第一話:緑衣の王様
金魚の親爺が死んだ。
原因は窒息死か餓死だろう。水が汚かった、エサもなかった。まー、あの親爺はもともと健康な方ではなかった。
退屈に溺れる毎日。いつも出っ張った腹を揺さぶって俺を笑わせる、お人良しバカの親爺。それがオレンジの衣装から白い腹をのぞかせて、浮かび上がって来たのは今朝のことだ。あいつが死んで、この世界に残るのは俺とこの陰気な女だけになっちまった。
そんだけの話と言えば、そう。
「デブリン……」
狭苦しい部屋、俺が閉じ込められたこの世界でさめざめと女は泣く。普段は額の両脇にしりぞく剛毛の前髪が、今日ばかりは役目を果たしていた。顔が隠れて物凄く暗いんだわな。
お前のせいだってのに。
結局、親爺は死ぬまでデブリンと呼ばれた。あんた、つくづく浮かばれねえよな、金魚の親爺。
うねるように澱んだ空気の部屋。此処はアパートらしく、隣の部屋から漏れる深夜番組のくぐもった音がさらなる陰気さの演出に成功している。唯一部屋を照らしているエセ太陽――蛍光灯の明かりも人工的というか趣味が悪りぃというか。とにかく、此処で暮らしてきてわかったのは、この女は非常に趣味が悪いということぐらいだった。
――俺の見事な緑衣が宇宙人みたいにライトアップされちまったらどうすんだよ。メキシコ産まれの王者にこんな扱いしやがって。
“メキシコ産”だぞ。おい、聞いてるか?
というか、聞け。
小さい島国で、しかもアパートで、冴えない女とサバイバルに共同生活するべきサボテンじゃない。第一色気がねえ。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら女の引き籠もっていた布団の中からひときわ大きい嗚咽と、そして屁の音がとどろいた。
……マジかよ。
色んな音を出すな、やめてくれ。
女って生き物はなんでこう始終騒がしいのか、永遠の哲学だと思った。静かに親爺を弔えないのか。
トゲをすくめて、人間のように二酸化炭素だらけの溜息を吐けたらどんなにいいことか。
月夜の晩を遠ざける部屋。重苦しいカーテンが俺たちを閉じ込めて、今日もまた“誕生の挨拶”が出来ない事実にもう嘆く気も失せていた。
「あらアンタ、まだ“誕生の挨拶”してないの? 無断でこの世に腰を下ろしているなんて、なんて図々しいのかしら! ワルイことは言わないから、天の日陰さまにご挨拶いたしなさいな」
「うるせえよ」
「まぁっ! ダメよ、そんな口の利き方」
甲高い鳴き声で小言を言うのは年齢不詳のメス鳩である。朝だろうが昼だろうが下がっている小憎らしいカーテンの向こうで胸を張る、彼女のシルエットの寸胴さから見かけの悪さを想像できた。六児の親と噂される彼女のお節介ぶりは正直鬱陶しいのだが、かと言って他にすることがないというのが淋しい植木の宿命か。
――根強くなる為に生まれたはずだったが。
人生の始まりが狭苦しいこの部屋でってのは実際予定外だ。俺が目を覚ましたのは大抵の生き物が寝静まった時間帯だった。生まれた時間が夜ならば、陰様に挨拶しなければならないのがこの世界の掟。
天の日陰様の片割れ――つまりは月の婦人――に、これから宜しくと声を掛けようとしたが、生憎初対面から愛想のなかったカーテンのヤツが俺達の間を阻んでいた。
「アンタそれでも生物界の評判が悪いんだから」
「――知ってるよ」
それぐらいいくら自分の身辺状況に疎い俺だって知っている。天の日陰様に認めてもらえないということは、他の生物にも認めてもらえないということだ。俺と同期であるこの部屋の植物達は皆水不足で枯れてしまったし、唯一話し相手であった金魚の親爺も死んで、今俺に話しかけてくるのはこの物好きなメス鳩ぐらいなものである。俺に話しかけているというだけで世間からは良い目で見られるはずがないのに、彼女のお節介癖は収まることをしらないらしい。
別にそこまで誰かが必要な状況でもないのだが、俺ってサボテンはそんなに人恋しそうに見えるんだろうか?
おいおい冗談じゃねえ。心外だ。
「ガキが飯待ってるんじゃないのか?」
俺の含みを持たせた嫌味に言い返そうとした彼女は、微動だにしない俺の影を前にしかし諦めたように羽ばたいていった。
やれやれだ。暫く羽音が遠ざかる様子に聴き入る。
お喋りなメス鳩が消えてより静けさが増した気がした。シン……、とした部屋を眺めて今日も時間をやり過ごすのだろう。
こんな毎日の何処が楽しいのだろうか? TVで観てわかったことだが、どう考えてもうちの冴えない女は“引き籠り”と呼ばれる品種の一歩手前。仕事があいつの唯一の活動時間で、後はこの部屋でなんにもしない。人間って生き物は仕事といっても屋内に居ることが大抵らしいし、出掛けるとかしないと、光合成が出来ないんじゃないんか?
