのは背格好だけでさ。この家にたどり着くまでずいぶんと手間取っちまった。」
「・・・?」
「ハハハッ、そんな顔するなよ。ちょっと、ミズキに用があったんだ。」
「ッ!?」
さらりと口に出された本名。
海斗はふわりと笑う。
「お前の名前・・・ミズキだったんだな・・・悪かったよ、今まで変な名前で呼んでて。」
ぽりぽりと頬を掻く少年に彼女は慌てて首を左右に振った。瑞樹は彼に呼ばれるその愛称が好きだったのだ。やわらかく呼ばれるその名前が・・・
「そっか・・・気にいってくれてたならいいんだ。」
そう言って笑みを深める少年の顔が玄関の光を浴びて淡く輝く。それが彼女の胸に小さな波紋を広げた。
「今日は、さ。ツバ・・・ミズキに渡したいものがあるんだ。」
ぽんぽんと頭をたたく手はいつも通り優しくて、けれどそれより穏やかな眼差しが少女を不安にさせる。
「ミズキ・・・」
「・・・?」
「・・・俺の親って上手くいってなくていつも喧嘩ばかりしてたんだ・・・それでもやっぱり、あの人たちにそうしてほしくなくて・・・結構俺だってがんばったんだぜ?」
ふっと息をつくような笑い方は幼さの残る顔には不似合いだ。
「でもさ。俺の言葉なんて何の重みもないのな。」
彼の口調は軽かった。
「だから悔しくて、イライラして。抵抗もできないヤツにそれをぶつけたんだ。悲しそうな顔をみてざまぁーみろって、あいつが悪いわけじゃないのにな?」
「・・・・・・」
「あいつでなくちゃいけない理由なんてなかったのに・・・たまたま俺が悪意をぶつける相手に選んだのがあいつだったってだけなのに酷いことした。でも止めようとは思わなかったんだから、結局自分は嫌なヤツだな。」
「ッ!!」
そう言って彼は口の端をあげて笑った。瑞樹はそれがいつも嫌で少年のコートの端をグイッと引っ張る。
彼女はただ笑ってほしかったのだ。そんなふうに傷ついたようにではなく、あのまろやかな日差しのように。なぜなら彼は
「ミズキ・・・」
少女の大好きな人だから。
少年は自身に向かって伸ばされた手を取り玄関に膝を着く。
逃れることのできない真摯な瞳。
「俺・・・親が離婚してこの町を離れなくちゃいけないんだ。」
「・・・?」
「さようならを・・・しなくちゃいけないんだ。」
「ッ!?」
告げられた言葉に彼女の瞳が見開かれ、次の瞬間くしゃりと歪んだ。握られた手を払いのけ彼の胸元に縋り付く。その瞳は大粒の涙で溢れていた。けれど変えられない現実に、少年は目をそらすことしかできなくて、
「ごめん・・・ごめんな・・・」
「ッ!?」
と謝罪の言葉を口にする。が、彼女はそれに首を縦に振らなかった。涙をたたえた瞳で彼をキッと睨みつけ、力一杯それを横に振る。瑞樹は全身で叫んでいた。
『イヤだ、イヤだ、イヤだ、イヤだ!!』と。
彼女は失いたくなかったのだ。あの髪の毛をすくうように撫でる少年の優しい手も。頭をぽんぽんと叩かれるたびにじわりと湧き上がる温かさも。砂糖菓子のように繊細で、あまい時間も。どうしてそう簡単に諦められるというのか。
繰返される一人ぼっちの日常の中で唯一見つけることができた心躍る時間。
だから彼女は声の出ない口で叫んだ。
『イヤだ!!』
「ミズキ・・・」
『イヤだ!!!』
「・・・・・・」
『・・・イヤだよ。』
ポロリとこぼれ落ちた涙が少年のコートを掴む手に当たり弾けて散った。と、同時にずるりと力なく垂れ下がったそれに逆らうことなく瑞樹はそのまま膝を折ると、体を丸めて泣きじゃくる。
行かないで、離れないで、さようならなんて言わないで!!
