第四話 秘密
スーディアが魔法の修行を始めてから数カ月が過ぎ、彼女は二歳になった。
いまだにジルやアンネは彼女が魔法の練習をしていることには気づいていない。毎日、世話役のアンネがいなくなる庭掃除の間だけに時間を絞って修行をしているのが、結果的に上手くいっていた。
練習を繰り返すうちに、魔力の練り方はかなり上達してきた。今では派手に暴発することなどなく、せいぜい空気が抜けるような音がすることがあるぐらいである。さらに魔力の量自体も、最初のころに比べると格段に増えてきていた。初めは水球をニ、三発発動させると魔力切れを起こしていたのが、今では三十発以上も連続して撃てるようになっている。
本には魔力は使えばある程度は増えると書いてあったが、そうだとしても初期の量から考えると凄まじい増加率だ。十倍をある程度とは言わない。おそらく、乳幼児だから魔力も伸び盛りなのだろう。もしかすると、今のスーディアの身体には魔術の才があるのかもしれない。
しかし相変わらず、魔力切れの感覚は妙なものだった。電池が切れるようにして、突然使えなくなってしまう。スーディアは自身がどれだけ魔法を使えるのかは大体の把握できていたが、それでも前触れもなく突然魔力切れを起こすというのは相当厄介だ。よって、今のスーディアにとって魔力の管理とその増加は死活問題である。
とりあえず、スーディアは目下の課題として魔力を増やすために魔力切れを起こすまでひたすら魔法を使うことにしていた。だが、魔力が増えるにつれてそれが時間的に苦しくなってきた。アンネが庭掃除をしている時間は大体一時間ぐらいなのだが、魔力を使いきるのにかかる時間がそれを超えそうになってきたのだ。
スーディアから眼を放さないようにというジルの指示のせいか、一日中ペったりとまではいかないまでもアンネはよくスーディアの様子を観察していた。だからまとまった時間、傍を離れてくれるのは庭掃除の時間ぐらいしかないのだ。だから、これ以上時間を増やすことはできない。
こうなったら中級魔法を使ってみよう。
スーディアはついに、ステップを一つ進めることを決意した。彼女はアンネが町へ買い物に出かける日を狙って中級魔法の実験をしてみることにする。
そのためにまず、彼女は中級魔法に必要な詠唱を覚えることにした。本に書いてある陣の形やそれを描くための指の動かし方をしっかりと覚え込み、途中で間違えたりしないように体に慣れさせていく。さすがに中級魔法だけあって、初級魔法よりかなり複雑な陣だった。が、ニ、三日もすると拙い動きながらも上手く動かせるようになる。
ピアノなどと同じで、幼少期から訓練をしていると身体はそれに適合していくらしい。スーディアは前世の記憶を思い出しながら、そう実感した。やはり何事も早いうちから始めるに限るようだ。もし魔法の練習を始めたのがもっと遅かったら、上手く指や腕が動かなかったかもしれない。
陽光に煌めく白銀のポニーテールが、ゆるゆると門を通り抜けて行った。それを二階の窓辺から確認すると、すぐさまスーディアは椅子を降りて西端の物置へと向かう。いよいよ今日が中級魔法の初実践である。彼女は少し心臓の鼓動を速めながら、大きく深呼吸をする。
軽く瞳を閉じる。
遥か異境を思うような気持ちで心を無に帰し、その奥に潜む霊力を取り出す。その一方で、手足には力を込めて気力をひねり出す。こうして同時に取りだされた二つのエネルギーは全身の血管をたどって身体の中心に行きつき、そこで複雑に混ざり合う。渦を巻くエネルギーは化学反応を起こし、たちまち第三のエネルギーへと生まれ変わって行った。
魔力は十分に練られた。
人差し指を杖代わりにして、素早く陣を描く。縦、横、斜め、円……。スーディアの指は拙いながらも五亡星と円から構成される複雑な陣を描き上げた。陣は完成すると同時に、淡い青の燐光を放ち始める。初級魔法の時にはなかった反応だ。
「流水――」
「ただいま」
ジルの声が聞こえた。いつもは日暮れ前に帰ってくるのに、今日はずいぶんと早い。