そうだ。
それだよ。
光合成が出来ないからあの女は縁起悪りぃ顔ばっかしてるんだ。どおりで水やりもエサやりも忘れる。
俺は水不足でもやっていけるが、それにしても厄介な女の家に生まれちまったもんだね。
換気のなされていないこの部屋は浄化するだけで一苦労だってのに。
せめてこの前通販でやってた、驚きのお値段とやら――空気清浄機を相棒に欲しいよ俺は。
考えても無駄なので、ふて寝することに決めた。
ガチャリとかガチャンとかそんな感じの音がしたのは多分お日様が地球の裏側で眠りにつこうとし始めた頃。「おじゃましまーす」と若い女の声が響いて、俺を驚かせた。うちのあの女が、他の人間を連れてきたなんて。
「何もないの」
消え入りそうなうちの女の声に、俺は胸中で趣味も悪いぞと付け足した。土色に髪の毛を染め上げている来客はうちの女の同僚なのか、身軽な足取りで上がりこんできた。キョロキョロと室内を見回して、どうやら必死にフォローの言葉を探しているようだった。
まあ、見つからんだろ。
簡素な家具類を見回すことを諦めて簡易テーブルの前に正座した若い女はそれでも俺が感心するほど、見事に明るい声をあげた。
「そう? エミの家すっきりしてて落ち着くよー」
「そんな事ないよ。この前も金魚死んじゃったし」
「……そう、なんだ」
折角の褒め言葉を即座に否定され、詰まったように来客は床を見つめた。
ダメじゃねえか、エミ。
どうやらうちの女はエミというらしい。サエミとかエミコとかかも知れないけど。
空気が読めていないのか、早く女に帰って欲しいのかとにかく気を遣った来客の発言に対して凄まじく破壊力を持ったカウンターパンチを効かせたエミの台詞に、俺は苦しくて仕方なくなっていた。おかしいだろ、おかしすぎて二酸化炭素が吸えねえって。
「あ……。ゴメン」
エミが呟いた。
何を謝ってるんだろうと首をかしげた来客をよそに、エミはキッチンへ向かう。俺の予想ではきっとお茶を淹れに行ったのだと思うが、言葉が足りないので不可解な行動にしか映らない。エミがそんな調子なんで来客である若い女は始終首をかしげる羽目になった。
当然のことだが、そんなんで長く続くはずがない。
結局暫くして、来客は用事があるとかなんとか言って、そそくさと帰って行ったのだった。
ガチャンとかガチャリとかの音を残して。
その音を掻き消すようにぐんと落ちたのは、部屋の彩度だ。
――悪い女ではなかったが。仲良くしねんだからな、うちの馬鹿女は。
ふふふーん……。
閉じられた玄関ドアを何をするでもなく見つめて長い長い溜息を吐いたエミは、布団に這うように潜り込んだあと、気色悪い鼻歌を歌い始めた。背中の丸みで毛布を伸ばして不思議なメロディーを呟く。
『陰気コンサート』だ。久々に繰り広げられている、俺命名の彼女の十八番が。
初めてこのステージを目撃したときは寒気が走ったものだ。気色悪りぃから。それでも慣れってのは怖いもので、このおぞましい光景にも免疫がついて来ちまって彼女がステージを終えるのが大抵10分後って分かる辺りが俺も相当世界基準からズレてしまったようで悲しい。時計を眺めて彼女の鼻歌が終わるように念じていると、8分程経ったところで毛布からエミの顔が覗いた。髪ぼっさぼっさ。
「お風呂……」
忘れてたのかお前。
怠惰に足を引き摺るようにして彼女がバスルームに籠もる。不思議なメロディーの騒音がなくなったところで俺は寝ることにした。
認められない女と、認められない俺。
小さなアパートの窓際から始まって、そして其処で終わるようなとんだ共同生活を強いられた。
但しあの馬鹿女は自分で自分が認められないのであって俺は違う。とばっちりとかハズレクジとかを引いちまっただけなんだが。
どうせ今夜も陰様に挨拶できねえんだからよ。
そんなんばかりだ、毎日。
オアシスは近所だったはずなのに、俺の間抜けな祖先は海を越えてこんな狭い島国に来ちまったんだと思った、夢を見ながらそうだろうと考えた。それでも執拗に思考を邪魔する気なのか屋根がバチバチ悲鳴をあげているので、夢が遠ざかって仕方なく目を覚ました。屋根うるせえ。
ったく、この部屋の時間はとてつもなくスローだから、極力睡眠で誤魔化したかったってのにまだ夜が明けたばっかだろう。
寝ぼけ眼の俺は出来るだけ窓の方向を見ないようにした。頭がおかしくなりそうなので、雨の日は嫌いだった。
いくら俺がメキシコの王者ってったって。数週間前にエミの客人が来訪したあの時の、堂々たる緑衣姿は消えている。
水無しに生きていける訳ではないのだ。ずっと、それこそ生まれてから人間の片手で数えられるほどしか、あの馬鹿女は俺に水をやっていない。届きそうで届かない所に栄養源が大粒で土砂降りしていると思うと、拷問にさらされているようで本当に、気がおかしくなりそうだった。
しかし気が滅入るこちらをよそに、目覚ましのアラームに急かされてエミが起き上がったのは、スローな2時間をなんとか俺が耐え抜いた時だった。土砂降りであのメス鳩も来ない中にいると、数日くらい耐えた気がしたがね。
今日はどうやら人間にとっての休暇日らしい。
植物には休息なんてものはないんだが、それに比べると人間は何ともややこしい世界に生きている。休日という至福を設けて安らぎを得るらしい人間の性質に例外なく、エミも今日はやけに寝起きが良いように思えた。どうせ一人でゴロゴロする目論見だろう。何もせんなら俺に水を与えろ。
相変わらずぼっさぼっさの髪を梳かすこともせずに、トーストを焼いて口に詰め込み始める。
エミは味わって食べるんじゃなくて、収納するって感じで詰め込む。そして烏龍茶も無表情に収納する。あぁ馬鹿野郎、この際烏龍茶でも良いんだよ俺の水分を収納するな。
何だか少々怒りが湧いてきたが、怒ったら水分が出ていく気がするのでどうにも力が抜けてしまう。
エミは暫く何もせずゴロゴロして休みを満喫する気満々だったのだろうが、その時出番の滅多にないはずの彼女の携帯が鳴った。明らかに迷惑そうな顔をしたエミは床の上に放り出されたバッグに手を伸ばし、多少無理した弾んだ声で「もしもし」と応対していたものの、相手が判明した途端疲れたようにトーンが下がっていた。
