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第二章

ごめんなさい。

そんな謝罪の言葉が別のものに変わったのはいつだったのか。私はそれを知っている。全ては彼のおかげなのだ。だぼだぼな学生服に身を包み、いつも不機嫌そうな顔をしいた少年のおかげ――

出会ったときの印象はけしていいものではなく苛立たしげに舌打ちをされてすくみあがったことを覚えている。

だから次の日、公園のベンチに落としてしまったお気に入りの髪留めを見つけたときも、それが誰のおかげかといったことにまで私の考えが及ぶことはなかった。

けれど今ならわかる。

彼の優しさと、花にこめられた言葉の意味が。


        ***


ガタゴト ガタゴト


電車は過ぎる


醜い小さな世界をおいて


ガタゴト ガタゴト


電車は目指す


椿の花を届けるために――


         ***


 少女は錆びたベンチに座りながら公園で遊ぶ母子を目で追っていた。それに気がつかないほど少年は鈍感でもなければ、無関心を装うつもりもない。

 彼は肩に下げた学校指定の手さげ鞄を背負いなおし体を縮める幼子に歩み寄ると、

「よぉ、ツバキ。」

と言ってポンポンと軽く頭をたたいた。すると大きく見開かれた瞳が次の瞬間にパッと輝き、満面のそれへと変化する。きっと彼女のこんな姿を知っている者は世界で自分くらいなのだろう、と少年は思っていた。他者とのささやかな違いは簡単に人と人との絆を断ち切ってしまうということを、そして人間が弱いものだということを彼は知っていた。

 そんなことをつらつらと考えていると、ふっと脳裏に傷ついた瞳を浮かべる歪んだ顔が思い出され、とうの昔に捨て去った罪悪感が心の中をよぎった。だから彼は舌打ちしたい気持ちを押し殺し何事もないかのような表情を取り繕う。

少年は自分が卑怯であることを知っていたのだ。

そしてその上でなお行為を続ける自身の罪もまた――

「・・・?」

「そんな顔すんなって。今日はツバキにいいものを見せてやろうと思っててさ、一緒に来るだろ?」

ずいっと突き出された手。

大きな瞳がそれと少年の顔とを見比べて、花がほころぶようなものに変化した。ギュッと力がこめられた小さなそれに迷いはない。

だから少年は満足そうに一度頷くと、ことさら丁寧に少女の歩調に合わせて歩を進め、道に迷うことがないようやんわりとエスコートする。幸い彼女を連れ出すことに異を唱える大人はいなかった。なぜなら彼らの関心はあくまでも内に向けられているのだから。

「俺はこっちで、お前はそっち。」

 少年はそう言って歩道の内側に少女を導くと自身は車道側に身を落ち着ける。調子はずれな鼻歌を歌いながら真っ直ぐ前を見つめるその顔には笑みが浮かんでいた。それを横目でチラリと窺いながら彼女はほこほこと湧き上がる温かい気持ちに思わず口元が緩んでしまうことを止められない。

2つの影はよりそうようにどこまでも伸びていた。

「ほら、見えてきたぞ!!」

そう言って少年が指し示したものは丘の上に立つ古びた神社の一角で、そこに彼らの何十倍もの背丈と胴体を持つ苔むした桜の木がでんと腰をすえていた。丸々と肥えたその太い幹は大人2人がかりでやっと囲い込むことができるほどのものであり、いささかメタボ気味のようだ。しかしその一方で細部にわたるまで枝葉を伸ばした姿は威風堂々と何者にも臆するところがない。

少年は老樹の前まで来ると苔むした湿った幹に触れ、

「危ないからちょっと離れてろよ?」

と言ってそこにあるこぶのようなでっぱりに手をかける。そしてぐっと力を入れて地を蹴ると、すかさずあいている腕を太い枝にかけ、地を離れた足で幹を蹴り上げた。

するとどうだろう?

まるで舞うように軽々とその枝の上に体を乗せることに成功する。

振り返った少年の瞳がだらしなく口をあける顔を映し出し軽く見開かれた後すぐに笑顔に変わった。

「ツバキも来いよ!!」

「・・・っ!?」

「あっ!?・・・もしかしてお前木登りできないのか?」

そういわれて少女はしぶしぶ首を縦に振る。が、少年が何か言う前にエイッとジャンプして太い幹に抱きつこうと奮闘し、

「っ!?」

あっけなく尻餅をついて地面に落ちてしまった。衝撃をじかに受けたお尻がジンジンと痛む。

「おいおい!?あんまり無茶するなよ!!俺が一度降りてお前をおぶってやるからさ。」

 そういって枝に手をついた少年に彼女は強く首をふって応える。グッと見上げられて少年の体がピタリと止まった。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

