第二話 転生と目標
音祢が目をさましてから、約一か月の月日が流れた。
彼女はあれから暗い地下室に放置されることもなく、窓際の柔らかなベッドの上で暮らしている。割と上等なベビーベッドで、よく磨かれた手すりなどはささくれ一つなかった。クッションも頭が埋もれてしまうほど柔らかく、居心地は良い。
どういう経緯なのかはさっぱりわからないが、どうやら自身は生まれ変わりというものを経験したらしい。音祢は現在の状況を一カ月かけてようやく理解した。
彼女の身体は今、赤ん坊になってしまっていた。
体を洗われる時に風呂場で鏡を見たから疑いようもない。湯気で少し曇っていたが、鏡にははっきりとずんぐりとした小さな胴体やジャガイモのような丸っこい手足が映されていた。これを見たら、彼女もさすがに現状を理解せざるを得ない。
輪廻転生。
仏教には疎い音祢だったが、その言葉ぐらいは聞いたことがある。私には前世の記憶があるとか、そういうやつだ。オカルト好きの音祢としてはその存在を肯定してはいたが、まさか実際に経験することになるとは。もっとも、予想していなかっただけでしてみたいと思ったことは何度となくある。もちろん、転生する先は地球ではない魔法がある世界だ。
故に、転生したこと自体はさほど悪いことではない。むしろ音祢は喜んですらいた。退屈な日常は彼女にとって何よりも嫌なものであったし、変わり者とみなされていた彼女は友人なども限られていた。しいて言うなら、絶対にプレイしたいと思っていたゲームがプレイできなかったことが心残りな程度だろうか。
しかし困ったことに、転生した先の環境は少し複雑なようだった。
音祢の両親らしき人物の姿が見当たらないのだ。彼女の面倒は地下室で出会った女が見ているが、女は音祢の母というわけではないようだ。時折だが、彼女は背筋が冷えるほどの鋭いまなざしを音祢に向けてくる。とても血のつながった母とは思えなかった。さらに、彼女は授乳するときいつも母乳ではなく哺乳瓶と粉ミルクの様なものを使っている。
二十代に見える女はまだ独り身のようだが、かなり裕福な暮らしをしていた。
部屋はアンティーク風のセンスのいい調度に溢れていて、エプロンドレスを着たメイド風の女が一人いる。大方、金持ちの女が商売か何かの跡目を継ぐものとして自身を引き取ったのだろう。音祢はそう考えていたし、そう考えればだいたいの辻褄があった。
ただ、自ら引き取ったならばなぜあれほど険しい顔を音祢へ向けねばならないのか。音祢にはそのことだけがわからなかった。子どもが嫌いなのであれば、最初から引き取らなければいいだろう。もしかすると、深いしがらみか何かでやむにやまれず引き取ったのかもしれないが……その可能性を音祢はあまり考えたくはなかった。転生したはいいが、保護者との仲が最悪などという事態にはなりたくない。
――考えることが多すぎるなあ。
音祢はそう心の中で呟くと、考えることをいったん放棄して睡魔に身を任せた。
◇ ◇ ◇
さらに半年の月日が流れた。
優秀な体に転生したのか、赤ん坊だからかは分からないが音祢は女やメイドの話す言葉をそれなりに理解できるようになってきていた。前世では日常会話程度の英語を習得するのに十年ぐらいの歳月をかけていたのが、嘘のようである。
しかし、言葉が理解できるようになったのは良いが得られた情報はあまりなかった。せいぜい、音祢の今世での名前がスーディアであることや、保護者の女の名前がジルであるということぐらいしかわからなかった。
そこで音祢ことスーディアは、最近になってできるようになったハイハイを駆使してもっぱら家の中を探検していた。ハイハイといえど侮れない物で、毎日のように家の中を見ているといろいろなことが分かってくる。
まずこの家は非常に広い。
がっしりとした石造の二階建てで、部屋数は地上部分だけで八部屋。地下室も含めると、合計九部屋もある。さらにどの部屋も十畳以上の広さがあるから、相当な大邸宅だ。かなり古い建物であることからすると、先祖代々に渡って受け継いできた屋敷とかそういうものかもしれない。
家の立地は風光明美なリゾートのような場所だ。
海沿いの斜面に張り付くようにして小さな町が広がっており、それを見下ろす崖の上部にこの家はある。海は見渡す限り蒼く、町から遥か遠くへと伸びる純白の橋との対比が美しかった。町の建物は全て白壁と赤煉瓦の瓦屋根で構成されていて、日差しを反射して輝いていた。絵葉書に映る地中海沿いの港町のような雰囲気だ。少し孤立していて不便な場所のようではあるが、家の立地としては申し分ないだろう。
――気持ちいい、最高!