会話の流れから言って、相手は彼女の実家の母親のようだった。今日来るらしい。
「忙しい」と断ろうとするエミだが、どうやら母親の方は娘と違って押しが強い女らしく、あっけなく雨の日の突然訪問が決定されていた。エミはよっぽど母の訪問がイヤなのか、通話を切った途端にベッドに携帯を放り投げて「何で来んのぉ〜」と呻きながらうずくまった。
人間てヤツは一人暮らしを続けると独り言が増えるという噂を聞いたことがある。エミもその属性に入るようだ。
10分程、うずくまったまま身動きをせずにいた彼女だが、突如何かのスイッチが入ったように立ち上がり、脱ぎ散らかした服や放り出された雑誌なんて物を片付け始める。
片付けるといっても、だ。
この馬鹿女はクローゼットに押し込んだりなんなりするだけってんだからタチが悪い。
良いのかねえ、綺麗にはなってねぇしよ。
俺様なんてのは見かけどおりのエコロジストなわけで、人間のために日々酸素を放出してやっている立場としてはエミの手抜き加減に溜息ものであるわけだった。
大体植物界の息は人間と違う。嫌味で出した溜息まで、不可抗力で何故か世界を浄化するんだぜ。嫌味だってのに。
そこんとこで、人間に属するエミはちっとは俺を尊敬してもいいんじゃねえかと思う。
感謝とかよ。
この世の理不尽について俺がしきりに考えていると、インターホンが騒ぎ出した。
一言で黙ればいいものを、今日のインターホンはやけにしつこい。掃除もどき中だったエミの額の両脇の前髪は湿気のために不機嫌に跳ねていて、面白いくらい迷惑げな表情をしていた。
おい、馬鹿女。
とにかく俺は、これから始まるであろう、――予感のする――、親子喧嘩に巻き込まれるのだきゃゴメンだからな。
「あァんた、何食べてんのよ毎日? 冷蔵庫に何も無いじゃないの」
久しぶりねとか、元気だった? ではない。
スーパーの袋を大量に抱え込んだパーマの女、――エミのお袋らしい――、の開口一番の台詞だった。エミに玄関を開けさせたあと水がぽたぽたと落ちる傘を傘置きに差した彼女は、何も言わずに上がりこんでビニールの食品を冷蔵庫に詰め込み始めた。勝手知ったる我が家という感じである。まだ玄関先に居たエミは、そんな親の唐突な行動に気圧されたように固まってやがった。
俺は親子揃って言葉が足りねえ辺りにDNAの神秘を感じてしまったが。
「ちょっと。タオルぐらい用意しなさいよ。母さんずぶ濡れでしょ」
不甲斐ない娘を持ったと言わんばかりに鼻息を荒げる母親に対して、「タオルくらい持ち歩いてよ……」と小さく呟いたエミは先ほどクローゼットに押し込んでいたタオルを取り出して放り投げた。それをキャッチした彼女の母親はざばざばと髪の毛を拭く。
そして、ふと気付いたように顔をしかめて低く唸った。
「また掃除の手を抜いたわね」
流石お袋さん、エミのことはお見通しらしい。しかし、その中途半端な見抜き方に俺は嫌な予感を覚えた。折角熟知しているはずの彼女の行動パターンが読み切れていない。
やべぇんじゃ?
そしてその予感は的中する事となる。どうも俺は勘がいい。
怒涛の如く繰り出されるダメ出しを前に、思考がショートしたエミは立ち竦んで逡巡した。
恐らくこの馬鹿女は久々に登場した親が痛烈に自分を攻撃してきたと思っているのだろう。
少し迷ったような素振りを見せたかと思ったら、悔しそうに唇をぎゅっと噛み締めて、意を決したように簡易テーブルに歩み寄るとバッグを引っ掴んで宣言したのだ。表情を隠して精一杯声をあげる。
「……私、今日人と会う約束があるから。ちょっと出てくる」
嘘つけ。
「うそ!? 待ちなさいよ、母さん置いてく気!?」
どんな意地が働いたのかは不明だが、行動力のない女が無駄にアクティブになった。
っていうか、大体お前今日は雨だぞ。万年引き籠りの癖して何してやがる。
俺のありがたい忠告と、母親の裏返った抗議の声。
二人の火に油な発言を無視して、ブーツを履いたエミは俺の栄養源の中に飛び出した。耳障りな音と共に玄関が閉まって、馬鹿女の足音が離れていく。
一瞬辺りが静まり返ったと思ったら、思い出したように雨音が増した。
「母さん独り……?」
呆然としたお袋さんの声が、風船が急速にしぼんでいく様を思い起こさせて虚しい。張り切りすぎた後だけに尚更に。
――大丈夫だ、俺も居る。
柄にもなく同情を込めて慰めの言葉を吐いた。あんたの娘さんに俺も苦労させられてるんですよ、と。
ところがだ。俺の貴重な同情の横で、窓辺のベッドに腰を下ろしたお袋さんは「やれやれ疲れたわー」なんて唸りながら自分を労わって肩を叩き始めたのである。
マジで、聞いちゃいねえ。
しかも独り言も遺伝かよ。
このお袋さんと居ると、どうもデジャビュを見ているようで仕方ないんだが。
気のせいではなくその通りなんだと思ったが、水不足のためか普段のように色々突っ込んでいたら無性に疲労を感じてしまって、俺は黙り込んだ。大粒の雨に屋根が悲鳴をあげる音と、お袋さんが肩を叩く音が共演する。そういえばエミ以外の人間と二人っきりになるのは初めてだ。
薄らいでゆく意識の片隅でそれにしては新鮮味を感じないと考えた。
なんだか、眠い。うとうとしていると微かに遠くで「今のうちに掃除を始めるか」というお袋さんの声と、少しして掃除機の吸引音が響き始めた。
音がどんどん遠のいてゆく。そしてどれだけ眠っていたのだろうか。うっすらと焦点が定かになりかけたと思ったその瞬間、いきなり眼前に肉厚な手の平のアップが迫ってきた。
なんだ!?
疑問に思う間もなくお袋さんに掴まれた俺は、乱暴な浮遊感に襲われるままに持ち上げられた。グラグラと有り得ない角度で室内が揺れる。それでも何とか冷静を保って、俺に空中ブランコをさせているお袋さんに視線を向けると彼女は目を細めて、少しでも値切ろうとする商人のような眼で俺を観察していた。
そして俺のその例えは、生憎と何も間違っていなかったのだ。
「もうダメね、これ」
お袋さんは俺を値踏みすると、そう結論付けた。
モウダメネモウダメネモウダメネ……。
――“もう駄目ね”
アァ!?