スーディアの心臓がトンっと跳ねた。
集中の糸が一瞬だが解けて、完全に制御されていたはずの魔力がバランスを崩してしまう。不安定になった魔力はたちまち暴走し、できかけの水の槍が一瞬で霧散した。水滴を孕んだ風が爆発的な勢いで駆け抜けていき、スーディアの身体が嵐の日の瓦のように吹っ飛ぶ。
「のわッ!!」
スーディアは弧を描くようにして扉に叩きつけられた。古びた扉はその落ちついた外見に似合わぬ大音響を奏でる。それはたちまちジルの耳に届いたようで、扉の向こうからあわただしい足音が響いてきた。
「どうしたッ!?」
ジルは部屋に飛び込むと、すぐに倒れていたスーディアを抱きかかえた。豊満な胸元に後頭部をうずめながら、スーディアはバツが悪そうな顔をする。
ジルは鋭い眼で部屋中を見渡すと、すぐに隅に落ちていた『初級魔道読本』の存在に気がついた。爆発の影響か、背を上にして開いた状態で落ちていたそれを拾い上げると、スーディアの顔と何度も見比べる。
「まさかとは思うけど、これを読んで魔法を使ったの?」
スーディアの肩が震えた。
やはりそうか。確信したジルが視線を合わせようとすると、彼女はさりげなく視線をそらしてしまう。しかししばらくすると、観念したのか自分からジルの方へと視線を向けてきた。
「……ごめんなさい」
「賢い子だとは思っていたが、まさかもうこんなことをするとは……」
何故かジルの声は震えていた。額には深い皺が刻まれ、眼には冷徹な光が宿っている。
「いいか、スーは魔法を使ってはいけない。絶対にだ」
「……私がまだ小さいから?」
「そうじゃない。とにかく使ってはいけないんだ。これからもずっと、たとえ大きくなっても。わかった?」
一応、確認してはいたがそれは強制だった。ジルの顔は険しく、その瞳は乳幼児に向ける物とは思えぬほど威圧的だ。そのあまりの迫力に、スーディアは背筋が凍りつき産毛が逆立つ。
魔法の練習をこれからも続けたいのは山々だったが、とてもジルの言葉には逆らえそうもなかった。逆らったら最後、この家から放り出されてしまいそうな気さえする。そうなったら生きていけない。
「うん、わかった……」
「良い子だ」
そういうと、ジルはスーディアに微笑みかけたがその瞳は全くさきほどまでと変わっていなかった。
◇ ◇ ◇
ジルは帰宅したアンネに、スーディアが魔法を使っていたこととその他さまざまな要件を告げると、また慌ただしく仕事へ出かけて行った。アンネの話によると、町の外で何かあったようでその対策にジルも駆り出されているらしい。
最近知ったことだが、ジルの職業はこの町の行政に関わることのようだ。広い屋敷に住んでいるだけあって立場はかなり上らしく、町に何かあった場合はずっと職場に詰めなければならない。前にも一度、ジルが家に帰ってこなかった日があったことをスーディアは覚えている。
結局その日は、夜になってもジルは帰ってこなかった。泊まることになった、と日もとっぷりと暮れて夕食時もとうに過ぎたころに連絡が入った。そこでアンネはジルのために用意していた夕食を嬉しそうに自分用にすると、スーディアとともにかなり遅めの食卓を囲む。
「うーん、おいしいですぅ……!!」
かぐわしい湯気を立てるビーフシチュー。それを口にしたアンネは、たちまち日向ぼっこをする猫のように眼を細めた。舌で転がすだけでホロホロと崩れる牛肉の溢れんばかりの肉汁。それを引き立てる濃厚でとろみの強いスープと、芯まで煮込まれて今にも溶けてしまいそうな野菜の深い甘み。それらが複雑に絡み合い、たちまち口の中が幸せでいっぱいになっていく。
普段は口にできない高級料理を堪能して、恍惚とした表情を浮かべるアンネ。それに対して、テーブルを挟んで向かいに居るスーディアの表情はさえなかった。彼女は特別に具を小さくした専用のシチューを食べながら、子どもらしからぬため息をつく。
「お嬢様、どうかされました?」
「ちょっとね。なんでもないよ!」
