第三話 魔力錬成
それからさらに時は流れ、スーディアはしっかりと立って歩けるまでに成長した。
言葉の方も、舌が回らない赤ちゃん言葉状態ではあるがそこそこ話すことができるようになってきている。保護者であるジルとの関係もまた、徐々にではあるが良好になりつつあった。最近では、それなりに愛されているような気もする。
こうして少し成長して余裕ができてきたスーディアは、自分で自分に英才教育を施そうと考えていた。立派な大魔法使いになるためには、早いうちから行動した方がいいと考えたのだ。
そんな彼女がまず目を付けたのは、文字の学習だった。
大魔法使いたるものは深遠なる知識を持たねばならない。そのためには本を読まねばならないから、その前段階として文字を学ばなければいけない。そんな三段論法からである。他にも、運動を開始するには体ができていなさすぎるので、それぐらいしかやることがなかったという理由もある。
幸いなことに、この家には大量の本があった。
一階の西端に広い書斎があり、そこの壁面が丸ごと本棚となっている。数百冊、いや数千冊の本が床から天井までぎっしりと詰め込まれていた。ジルの職業はいまいちよくわからないが、相当な読書家であることは確かだろう。
その中でも、とりわけ薄くて簡単そうなものを選んでジルは勉強を開始した。基本はジルかアンネを捕まえて本の読み聞かせをしてもらい、それと文字とを比較していく覚え込んでいく作業だ。ジルは良く外出していたが、アンネは基本的に家に居るので読み聞かせをしてもらうのはそれほど難しくはなかった。
この世界の文字は三十八種類で、ひらがなやカタカナと同じ表音文字だった。しかも文法が日本語に酷似していた。おかげでスーディアは文字の学習を始めてからひと月ほどで、それなりに本が読めるようになった。何よりも先に言葉を習得していたのが効いている。
読めるようになると、書斎の本はスーディアにとってまさに宝の山だった。
何の意図を持って収集されたのかは分からないが、ズラリと並んでいる本のタイトルはほとんど魔法関連のものだったのだ。『世界魔法大系』や『魔法構成概論』など、見ているだけで気分がワクワクしてくる。
スーディアはその中でも一番簡単そうだった『初級魔道読本』を使って、さっそく魔法の勉強を始めることにした。そうして食い入るような眼でページを読み進めていくと、すぐにやるべきことが見つかった。
「魔力を練る……か」
本には『魔法を使う第一歩は、質の高い魔力を練ることである。それができなければ立派な魔導師にはなれない』と書かれていた。こんなことを書かれては、大魔法使いを目指すスーディアとしては練習せざるを得ない。
彼女は本に書かれていた修行法をさっそく実践してみた。まずは座禅の様に胡坐をかき、お腹のあたりで手のひらをしっかりと合わせる。そして体の中心に霊力と気力を集めて一気に練り上げる。この霊力と気力というのはそれぞれ人間が持つ精神エネルギーと肉体エネルギーのことで、これを混ぜ合わせて生まれるエネルギーが魔力だ。
質の高い魔力を練るとは、使う魔法に合わせて霊力と気力の割合を適切に調整し、むらなく均一に混ぜ合わせることである。言うだけなら簡単だが、なかなかどうしてそれが難しい。事実スーディアは、魔力を練るどころか霊力と気力を取り出す段階でつかえていた。
「うー……」
唸り声をあげながら腹へ意識を集中するスーディア。しかし、なかなかそれらしきエネルギーが貯まらない。そうしているうちにだんだん余計な力が入ってきてしまって、お腹が鳴り始める。ギュルギュルと聞き苦しい音にスーディアは眉をひそめた。一歳児のおなかは緩いのだ。
「やばッ」
スーディアは本を棚へ戻すと、急いでトイレへと駆けこんだ。そうしてひとまず、彼女の魔法練習は打ち切られたのだった。
◇ ◇ ◇
スーディアが魔法の練習を始めて一か月。
彼女はようやくうまく霊力と気力を引き出す方法を見つけ出していた。ようは、意識する場所を間違っていたのである。腹はあくまでも霊力と気力を混ぜ合わせて魔法を発生させるための場所であり、そこから霊力と気力をひねり出すのではないのだ。
霊力は頭を意識し、心を無にするような感覚で引き出す。そして気力は手足に力を込めてそこから血でも出すような感覚で引き出す。それぞれ相反するような感覚なので、最初に出せるようになるまでには非常に時間がかかった。が、一旦引き出せるようになればそれからは意外と簡単だった。まだまだ時間がかかるものの、出すこと自体ができないということはもうほとんどない。
スーディアはアンネが庭掃除をしている隙に、二階西側の物置部屋へと入りこんでいた。家の屋根に沿って手前から奥に向かって斜めになっている天井は低く、そのすれすれまで丸められた絨毯や箪笥などが陣取っている。部屋には明かりがなく、屋根に付けられた小さな天窓から光が差しているだけだった。さらに長年の間に積もった埃の匂いが鼻につく。
しかし、ここが一番アンネやジルに見つかりにくい場所だ。乳幼児が魔法の練習をしているところなど、みられるわけにはいかない。彼女は顔を真っ赤にしながら散乱している物をどかせると、広いスペースを確保した。
