第一話 仄暗い部屋
音祢が目覚めようとすると、瞼がひどく重かった。
すっかり強張ってしまっていたそれをどうにか開くと、闇が広がっている。もしかしてまだ、瞼が開いていないのだろうか。音祢はとっさに何度か瞬きしたが、瞼はきっちり開いているようだった。やがて眼が慣れてきて、知らない世界が見えてくる。
どこかの地下室であるようだった。それも、相当古い地下室だ。壁はコンクリートではなく石組で、しかもところどころ苔生している。部屋の中の空気はずいぶんと湿り気を帯びていて、冷たかった。防水や防湿と言った処理が碌になされていない証拠だ。どうみても、ここ最近の建築ではなかろう。数十年、いや数百年単位の時を経ているかもしれない。
音祢から見て左側に木製の扉があった。それを縁取っている金具が、湿気に耐えかねたのか一部錆びて外れてしまっている。そうしてできた細い長方形の隙間から、一条の光が部屋の奥へと差し込んでいた。これが今のところ、この部屋の唯一の光源だ。音祢はその光に導かれるように、扉の方へ歩こうとする。
しかし、足が上手く動かなかった。力が全くと言っていいほど入らない。ならばと今度は匍匐前進しようとしたが、それすらもできなかった。音祢は現在、仰向けで横になっている状態だが、体を動かしうつぶせになること自体ができない。
「ギャア……!!」
思わず声を上げた音祢だったが、声すらまともに出せないようだった。喉に力を込めても「が」と「ぎ」の中間のような、聞き苦しい音しか出せない。七色とまではいかなくとも五色ぐらいはある声を出せた音祢にとって、これはかなり衝撃的だ。
あの後、いったい何があったというのだろうか。本を特殊警棒でつついてみたところまでは、音祢にもはっきりとした記憶がある。だがその後のことはどうにも思い出せない。思い出そうとすると背中に痺れが走り、頭が白く染まってしまうのだ。さながら、音祢の脳がその記憶を拒んでいるようですらある。
もしかすると誰かに誘拐され、今は監禁されているのかもしれない。音祢の頭にそんな考えが浮かんできたが、その可能性は低いように思えた。音祢の父は大手と呼ばれる企業に勤めてはいたが、重役というわけでもなく収入は一般的。母も専業主婦で、同居してる兄に至ってはフリーターだ。特に狙われる要素はない。
音祢の頭の中で脈絡のない考えが次々と浮かんでは消えていくが、どれも頼りなくこれだと言える決定的なものがない。現状はさっぱり分からないままだ。頭の中をむなしい思考だけがメリーゴーランドよろしく次々とめぐっていく。
ひょっとすると、このままずっとこの暗い地下室に放置され続けるのかもしれない。仄暗い地下室の中で飢えて、やがて死に、骨となって周囲の土と一体化していく…………考えただけで背筋が凍った。魂がどこかへ飛んでいくような虚無感が、一瞬だが音祢を包み込む。それは言葉では言い表せないような、恐怖を伴う感覚だった。
このままではいけない、何か行動を起こさなければ。音祢は激しい危機感を覚えたものの、何をすればいいのか見当もつかない。頭を掻きむしりたくなるような歯がゆさがドンドンと募っていく。
言いようもないもどかしさが、たちまち彼女の心を満たした。
ほろり、涙が滴り落ちる。とめどなくとめどなく、眼から熱いものが溢れてくる。音祢はそれを堪えることが全くできなかった。それどころか、震える声帯が自然と泣き声を上げてしまう。まるで、体がそれを求めているかのように。
「グギャア、ギャア!」
静寂を湛える水面に石を投げたかのように、声の波動が瞬く間に広がっていく。それは石壁に達すると反響し、さらに大きな音の波となった。やがてその波は古びた扉を突き抜けて、その外までも広がって行く。
しばらくすると、カツーンカツーンと硬い音が響いてきた。その音は時がたつにつれて徐々に大きくなっていく。最初の内はその音がどこから聞こえてくるかわからなかったが、どうやら扉の向こうから響いてくるようだった。誰かの足音だろうか。気になった音祢はすぐに泣くのをやめようとするが、涙は全く止まらない。
そうしていると、音が止んだ。ギシッと鈍い音が響すると、埃を舞い上げながら扉がゆっくりと動き始めた。光の筋が急激にその太さを増していき、闇に適応しすぎていた音祢は思わず眼を細めてしまう。