震える体は全身で叫び続けていた。だから少年はその体をそっと抱き上げ、
「ミズキ・・・俺はお前のこと何も知らない。どうして声が出なくなったのか、どうしていつも1人でいるのか、どうして遊んでいる親子を目で追うのか――」
涙で濡れた顔にやんわりとハンカチを当てた。
「でも、そんなくだらないことを伝えるためにお前の声はあるわけじゃないだろ?そんなもののためにお前の言葉があるわけじゃない。お前は・・・お前は伝えたい言葉を声に出せばいいんだ!!さっきみたいに、相手にぶつければいいんだぞ?」
「ッ!?」
「それが相手に伝わることなんてほとんどないけどさ。いつだって素通りされて辛い思いをするのはこっちだけどさ。伝えていればいつかその言葉が届くかもしれないだろ?その思いを受け取ってくれる人がいるかもしれないだろ?俺はッ!?」
グッと抱き寄せられた体。
「俺の声はお前がちゃんと聞いてくれた。お前が受け取ってくれたから、俺、ちゃんと謝れたんだ。あいつにごめんなさいって伝えにいくことができたんだ。」
それにギュッと力が込められた。
「だって言葉は無意味なものじゃないんだろ?俺たちの言葉は誰かに届くんだろ?言い続けたそれを拾ってくれるヤツがいるなら、俺は言葉にしたいと思ったんだ!!」
少年の瞳からぽろぽろとこぼれ落ちる涙は瑞樹の肩をぬらし、けれど触れ合った肌から伝わる温もりは幼い心を包み込む。瑞樹は首に回した手にギュッと力をこめた。と、同時にふわりと香るお日様の匂い。一人ぼっちの自分をいつも包み込んでくれていた優しいそれにまた一粒涙の雨が降る。
「俺たちは運が無かった。俺たちが与えられた世界は陽だまりの匂いなんてしないし、暗くて足元もおぼつかないし、不安でたまらない世界だったよな?でも・・・」
少年の指がそっと頬に触れる。
「お前と一緒の見る世界のなかで、俺は確かに笑えてた!!笑うことができたんだ!!」
それは流れ出る透明な雫をすくいあげ、
「だからこれを・・・今までの思いの全てを受け取ってほしいんだ。」
何十本という椿でできた花束を彼女に差し出した。少女の両手を使わなければ持つことができないほどたくさんの慎ましやかなその赤い花たちを―
匂い立つ花の芳香に包まれた少年は晴れ晴れと笑っていた。
そして――
「瑞樹ちゃん。」
呼ばれた自身の名前に彼女はふと我に返る。久しぶりに登校した学校に相変わらず自分の居場所はなく、それでも変わらずに優しく話しかけてくれる担任の女教師が彼女は好きだった。そして瑞樹は喧騒に揺れる昼休みの教室で、その片隅に置かれた花瓶をじっと見つめながら考えていたのだ。
「あら?これは・・・椿?」
その花にこめられた思いが何なのか。
「もしかしてこのお花、瑞樹ちゃんが持ってきてくれたのかな?」
そう問いかけられて彼女は小さく頷く。
「そう・・・とても綺麗ね。」
教師はそう言って花の1つを長い指で丁寧に撫で、ふと思い出したように上着のポケットに手を入れた。そして腰をかがめ瑞樹と目線を合わせると、
「ありがとう、瑞樹ちゃん。」
「ッ!?」
と小さな掌に折り紙で作られた朝顔の花をそっと乗せる。
その意味するところはきっと――
「ちょっ!?瑞樹ちゃん!!」
瑞樹は花瓶に入れられた椿の花を掴むと一目散に駆け出した。後ろで驚きに声を上げる教師の声に応えるものはいない。
「どうしたのかしら?」
「松本先生?」
ふいに名前を呼ばれて振り返れば隣のクラスの担任教師が怪訝な眼差しを彼女に向けていた。
「どうかしたんですか?ずいぶん慌てた声が聞こえたんですが。」
「すみません。いきなり生徒が駆け出していってしまったので驚いてしまって。」
「いきなり?」
「えぇ。そのぉ、菅野瑞樹ちゃんなんです。」
グッと眉根を下げて俯いた新米教師を見て、相手は納得したように頷いた。そして口をかみ締めている彼女に優しい眼差しを向ける。