やっとその声が言葉に変換されて眩暈を感じた。気持ち悪り。
お袋さんの顔が壊れたテレビのようにぶれる。折角目が覚めたってのに、また意識が遠くなるような気がした。
落ち着け俺。落ち着いて考えろ。
今何て言いやがった? こいつ。
……“もうダメね”?
確かに最近の俺は本調子じゃない。水分不足に上乗せするように冬が忍び寄ってきた結果、体力を消耗しちまって、一張羅の緑衣が色褪せてきている。だが、挨拶さえ完了していない俺はまだ生きていることすら認められていないんだ。駄目って、……んな馬鹿な話があって堪るかよ。
俺の異議申し立てに耳を貸すことなくお袋さんは、古ぼけた鉢を床に置いた。意志を持たぬ鉢は抵抗などしない、仮に意志があったとしても。少し埃が舞って一瞬だけ視界が遮られる。
お袋さんの膝頭から上を見ることが難しくなった。人間が周囲に影を落としてそびえ立つ様を見たのは初めてだ。こんなにも圧迫感を感じるものだっただろうか。
ただでさえ薄明かりで閉鎖的な室内が、更に狭苦しく思えた。
捨てられたら会えるかもしれない。まだ見たことのない月の婦人は、こんな感じでないと良い。
――俺も此処で終わりだ。
半ば投げ遣りになったその時だった。
また耳障りな音を立ててエミが戻ってきたのは。
「ただいま」
言ったのは申し訳程度。
びしょ濡れになった彼女は俺に目をくれるでもなくドタドタと床を揺らして、タオルを頭に被せながらベッドにひっくり返ってきた。「土砂降り……」タオルを顔に移して疲れ果てたように一言。そんな彼女の行動にベッドサイドで呆れ返ったお袋さんは、思い出したように報告をした。
「あぁ、エミ。其処のサボテンもうダメだから、捨てるわよ」
まるでゴミ出しをする時のように。
気楽な言葉に切り捨てられたそれは、あまりに非現実的で。俺の話じゃないように思えた。
「んー?」
ベッドで放心していたエミは、お袋さんの台詞を聞き逃して上の空で訊き返す。
「だから、そのサボテンよ」
苛ついた母の声に、エミは煩わしそうにゆっくりとこちらを向いた。
意味が解らない。
そんな瞳で、一瞬俺の存在と正体を確認するように見つめる。エミがまともに俺に視線を向けたのはもしかするとそれが初めてだったのかもしれない。みすぼらしい緑衣だろ。自嘲気味に言う。
段々と母の言い分を理解してきたらしいエミは、弛緩していた表情筋を一気に強張らせた。何故だか、じわりとその瞳に涙が滲む。
「何言ってんの! 私のサボテンを、勝手に捨てないでよ!」
キィィーンと心の隅を引っ掻かんばかりに響く、ヒステリックな声。
気弱なエミは今までこんな怒声を出したことがない。その剣幕には思わずお袋さんも身を縮めた。
そういう俺も事態の展開についていけない。
呆気に取られる俺たちを前に、顔を真っ赤に腫らしてエミはベッドの上に仁王立ちした。タオルが慌てて逃げ落ちる。
「デブリンだって死んだのよ! これ以上、私から何を奪おうと言うの。勝手に押しかけてきたと思ったら、私の居ない間にサボテンを捨てる準備。もー、信じられない。さっさと出てってよ!」
20代女性とは思えぬほどの見事なキレっぷり。
これまで俺を見たことすらなかったエミが感情的に啖呵を切っている様子は、驚きを通り越して圧巻そのものだった。
お袋さんは確認を取らずに俺を捨てようとした訳ではない。俺をゴミ扱いしたそのセンスの悪さには辟易するが、どう考えてもエミの怒りは勘違いによる暴走だ。
だが、エミは引き籠りの馬鹿女だ。正直人間の中でも会話する事を知らない、ろくでもない類に入るだろう。
会話が苦手。だからこそこれ程反抗した事が今までなかったのかもしれない。
急速な事態に対応するタイミングを見失って、俺に手を掛けた姿勢で一時停止したお袋さんは金魚みてえに口をぱくつかせるのみだった。剛毛の中心でエミの眉間に皺が寄る。
「出てって!」
「エミ……」
哀れにも、狼狽する母。
鬼の形相で娘に睨まれたお袋さんはその迫力に押されるように渋々靴を履く。
娘の生活状態を心配した訪問はおよそ二時間で終焉を迎えた。訳も分からないうちに王者サボテンも顔負けの仁王様に昇格したエミによって、狭苦しい世界から拒絶されて玄関から吐き出されたのだ。
哀れ。
哀れだが。
俺は内心安堵していた。
エミ親子の事情などこっちの知ったことじゃねえ。
何が何だか分からねえが、取り敢えず俺は延命したのだ。まだ、日陰様に生かしてもらえる可能性はある。
「で、生き延びたの。しぶといのよね、サボテンって」
身も凍るような室内と比べてお日様に守られた3階アパートのベランダはさぞかし暖かいのだろう。冬の到来を気にもせず、しきりに首を上下させるのは例のメス鳩だ。俺は寒いのを堪えてるってのにいけしゃあしゃあと抜かしやがる。
俺が生き延びたことを喜ぶでもなく、悲しむでもなく、まだ日陰様に排除されなかった事実を確認するかのように彼女は言った。まあ、下手に慰められるよりその方が心地良いんだが。
「大して環境が改善された訳じゃねえよ。うちの馬鹿女が悪戯に俺に興味を抱いただけだ。いつまで生きられるか」
「いやね、ちょっと元気になったと思ったらその口汚さだけは直ってないんだから。きっと天の日陰様がチャンスを下さったのよ、大事になさい」
普段雛鳥たちを世話していたせいだろう、メス鳩は自然と諭すような口調になっている。
「ところであの人間……、エミっていってたかしら? 彼女はずっとアンタに首ったけなんでし……」
「あー、分かった分かった。ガキらが待ってるぞ」
俺がうんざりしたように声をあげると彼女は器用になで肩をすくめて見せた。
「――仕方ないわね。またこのパターンで追い返されるの」