細い人影だった。眼が慣れるにつれてその輪郭が少しずつはっきりしてくる。女だ。波の形をした模様が入った黒マントを羽織っているが、体にははっきりとした凹凸があるのが見て取れる。顔の造りは判然としないが、肩口で切りそろえられた黒髪は艶やかで肌の色は抜けるように白い。
女はゆっくりと近づいてきた。やがてその顔が少しずつ見えてくる。まずは眼。冷え冷えと冴えわたる蒼の瞳が、音祢の方をすっと見据えていた。美しいが、何もかも見透かしたような印象を与える眼だ。次は口。ぷっくりとした桜色の唇が、ギュッと固く結ばれている。それは何か尋常ならざる強い意志を感じさせた。最後は鼻。高く通った鼻梁はさながら西洋人形の様な人間離れした造形美を誇っている。
女は全体として大層な美人だったが、その顔はやけに険しかった。眉間の中心に深い縦皺が刻まれている。美人が怒ると怖いとはよく言うが、この女もその例に漏れないようだった。その瞳の鋭さに、音祢の背中を寒気が走るが彼女は何もできない。
「カルトマポラ、スティルティティ」
女の唇が何事か言葉を発したが、全く聞いたことのない言語だった。高音を中心とした発声は日本語とは明らかに違っていたから、どこかの地方の方言ということはないだろう。日本とは全く別の異国の言葉であることは確かだ。さらに言うなら、英語ではおそらくない。
「アルコン、ナルティティア」
女の後ろから、また別の声が響いてきた。姿は見えないが、おそらく高齢の男性だろう。重苦しい印象を与える声は低音な上に少し掠れている。さらにその声は何か思いつめているようでもあった。
「ルルガトルト」
女は後ろを振り返ると、音祢を指差して何事かつぶやいた。
「ラルル、コルトッポガ」
男の声は張り詰めていて、相当な早口だった。全く意味はわからないが、何か焦っているのが音祢にも伝わる。
「オギャア、ギャア」
音祢は女に「あなたは誰ですか?」と聞こうと声を発した。しかし、口から出たのはわけのわからないうめき声だ。先ほどまでのこともある。きっと、喉が完全におかしくなってしまっているのだろう。もしかしたら、自分は何かひどいけがや病気にでもなっているのかもしれない。音祢の頭を嫌な考えが巡る。
「コルティボルト、カルカラ」
女は音祢のうめき声を聞くと、酷く冷静な声でつぶやいた。遠くから、息を呑む男の唸り声が聞こえてくる。
「カラカン!? ハトンポルテッシガ!!」
男の声は半分怒号と化していた。きっと、口から唾でも飛ばしているに違いない。
「カルティア、アアトコル!」
それに応じた女の声もまた、覇気に満ちていた。彼女は膝を床につけて腰を曲げると、音祢の方へと手を伸ばす。すると音祢の身体がいともたやすく持ち上がった。買い物袋でも持ち上げるような気軽さだ。
――嘘ッ!?
いくら音祢が小柄な体格をしていると言っても、体重四十キロ以上はある。とても女の細腕で軽々と持ち上がるとは思えなかった。さらに女は音祢の身体を自身の胸元に抱え込んでしまっている。彼女がビルのような巨体を誇る巨人でもなければ、不可能な芸当だ。
女は混乱している音祢の身体をしっかりと胸に抱きとめると、そのまま扉を抜けて地下室を出た。扉の向こうはこれまた薄暗い階段が長く長く伸びている。石組みの壁には松明が灯してあって、橙の炎が怪しげにゆれていた。地下室の様子と同様にここもまたずいぶん時代がかっている。
扉の脇に、一人の老人が立っていた。先ほどの声の主と見て間違いないだろう。女と同じ波模様の黒マントを羽織っていて、ごましおの頭にこれまた黒の頭巾を被っている。顔に刻まれた皺の深さからすると、七十は過ぎているだろうか。煙管から紫煙をくゆらせるその姿は、威厳に満ち溢れている。
「カルティナン、トルポル?」
老人は女の方を鋭いまなざしで睨んでいた。その声に、女はさも当然とばかりに頷いて答える。老人は眼を細めると、やれやれとばかりに煙を吐き出した。
「ルルティケルト、ナンシルカ」
女は老人に向かって笑いかけると、勢いよく階段をのぼりはじめた。その弾む胸の中で、音祢はただひたすらに混乱していた――。
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