交差する2つの視線。

一方は真摯なそれで、もう一方は強い意志を宿しているものだった。が、ふいに真摯なそれがやわらかなものへと変化する。

「・・・わかった。俺は何もしないから。」

 少年の呟きにパッと鮮やかな花が咲いた。そんな顔をされてはもう何もいえそうもないなと彼は苦笑いを浮かべる。

「でもどうするんだ、ツバキ?お前じゃ、このこぶに手がとどかねぇーだろ?」

不思議そうな少年の呼びかけに彼女はニコニコと笑いながら神社の隅に置かれていた大きな木箱を指差した。そして軽やかな足音を響かせながらそれに走りよると、ずるずると箱を引きずり始めたのだ。彼女はふぅふぅと汗をかきながら時間をかけて木箱を運び、桜の前に木箱を置くことに成功すると膝をついてよいしょと体をその上に乗せ、片手がこぶに届くことを確認する。

「頑張れよ、ツバキ。」

名人からの激励を受けて彼女は神妙に頷いた。そして腕で額から流れる汗を一拭すると、キッと大敵を睨みつける。

ここからが本当の勝負なのだ。油断はできない。

少女は心機一転こぶに手をかけ体を持ち上げた。が、苔で湿った幹は思った以上に滑りやすく、少年がしていたように上手くできない。手がツルッとすべってしまうため何度もそこから落ちてしまうのだ。

小さな体は擦り傷だらけになっていた。

「ツバキ・・・」

沈んだ声に応えずそれでもくいかかる幼子。

彼女は諦めなかった。

そしてとうとう何度目かの挑戦で体を浮かせることに成功した手が枝に向かって伸ばされ、

「!?」

少年の腕が宙をさ迷うそれを掴む。触れ合った手がしかと握りこまれると、次の瞬間彼女の体はふわりと枝の上に舞い降りていた。

「やったな!!」

彼はそういって歯を見せて笑う。それ受けて少女は一度パチリと瞬きをすると目じりをやわらげて微笑んだ。

「うん・・・お前はそれくらいが丁度いい。」

「・・・?」

「なんでもねぇーって。それより、見てみろよ。」

伸ばされた腕を追うように視線を前方に移せば

「っ!?」

少女は思わず息を呑んだ。慌てて少年を見上げると悪戯の成功したような無邪気な瞳と出くわす。

「な?すごいだろ?ここからの眺めが1番最高なんだ。」

 そう言って彼は眼前に広がる風景に目を細めた。彼らの目の前には何にも邪魔されない黄金色の空が何処までも広がっていたのだ。そしてその下にまるで精密なパノラマを見ているかのような小さな町並み存在し、そのずっと向こうにキラキラ輝く光が見えた。どうやらそれは白波が陽光を反射したものようである。瞬いては一瞬で消えてしまう煌きが酷く心を魅了する。一方で、町の間をすり抜けるように走る電車の線路が地平線のずっと先まで伸びており、それこそ終わりのないどこへでも繋がる道であるような錯覚を与えていた。

少女は頬をばら色に染める。彼女はこれほど広い世界を知らなかったのだ。いつもの目線では見ることができない世界に心奪われ、その大きさに目を見張った。けれど開きかけた口は声を漏らすことはなく、そっと目を伏せて俯いてしまう少女。だから少年は、

「気にすんな、言葉なんていらねぇーよ。」

とカラカラ笑った。少女は首を傾げる。

「・・・?」

「いいか?ツバキ。言葉なんていいもんじゃない。役に立たないし、強暴だし、きたないし。そんなもんがあるから痛い思いをしなくていいヤツが損をするんだぜ?」

 と彼は目線を虚空に移す。降り注ぐ朱色の光が少年の輪郭を鮮やかに縁取っていた。

「俺は・・・言葉なんていらなかった。」

「・・・・・」

「そんなものがあるから・・・」

「・・・?」

「だから俺は――」

眉間にしわを寄せ虚空を見据える少年の姿はどこか現実味を欠いていて、少女は制服の袖口を遠慮気味にちょいと引っ張った。彼はたまにこんな表情をするときがあった。その理由を彼女は知らない。けれど、知ろうとも思わなかった。なぜなら、

「ん?どうした、ツバキ?」

少年は必ず応えてくれたから。

彼女が遠慮がちに袖口を引けば、彼は目じりをふっと和らげて少女に笑いかけてくれる。

それだけで十分だった。

少女は少年にニッコリと笑いかけると、茜色に染まる空を指差した。

「あぁ・・・そうだな、ツバキ――きっとお前の世界はあの空のずっと向こうにある。きっと・・・な?」

独り言でも言っているかと思うほど小さな呟きは、きちんと少女の耳にも届き、彼女は真ん丸いオレンジ色の太陽が沈んでいく様をじっと少年と2人で眺めて過ごした。2人の間に言葉はなく、やんわりと握られた手が温かい。

どれくらいの間そうしていたのだろう?

「さぁ・・・もう帰ろうか?」

ふいにかけられた少年の言葉に彼女は素直に頷いた。帰りたくはないけれど我侭を言って彼を困らせたくなかったのだ。だからピョンッと枝から飛び降りて両手を差し出した少年のそれに迷うことなく体を預けた。グイッと強い力に引き寄せられたそれは少年の胸に抱きとめられそっと地面に下ろされる。

「ツバキ。」

「・・・?」

見上げる瞳に応えるそれは穏やかで、少年はそのまま彼女に花を持たせた。それは赤い椿の花だった。



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