ガキの話を俺が始めたってことは、これ以上踏み込むなという警告でもあり会話終了の意思表示でもある。どうやら彼女もそこら辺のことに気付いてきたらしく、今では“ガキ”の二文字が出ると未練がましい素振りなど見せずに羽繕いを始めて飛び立つ準備をする。
「彼女の心を射止めるのよ」
カッチーン。
思わず効果音をあげちまうほど、心外な台詞を吐かれて俺の心はそれこそ瞬時に大量の反論を並べ立てた。要約すると俺はそんなにレベルの低いサボテンじゃねえって話だ。余程青春時代が懐かしいのか彼女は余計な誤解の声援を残しやがった。マジで余計なお世話だ。大体俺はサボテンで格式ある王者だぞ馬鹿野郎と胸中で悪態を吐く。
俺のブーイングは彼女に聴こえていないんだろうが。
言いたい放題言って満足したのだろう。強情にも俺達を閉じ込めるカーテンの向こう側から彼女は今日もそうやって窓内の住人をからかう世間話をして、蒼っぽい光が霞みがかる窓の奥へと去っていった。お日様が疲れやすい冬の、午後4時過ぎの光が世界の住人を励ますように柔らかい。
でもよ。
彼女の背中が小さな点になっていくのを眺めながら俺はそっと語りかけた。にしたって、お前の雛鳥はもう巣立ちをしているんだろ。未だにガキがいるような口振りで行動範囲を狭める口実作りやがって。わざわざこちらを騙してまで俺に青春を期待して遊ぶ暇があったら、新しい彼氏でも探していればいいものを。お前は天の日陰様に認められているのだから。
金魚の親爺といい、お前といい損な性格であると、そう思わずにはいられなかった。
そんな思考にとらわれて暫くメス鳩の人生を勝手に嘆いていると、相も変わらず薄暗い廊下の奥でカチリと遠慮気味に玄関ドアの鍵が開く音が響く。
「ただいま……」虚空に言葉を漂わせながらふらふらとエミが帰ってきて、仕事鞄を簡易テーブルに投げ出して放心したようにベッドにも身を投げる。お袋さんが帰ってからというものこの女は全くと言っていい程食事を摂ることもなく、冷蔵庫の中はすっからかんだってのに今日もスーパーの袋は持って帰っていない。
夕日も暮れかけた暗闇の中で這いつくばっているエミ。ナメクジみてぇだと思っていたら、彼女の瞳が俺の存在を確認した途端に灯りを燈した。そしてむくりと起き上がると、次第に水気が増してきたその瞳で俺にすがりつくように訴えてきた。
今日もか。
「私、何やってもダメなの。皆人徳があって引っ張り凧なのに私は派遣の依頼だって中々入らない。やっと手に入れた3つめの仕事で今までよりは経験だって積んでるはずなのに、新しい社員達の中で上司との交流の計り方が解らない。人間なんて胸の内に何を潜めてるか解らないでしょ?」
なにを思い出したのか、彼女はぐすんとすすり上げた。
「どうしたら良いと思う? 私は物覚えが悪くてミスばかり繰り返してる、また荒谷さんを苛つかせた。リュウジンボクが羨ましいよ、毎日ぼーっとしてるだけで許されるなら幸せなのに」
窓縁に頬杖をついてこれ見よがしに溜め息を零した。
そして、俺の名を呼んで植木鉢に触る。こいつはあのお袋さんの一件以来俺のことしか頭にないようで、仕事を早々に済ませると寄り道もせず真っ先にこの狭苦しい世界に閉じ籠るのを日課とするようになった。そして誰とも会わない。
昔から不健康な女だったが、今や病的なまでにガリガリに痩せ細って青白い茎のようになっちまってるエミ。お前は光合成が足りなさ過ぎる。サボテンでいうバイラスのような――、何かそういう病気に掛かってるんじゃねえだろうか?
「私が世界を小さくしている現況だってことは解ってるよ。でもどうしようも無いんだ、今まで何度もこの世界から抜け出そうとしてきたけど。それでもね、最近はこのまま独りでも良いと思ってる。私にはリュウジンボクが居るもの。ずっと彼氏が出来なくても誰も周りに居なくても、貴方は私の話を黙って受け止めてくれる王子様だからさ」
コケてしまった頬で微かに微笑みを象ってエミは静かに涙を落とした。静寂に囲まれてふっと笑みを消すと何の躊躇いもなく針のように尖った俺の擦れた緑衣に指を滑らせる。その血色のない指先からツーッと血が滴り落ちて、そのうち何滴かが俺の衣服を紅に染めた。弱々しくも俺を撫でる彼女の利き手はあっという間に傷だらけになる。
馬鹿野郎。お前もメス鳩も何でこんなにオツムが弱いんだ。
俺が認められたいのは天の日陰様だ。俺はお前に認められたい訳じゃねえ。
今俺が逢いたいのは月の婦人で、別に色気のない勘違いな人間に好かれたいと思っていた訳じゃねえんだ。
お前は自分の世界を、その世界が内包する全てが否定されることを恐れているんだろ。だから急に俺を愛しく感じたんじゃないのか?
「水、持ってくるね」
血の滲む手に気付くこともなく俺が傍に居ることを確認した彼女は嬉しそうに笑みを漏らした。俺を生かすためにエミはベッドからゆっくりと身体を退けて人間の気配が絶たれ寂しげなキッチンへ向かう。流しから申し訳程度の水音が漏れた。
感覚が麻痺したのか本心ではそれを嬉しいと思う自分が異常だった。壊れている。
布団の空気が微かな吐息で揺れていた。泣き疲れたエミが海溝の眠りに落ちたのだろう。何処か落ち着かない心細げな横顔は、月光の慈愛が到達しない薄闇の中で俺の方を向いて一寸も動かなかった。痛々しいまでに紅かった指先は隠れていて伺えない。痛くねえのか。
俺の衣裳に刻まれた人間の刻印はエミによって拭われてはいたが、あの鮮明な光景は心の奥に貼りついたまま未だ払拭できずにいた。
全く不甲斐ない。俺が望んでいたのは天の日陰様への礼節であり、人間の女などに必要とされることなんて端から想定外だったのだ。なのに、何故。
この展開はどういうことだろうか。
例え窓辺が揺り籠となり、そして生物界の民となれずに此処を墓場としてたった一つの命が尽きたとしても。それでもその衝撃に独りで堪え抜く覚悟でいたはずの俺が、エミを必要としている?