「とてもそうは見えないんですけど…………」
赤みがかった頬は膨れていて、いつになくしょぼくれて見えた。なんでもないことで怒ったり笑ったりするのが幼児の常とはいえ、まともな状態とは思えない。
アンネは今日起きた出来事を思い起こすと、スーディアのおかしな態度の原因にあたりをつけた。
「もしかして、魔法の練習を禁止されたからですか?」
「……うん。ねえアンネ、ジルって私のこと嫌いなのかな? あのときのジル、凄く怖かったんだ」
「とんでもないです、ジル様はお嬢様のことを大事に思ってますよ」
「じゃあ、なんであんな顔をするの。それに魔法だって、使っちゃいけない理由をちゃんと教えてくれなかった……」
スーディアは深く肩を落とした。愁いを帯びた瞳は細められ、ぼんやりと天井を見る。格子模様が描かれた天井はよく掃除が行き届いていたが、なにぶん古いので隠しきれない汚れがあった。老婆の肌にどうしても染みができるのと同じだ。それをスーディアは思考のおぼつかない頭でなんとなく一つ、二つと数えて行く。
そうして五つ数えた頃、アンネが大きく息を漏らした。彼女は空になった皿をテーブルの端に寄せると、スーディアの方を覗き込んでくる。しょぼくれていても食欲はあったようで、並んでいた皿はすべてきれいさっぱり空になっていた。
「私も聞いた話なので良くは知らないのですが……ジル様も以前は魔導師だったそうです。しかし、二年前の悪魔侵攻の時に仲間を全て亡くされてしまったそうで。そのことがトラウマになって、お嬢様に魔法を使わせたくないのかもしれません」
スーディアの眉がピクッと上がり、彼女の視線がアンネの方へと向けられた。二年前にそんな大事件があったとは、今まで全く耳にしたことがなかった。
「そんな話、初めて聞いた……」
「無理もありません、お嬢様がお生まれになった頃の話ですから。私もまだその時は屋敷に居ませんでしたし」
「なるほど…………」
ジルが魔法を使わせない理由は理解できた。彼女はスーディアにかつての仲間の様に死んでほしくないのだろう。魔導師というのはそれだけ危険を伴う生き方なのかもしれない。額にしわを寄せながら、ジルの考えももっともだと、スーディアは考える。
しかし、それを彼女は認めることができなかった。魔法というのはスーディアにとって、憧れの一言では片付けられないほど大きな存在なのだ。憧れが長い年月をかけて彼女の精神と一体化し、いつしかそれ自体を構成する血肉となってしまっているのである。それを今更どうしようもできない。
「……でも、やっぱり魔法を使いたい! ねえアンネ、一緒にジルに頼んでくれない?」
「しかし、私の立場では……」
「一言だけでいいのよ! お願い!」
スーディアはテーブルにぶつけそうなほどの勢いで頭を下げた。アンネは慌てて頭を上げてくださいというものの、スーディアは姿勢を変えようとはしない。何を言われても頑なに頭を下げたままだ。
そうしてしばらくすると、アンネの方が折れた。
「わかりました。しかし、ジル様は私が口添えしても許してはくれないと思いますよ。とても頑固な方ですからね」
「うーん……そういえばそうよね……」
ジルは一度口にしたことは意地でも曲げないというタイプの人間だ。懇願したところで、許してくれる確率はかなり低い。その相手が子どもであれば、さらに確率は下がる。
「そんなに魔法を使いたいのであれば、私がジル様に内緒で教えて差し上げましょうか?」
「え、いいの!?」
「駄目と言っても、お嬢様の場合こっそり使ってしまいそうですから。私が危なくないようにきちんと教えて差し上げます。その代わり、今後は一人で魔法を使わないでください。約束できますよね?」
アンネは満面の笑みを浮かべると、小指を差し出してきた。スーディアは前のめりになっていた姿勢を正すと、うんうんとうなずきながら小指を結ぶ。
二人は手を二三度振ると、絡めていた小指を離した。こうしてここに、アンネとスーディアの秘密の約束が結ばれたのであった。