次はいよいよ、肝心の魔力を練る修行だ。まずは本に最も手軽で簡単と書かれた魔法を撃ち、魔力と霊力の割合などを感覚でつかんでいく。
「よーし、ワクワクしてきた……!」
練習とはいえ、初めての魔法だ。魔法を使いたいと長年にわたり思い続けてきたスーディアにとってはいろいろと感慨深いものがある。気分が高揚するあまり、その顔は乳幼児らしからぬものとなってしまっていた。美女を前にした男の様に、表情筋がだらしなく緩んでしまっている。
しかし、スーディアはその顔をすぐに引き締めると魔力を練る作業に取り掛かった。そしてある程度混ざったところで、今度は手を素早く動かして宙に陣を描く。
この世界の魔法というのは、基本的に陣を描くことで発動する。この陣を描く作業をこの世界では『詠唱』と言う。本によると大昔は呪文を詠唱して魔法を発動していたが、隠密性や発動速度を追求していくうちに今の形となったそうだ。当初、陣を描くことを無音性詠唱などと言ったらしいが、それが主流になるうちにただの詠唱と呼ばれるようになったそうである。
ちなみに、詠唱の際に子どもたちやジルは杖を手にしていたが、あれは補助具というものだ。杖を手にすることにより魔法の威力が上がるが、なくても発動自体には全く問題ないのでスーディアは使用していない。というよりも、彼女に体の大きさに合う杖がそもそも家になかった。
「水球!」
拙い動きながらもスーディアが『詠唱』を終えた瞬間、ボスッと気の抜けるような音がした。彼女の身体の前で空気の塊か何かがはじけ飛び、非常に細かな水飛沫が飛び散る。たちまち、周囲が霧吹きでも吹いたように湿り気を帯びた。
「あれ、おかしいな……」
本来ならば小さな水の球が発生し、そのまままっすぐに飛んでいくはずだった。間違ってもこのように小規模な爆発を起こしたりするための魔法ではない。どうやら、どこかが間違っているようだ。
スーディアは用意していたタオルと雑巾で飛び散った水を拭き、取りついでに自身にかかった水もきれいに拭いた。そうしてすっかり周囲から水気をなくすと、スーディアは部屋の端に置いておいた『初級魔道読本』を取ってくる。彼女はその初級魔法のページを開くと、どこがいけなかったのかすぐに検証を始めた。
「指の動きはあってたから……霊力多すぎか」
どうやら霊力と気力をきっちり5:5の割合で混ぜなければいけないところを、霊力を多く混ぜてしまったらしい。霊力が多すぎた場合の事例として魔法が暴発してしまうことがたまにあると、本にしっかり書かれていた。
一歳半ぐらいの肉体に高校生相当の精神が入っているので、当然と言えば当然なのだが、これは少しまずい。初級魔法なので暴発しても濡れるぐらいで済むが、これがもし中級以上の魔法だったら大変だ。自爆してしまう魔法使いなど洒落にならない。
今度は霊力と気力を少しずつ時間をかけて取り出し、それをより慎重に混ぜ合わせた。二つのエネルギーが体の中で混ざり合ううちに、腹の中が少し熱くなってくる。そうして十分に混ざり合ったところで、スーディアは指を動かし陣を描き始めた。
「水球!」
スーディアがそう声を上げると同時に、小さな水の球ができた。ピンポン玉ほどのそれはフラフラと飛んでいくと扉に当たり、砕け散る。扉と床の一部がわずかに濡れた。
手品師でも簡単に再現できるのではないかと思えるほど、小さくて地味な魔法だった。しかし、魔法は魔法だ。スーディアは思わず目を見開き、口から「おおっ!」と息を漏らす。
こうやって魔法が使えるときをどれほど待ち焦がれていただろうか。数年、いや十年以上は待ち続けていた気がする。スーディアの心が沸き立って、ほのかに暖かくなったような気がした。さながら宝物でも見つけたような気分である。
しかし、感動してばかりはいられない。スーディアは気を取り直すと改めて魔法の練習に取り掛かる。そうしてさらに二回ほど水球を撃った時、彼女の身体にちょっとした異変が起きた。
「出ない?」
先ほどまで問題なく出せていた霊力と気力が、何故か出てこない。もう体の中にある力を使いきってしまったのだろうか。スーディアはそう考えたが、そうだとすると少しおかしかった。体内の気力と霊力が減ると、それに伴って疲労感が現れてくると本には書かれていたのだ。ようは体力の様なものである。体力を使いきったからと言って、いきなり完全に体を動かせなくなるということはないだろう。しかも、今の彼女はまだまだ元気である。
「何これ、全く出ない……」
うんうんと唸ったが、出ない物は出なかった。
蛇口か何かをかっちりと閉められてしまったかのように、わずかたりとも。
スーディアは予想とは違う感覚にわずかに戸惑うものの受け入れるしかない。彼女はとりあえず今日のところの修行を打ち切ると、本を本棚へと戻して何事もなかったかのようにベッドへ戻った。すると掃除を終えたアンネが戻ってくるが、全く気付いた様子はなかった。
魔力は練習である程度増えるらしいから、これから頑張らないと。ベッドにもぐりこみながら、スーディアはそんなことを考えたのであった。