――確かに最近の俺はこの馬鹿女に救われている。凍てつく冷気の中に放置されて、この見事な緑衣は原型を留めなくなっちまったけれど。何とか生き長らえる分の水や栄養は過分に与えられているし、恐らくこいつが居なかったら俺は不健康どころじゃない。あっさり死ぬのだ。
そして、この女も。
髪の間から覗く睫毛が彼女が呼吸をするたびに小さく揺らめくのを見つめながら思った。
もう俺が居ないと駄目なのかもしれない。
この狂った牢獄に圧迫された遣り切れない焦燥感に駆られて、俺の綻びた緑衣の部分は血液の温かみを感じている。悔しくて仕方ないことに、唯一俺を必要としているこの駄目女が、――俺は何よりも大事だった。
必要としているのは、俺の世話役としてなのかそれとも他に何かあるのか――、考えるのが馬鹿らしくなって俺は境目のわからない暗色の天井を振り仰いだ。
なんて要らねぇ感情。
月の婦人が一段と美しい夜なのだと何処かの渡り鳥たちが噂していたその日、エミはお日様が暮れても帰ってくることがなかった。
毎日真っ先に俺の元へ帰ってきていた癖に。見捨てられてのたれ死ぬんじゃないかという不安がよぎる。
ったく心変わりしたというなら、流石迷惑女だぜ。どういう思考回路してんだ、あいつ。
もしも彼女の身に……、という考えがなかったわけではない。それでも俺の嫌な予感はいらねえことに的中率が高いので心の片隅で考えることを拒絶していた。
もしも、もしも。
厳粛なツラをするカーテンが俺に重圧を掛けてきたが、軽いジャブで小馬鹿にしてやり返してやる。メキシコで鍛え上げた俺のパンチは半端じゃない。突き刺さるトゲの数々に反撃も出来ずにカーテンは立ち尽してやがった。
――今楽にしてやるよ。
とどめの一撃を繰り出してやろうとしたその時。
はばたきの音が聴覚に舞い降りて突如現実に引き戻された俺は、無傷で平然としたカーテンと向かい合う羽目になった。お陰で俺も元のボロボロ姿に戻る。
「ちょっとちょっと!」
俺が寝ているとでもと思ったのかメス鳩が大きく囀る。オバサン臭ぇヤツだ。
「うるせえな、起きてるよ。今良いとこだったのに」
どうせまた口の利き方を注意されるんだろうと思いながらも、ついいつもようにつっけんどんに言うと、メス鳩は早口に何かをまくしたてた。
「何を言うの、近くの歩道でヒッキー女が倒れてたのよ!」
「……は? っていうかお前、いつから夜行性になった」
俺の絶妙なツッコミに機嫌を損ねたのかメス鳩の声が極限まで震えた。
「だからヒッキーが!」
「……なんだよヒッキーって」
気まずい沈黙が降りる。俺が何かしたか?
信じられないと言いたげにメス鳩はくちばしを開いた。
「――アンタ、ヒッキーって言葉も知らないの」
「知らねえよ」
悪かったな、と低く唸る。噂好きのお前とは違ってこちとら囚われの身だ。
「……引き籠もりのことよ」
メス鳩の呟きに一瞬頭が真っ白になった。――引き籠もり女が倒れてた?
「……御冗談を」
呆然とした俺の声が、他人事を装って白々しく空中に拡散していく。
「もう、馬鹿」
白々しい残響が消えるのを待ちきれずに乱暴な動きでメス鳩は飛び立った。
嫌な予感がまた当たっちまった……。
取り残された俺はどうしようもなくカーテンを見つめるばかりだった。――倒れてたヒッキー女=引き籠もり=エミ?
遅れてやってきた焦りが俺を押し潰さんばかりに追い立てていく。てめぇは非力だよと、眼前を阻む重苦しいカーテンが追い打ちを掛けた。畜生。
それはもう目まぐるしく思考を回転させた。どうやって彼女を助けだせるか。
しかし何度考えても至る結論は俺が役立たずだという要らねえ事実だけだ。自分の無力加減が救いようもなく、息も吐けぬほどに苦しい。なにも手が出せない歯痒い状況に俺は柄にもなく焦っていた。
こんなんだから俺は生物界にも認められねえ。サボテンなんてろくなもんじゃない。
――誰が王子様だって?
笑っちまうぜと己を蔑む俺を、カーテンの野郎は無言の失笑で見据えた。重力が倍増したように暗がりを広げる部屋に寒気がする。
こんな凍える夜に、エミはたった独りで大丈夫なのか? 無事でいてくれる保障はないのだ。
……どうか陰様に救われてくれ。挨拶の一つもしない罰当たりな俺たちだけど。
秒針が機械的にコチコチと鳴り、焦る心を置いて無慈悲に時間が過ぎていく。後から後から迫る音に俺は追い立てられていた。狂気のような時がどれだけ経ったのかわからない。緑衣が痛い。
一体俺が何をしたってんだ。なあ日陰様、唯一俺を必要としてくれた存在を奪わないでくれよ。
――お願いだ。
もう俺は消える。足掻くのはやめるからよ。
ひきつけを起こしたような空間がその願いを聴き遂げてくれたのだろうか。暫くして暗色の粒子の奥から玄関がようやく音をあげて俺の気持ちを早らせた。
エミ……!