窓辺に置かれた椅子の上から、音祢はいつものように町や海を見下ろしていた。吹き抜ける潮風はかすかに磯の香りをはらんでいて、まだ短い音祢の髪を優しく撫でる。眼下の家並から頭一つ高く飛び出した時計塔の文字盤を見ると、今の時刻は午後二時。昼下がりの一番風が気持ちいい時間だ。
うつらうつらとしていると、下の方から何やら騒がしい声が聞こえてくる。猫のように細くなっていた音祢の瞳が、すっと開かれた。視線を下げてみると、家の下にある広場に子どもたちが集まっていた。広場の横に聳える崖に共鳴しているのか、甲高い声がはっきりと聞こえてくる
彼らはみな、ジルが着ていた波紋様の黒マントに似たようなマントを着込んでいた。しかし、借り物なのかどの子も丈があっていない。石畳に擦れるマントの裾は少し茶色くなっていた。
「魔導師ごっこやるぞー!」
「イエ~~イ!!」
「まずは炎陣からやるか。あの岩を狙ってぶっこめ!」
他の子より一回り体の大きな子が、音祢の家の隣のあたりを指差してそう叫んだ。音祢にははっきりとは見えないが、崖の上に大きな岩でもあるのだろう。子どもたちは一斉にそちらを振り向くと、指揮棒にも似た小振りな棒を取り出した。太さは人差し指ほどで、長さは子どもたちの腕の半分ぐらいだろうか。彼らはそれをフェンシングのよろしく構えると、空中に紋様を描くように振る。
――私も昔は似たようなことやったな。
小さい頃、大流行していたバトル漫画の真似をして必死に手からビームを出す練習をしていたことをスーディアは思い出した。きっと、あれに似たようなものなんだろう。彼女は何となく微笑ましい気分になりながら、子どもたちを見守る。
すると、出た。
ライターの火にも満たないほどの、小さな火だった。
しかし、確かにそれは子どもたちの正面、何もないところから出現した。
――嘘!?
驚いたスーディアは思わず窓の方へと身体を傾けた。するとたちまちバランスが崩れて、椅子が傾き始める。スーディアはとっさに窓枠をつかんだが、間に合わなかった。彼女の身体が窓の外へと落ちていく。
――ヤバい!
襲い来る浮遊感に全身の産毛が逆立つ。
だが次の瞬間、彼女の身体を何か柔らかいものが支える。固く閉じていた眼を恐る恐る開くと、透明なゼリーのようなものが彼女の身体をがっしりと包みこんでいた。それは近くに置かれていた花瓶から伸びてきていた。フラスコに似た形をした花瓶の小さな口から、それとは明らかに不釣り合いな太さの透明な腕が生えている。
「危なかった……」
振り向くと、そこには蒼い顔をしたジルの姿があった。彼女の右手もまた、先ほどの子どもたちの様に小さな杖を握っている。
ジルは左手でゆっくりとスーディアを抱えると、右手の印を解いた。するとたちまち、スーディアを支えていた透明な腕が崩れ落ちる。腕はたちまち無色透明な水となり、窓の外へと降り注いだ。誰かがそれ被ったのか、遥か下の方から子どもたちの嬌声が聞こえてくる。
――今のはなんだ?
スーディアの思考が瞬く間に混乱をきたした。飛びだす炎と水の腕のイメージがグルグルと際限なく回っていく。全く原理などは不明だが、明らかにこれはトリックなどではない。スプーン曲げなどとはわけが違う。
「アンネ! 来なさい!」
ジルはそういうと、懐から鈴を取り出して鳴らした。するとたちまちバタバタと足音が響いてきて、扉が押し開かれる。
「ご用でしょうか?」
「スーが窓から落ちそうになってたわ。眼を離さないでって言ったでしょう?」
「申し訳ありません、ジル様」
「以後気をつけるように。万が一のことがあっては大変だから」
アンネはジルに深々と頭を下げた。ジルはやれやれとばかりに息をつくと、スーディアをアンネに預けて部屋を出て行く。スーディアの身体をしっかりと受け取ったアンネは、そのまま彼女をベッドの上に寝かしつけた。高い柵があり、簡単には外へ出られないようになっている専用のベッドである。
しばらく外へは出られないと思ったスーディアは、今日起こった出来事をしっかりと考え直してみることにした。炎を出す子どもたち、水を操るジル。さらに子どもたちが発していた魔導師ごっこという言葉……。ジルの頭の中で三つのキーワードが化学反応を起こし、一つの答えを導き出す。それはスーディア、いや音祢にとって最高にワクワクする言葉だった。
――間違いない、魔法だ。この場所、いやこの世界には魔法がある!
スーディアの生涯にわたる目標が、生後七カ月にしてはっきりと決まった。
魔法使い、それも物語に出てくるような大魔法使いになるんだと。
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