「松本先生、あまり自分を責めないでください。彼女の声が出なくなってしまったのはあなたのせいではないですし、子供たちが彼女を遠ざけるのはしゃべることができないと理由からなんですから。彼女の声が戻ればきっと前みたいにクラスのみんなも彼女と仲良く遊んでくれます。」
ポンポンと軽く肩をたたかれて、先生はあいまいに笑った。
「しかし彼女の声が出ないのは精神的なものであると聞いています。もしかすると私は気がつかないうちにあの子を傷つけてしまっていたのかも・・・」
そういって彼女がため息をつくと
「キャーッ!!」
ふいに校庭から甲高い叫び声が聞こえた。慌てて窓の外に目線を移すと、驚愕の表情で、宙を見つめ立ちすくむ子供たちの姿が見える。
「どうしたの!!」
そう声をかけた彼女の呼びかけにビクッと体を強張らせた1人が震える手で空を示した。だから彼女は教室の窓から外に飛び出すとその視線の先を追った。しかし、
「瑞樹ちゃん!!」
窓から身を乗り出して、40cmほどしかないベランダに降り立つ菅野瑞樹の姿にギョッとする。椿の花を抱え真っ直ぐと前を向いた少女に、教師の顔からさっと血の気が引いた。彼女は慌ててきびすを返すと全速力で走り出す。先ほど少女を追いかけなかった自分を呪いながら、階段を駆け上がり、祈るような気持ちで彼女の下へ駆けつける。
瑞樹はそこまで追い詰められていたのか、という絶望とそれに気がつかなかった自分の不甲斐無さで涙がにじんだ。ただ間に合ってほしいという思いだけが、酸素を求める体をひたすら前へと押し出す力へ変わる。
「瑞樹ちゃん!!」
彼女が勢いよく扉を開けると少女は未だ窓の外に佇んでいた。それにほっとする間もなく教師は地を蹴る。
伸ばされた腕。けれど
「ッ!!?」
それが届く前に少女はパッと両手を広げた。
「これは・・・」
そこから漏れ落ちたのは――
「つばき・・・の花?」
教師はそう呟いて窓枠に手をついた。
少女の手から放たれた赤い花びらはくるくると踊りながら空を駆けてゆく。あるものはそのまま校庭にはらはらと降り積もり、あるものは風に運ばれ遠く遠くに消えていった。
その空からの贈り物に校庭から小さなざわめきと歓声が上がっている。赤い花びらは雲ひとつ無い青い空によく映えていた。そして、
「・・・・・・とう。」
「え?」
「ありがとう・・・」
呟かれた可愛らしい声。
「ッ!」
彼女はハッと我に変える。
「瑞樹ちゃん!!あなた声が!!」
瑞樹はくるりと振り返り、ギュッと拳を握り締めて俯いた。
「言葉なんて・・・」
「え?」
「言葉なんていらないって思ったの。」
呟く声はかすれている。
「だって、私が何を言ってもお父さんもお母さんも全く相手にしてくれないし、何度も言葉にすると嫌そうな顔するんだもん。」
小さく震える体。
「学校のみんなも私がやめてっていっても、悪戯することをやめてくれないし、イヤだって言えば言うほど笑うの。」
そっと伏せられた瞳から耐え切れないとばかりに雫が零れ落ちた。
「だから言葉なんていらないって思ったの。声なんていらないって・・・」
「瑞樹ちゃん・・・」
「でも、私もいいたかった。」
「え?」
「ありがとうっていいたかった。」
ぽたぽたとあふれ出したそれが、小さな水玉模様を地に描いた。
「お兄ちゃんはいつでも私にありがとうを伝えてくれていたのに、私それに気がつかなくて・・・最後までありがとうっていえなかった。」
ふと振り返る頬は涙で濡れていて、
「1番伝えたかったことを、伝えられなかったの。」
それが陽光を浴びてキラリと輝いた。
「でも・・・諦めたくないから。ちゃんと伝えたいから。」
遠く消え行く椿の花びら。
「ありがとう・・・」
少女の顔にやわらかな笑みが浮かんでいた。