訃報を持った大家や他の人間ではないかという最悪の予想が首をもたげる。
しかし覗いたのはあの剛毛の前髪。エミだ。薄汚れた姿を滑り込ませた彼女は扉を閉めるとフラフラとベッドに歩み寄り倒れこんだ。俺の緑衣を確認してうっすらと目尻を揺らすと、赤く腫れあがった頬に手を置いてエミはうわごとのように呟く。
「変な鳩に突かれた……」
あいつか。
一気に力が抜ける。どうやら飛び立ってしまったメス鳩がエミをせっついてくれたらしいと思ったその瞬間、ベランダの方で僅かに物音がした。ばさりと羽を揺らして、これは貸しにしておくわと彼女が言ったようだった。心配になって見届けにきたのだろう。お人好し過ぎる。
だが今回ばかりはその性格がありがたかった。
そうホッと安堵していると、隣からゼェゼェとした呼吸が聴こえてきた。心なしか上気した顔の彼女があっという間に眠りに就いている。眉間に皺を寄せてうなされていた。
――大丈夫なのか、こいつ。
どうして倒れていたのか、どうしてこれ程苦しそうな寝息なのか。必死に答えを探る俺の心を以前TVから吐き出された“インフルエンザ”という単語が掠めた。静まった心が騒ぎだす。
もしそうなら。
もしそうなら、やはり天は手厳しい。
こいつの症状に気付いて看病をしてくれる人間など居ない。エミ自身も病院に行くか怪しい。
日陰様に挨拶をしたことがない奴は誰もこの異常事態に気付くことなどないのだ。
クソッ!
人間の女なんてだからまっぴらなんだ。
日常の異変と亀裂が見えない生物。天の日陰様を知らない罰当たりな種族。
今宵は月の婦人が綺麗な夜だってのに。カーテン一枚隔てたこちら側ではその存在を知らないエミが浅い呼吸を繰り返している。俺は何故この馬鹿女が大切なのだろう。
俺がしなくてはならないことは、本来望んでいるのは月の婦人との逢瀬のはずだった。
サボテンってのは寒さに弱い。
だから枯れたり病気になったりしないように冬眠に入る。――普通は。そうやって体内の栄養分を節約する。
だけど昨夜。天の日陰様に懇願したその瞬間から、俺にはそんな悠長な時間などなくなった。どうせ観賞用だと言えばそれまでだったが、半分眠った状態で彼女の弱音を聞くつもりはなかったし、何より俺は月の婦人を選んでいた。
婦人と挨拶をかわすにはこの憎らしいカーテンの野郎をぶっ倒さなければならない。それには弱った体内の栄養分のすべてを“成長”に費やして、背丈の増した俺の先端で夕刻のお日様を覆い尽くしたカーテンを少しずつまくる必要がある。
力尽きて死ぬか、生き残って挨拶を遂げるか一か八かの大勝負だった。
「力尽きて死ぬか、挨拶を遂げて死ぬか、でしょ」
「あ?」
「解っているくせに」
すべてお見通しだわと言うように彼女はガラス越しに近寄ってきた。
俺はこいつの嘘を追求したことがねえのに、どうやらこいつは探偵ぶって余計な名推理をぶちかましてくれるらしい。
「アンタがもし、お陰さまへの挨拶を達成できたとして。逢瀬ができるのはヒッキー女も同じことなんでしょう? 婦人の美しさに心酔した生物は、ただでさえ三日三晩“夢の世界に解き放たれる”と言われているの」
遠くの空で烏同士の言い争う濁声が重なり合って転がった。メス鳩は一息吐いて呟く。
「ヒッキー女が婦人に出会ったら最後、アンタなんて忘れてしまうでしょうに」
「……だろーな」
「――頭の弱そうな娘だもの。彼女が月の婦人の存在を知ったとして、“夢の世界に解き放たれ”でもしたら、見捨てられて世界から消えるのはアンタよ」
「人間の女に認められるなんて、柄じゃねえよ」
メス鳩のシルエットが膨張して薄暗い街並と空の一部が得体の知れない夜に飲み込まれていく。
漂う俺の言葉は唯一異質だ。
あの趣味の悪ぃ女はまだ帰ってきていない。病院で遅いのか、仕事で遅いのかは不明だった。
「私が――私が貸した借りは。死んだら返せないでしょう」
「……借りは返さない主義なんだよ。俺は婦人を拝んでみせる」
取りつく島のない俺の言い草。
食い下がろうとしていた彼女は、次第に肩を落としていって觜をつぐんだ。
「ガキが待ってるんじゃねえか?」
畳み掛けるように言うと、一瞬彼女はガキなど巣立ってしまったという事実を話そうとして――諦めたように鳴き声を落とした。
「――そうね」
建造物に紛れて沈んだ顔のお日様が地平線に姿を消す。カーテン越しで暗闇に滲むその声に触れた瞬間、俺は自分の言った台詞に後悔を覚えたが、今更何も取り繕う気もおきずに黙っていた。
羽繕いを始めていたメス鳩はそれでももう一度だけ顔をあげて訊く。
「そんなにしてまで婦人に逢わせたい?」
質問への返事を待たずに、メス鳩は折り畳んでいた羽を広げた。
「――光合成が出来ねえんだよ。下を向いてるだけじゃな」
さようなら。
そう言われた気がした。
俺の一言を合図にメス鳩は飛び立つ。突き放すようなはばたきの音に、俺は初めてアルコールという液体すがりたくなった。
狂ってると思うのだ。俺しか目に入らないなんて。ヤバいだろ? 絶対。
だから、俺はこの心地良い居場所から解放されるべきだ。メス鳩が姿を消してから約2週間、俺は朦朧とした意識のなかで背伸びをし続けていた。
エミの様態は相変わらず不調で、派遣先でクビにされてからはずっと俺の横で寝込んでいる。息苦しそうに布団にくるまり、彼女は俺に水を与えるばかりで自分の食事を摂らなかった。
メス鳩に最後の質問をされたあの時と同じ時間帯。同じ窓際。
彼女の面影はあまり思い出したくなかったが、代わり映えのしない俺の周囲がそれを許さない。
なにか違いがあるとすれば、薄く細やかな日差しがカーテンから少し、疎らに漏れるようになったことだろう。
お陰で俺の眼前は半分以上、カーテン野郎の布地が覆い被さって真っ暗だった。頭部は有り得ないほどに重く、身体中がズキズキと軋んでいた。
少しでも。上へ、上へ。
干からびた緑衣を見ないようにしてそれだけを考えた。集中して雑念を払っていると、ノイズに紛れて辛うじてメロディーと取れる音が控えめに部屋の空気を掠めるのを聴いた。
――私を月へ飛ばして。
いつからか少音量で掛けっぱなしだったラジオは、先程から“Fly Me To The Moon.”と紹介された曲をひっそりと放送している。
確かメス鳩が言っていた。何処でだか忘れたけれど、静かに月を形取る美しい音色を一度だけ聴いたことがある、と。途切れがちなこの曲がそれなのかもしれない。女々しい曲だった。
ときたま烏の声と、エミの咳き込みが混ざる。視界の隅に意識をやれば、彼女の剛毛が見える。この生活も長くはない。
……あと少しで解放されるんだ。
後ろ髪引く思考を中断させる。けじめをつけろ。
極限まで増した痛みを振り払い、俺は月の婦人に逢うために渾身の力で背伸びをした。その時。
違和感を感じる間もなく、鈍い衝撃音がばきりと嫌な音を立てた。何処から出たのかわからない。
そう思った瞬間だった。俺の暗転した景色は一瞬にして傾く。
どさりと小さな音を確認してやっと何が起きたのか理解した。
折れた。
――俺が。
唐突だった。
視界が霞んで真っ白に塗りつぶされる。限界メーターを振り切り、感覚を吹っ飛ばされて痛みさえ感じることが出来なかった。
息を吸えてないのかもしれない。身体機能を失った引き替えに聴覚だけが嫌にはっきりして、ノイズと布団のずれる音が鼓膜に残る。
このまま。何も出来ずに終わるのだろうか。
そんな不安が心を過ぎった。
「……あ」
エミがごそごそと起きだす気配。後ろの方から感じたそれをきっかけに、俺の視覚が少しずつ蘇ってきた。
何の考えもなくエミの方へ視線をやると、逃亡していた色彩が徐々に戻ってくる。
はっきりと見えた。こんなに見えて良いのかというほど。
半開きになった彼女の口。その瞳は次第に意志を持った光を帯び、ある一点を見つめていた。
――俺ではない。やけに眩しいその場所を。
力尽きた身体を引き摺るように、ぎこちない動作でエミの見つめる先を辿る。其処には見たこともない景色がでかでかと広がっていた。
信じられなかった。窓の5分の1が明るい。趣味の悪い光ではなく、染み渡るような明るさ――カーテンが僅かに押しのけられていたのだ。折れた、俺の上半身が布地を揺らしている。ともすれば眠りに就いてしまいそうに弱った自分を叱りつけ、窓の外を食い入るように見入った。
TVでしか見たことのなかった建物。ビルと、アパートが窓辺の縁の上で軒を連ねている。トーンを抑えたように寄り添う建物のなかに規則的な街路樹が彩りを付け足していた。人間の住む街。俺には鮮明過ぎる場所。
その上空に、朱の透明色が優しく降り積もっている。……これが空なのか。人間に遠慮するように、それでも確かな存在感を保って。居心地のよさそうな朱色の布団に収まって神々しい姿を沈めているのは、お日様だった。――俺の視界をさっきまで真っ白にしちまっていた当人。
就寝の準備で忙しげな彼に向かって沢山の鳥達がおやすみなさい、と話し掛けている。日没はもっと寂しいものだと、ずっと勘違いしていたのだが。
こんな世界があったのか? 俺の知らないところに。土色の髪の女や、エミのお袋さんや、メス鳩を包み込む切なくも懐かしい空間が。
今まで鈍っていた神経が眩しさに突然痛みを訴えてきて、俺は視線を逸らした。……限界だ。疲れたように俺の世界が青白む。
あの曲は終わったのだろうか? 聴覚も馬鹿になっていて、判断がつかなかった。
ついに無音と化した俺の前で、じっと動かずにただひたすら窓の外に吸い込まれていたエミが、ふっと手を伸ばした。伸びた手は、緑衣を越えてカーテンに触れる。
勢い良く開かれたカーテン。
その果てに彼女は居た。慎ましく綿雲の衣を身に纏って、まるく微笑む安らかな彼女。世界の生物を刺激することなく、そっと佇む月の婦人が、エミの手の平の延長線上で俺たち――いや、エミを見守っている。
今にも届きそうなすぐ其処に、俺の望んだ彼女は居る。
瞳いっぱいに月の婦人を映したエミは、ほーっと吐息を漏らしたようだった。
「綺麗……」
そんな感じの一言を落としたのだと思う。小さな雫を伝わせて、彼女は夢の世界に解き放たれた。
そうだ。俺が居なくても暮らしていければそれで良い。
残った力で薄く笑うと人間を真似て、溜息を吐いてみる。あまりエコロジーとは言えない酸素不足のちっぽけな息で月の婦人を滲ませると、薄れゆく意識のなかで俺は最後の挨拶をした。
――月の砂漠に俺は行くからよ。
外の世界も捨てたもんじゃないだろ? エミ。
『Fly Me To The Moon』
私を月へ連れて行って。
木星や火星にはどんな春があるのか、私に見せて欲しいの。...
(中略)
...私にとってあなただけ。
あなただけがかけがえのない、
大切で尊いもの。
言い換えればそう、愛してるということ。
こんにちは。綾無雲井です。
緑衣の王様、最後までお付き合い頂きありがとう御座いました。
上記の歌詞は、原文の意訳です。
この歌詞を知ったとき、エミの心を映したような曲だと思いました。
良く言えば可愛らしい。悪く言えばついつい甘えに走ってしまう引き籠り女と、それを罵倒しているけれども結局振り回されてしまっているサボテン。
それに巻き込まれてしまったメス鳩達の物語は一時終わりを迎えます。
(第二話で、メス鳩を中心にお話は始まります)
ところで、皆さんは“サボテン女”という言葉をご存知でしょうか?
無知な私は緑衣の王様を執筆し始めてから知ったのですが、『サボテンさえ枯らす女。サボテンのように劣悪な環境でも生活する事のできる女。』の事を示す言葉なんですね。
ただ、サボテンのように劣悪な環境でも〜と言っても、実はサボテンだって繊細です。
冬の寒さには弱いですし、窓際に置き過ぎると健康を害する事もある。
それでも、知識を持って大事に育てれば、何年でも傍に居てくれるのがサボテンであります。
(サボテンに関する資料を読み進めるうちに、彼の虜になってしまった私)
そんな一人暮らしのパートナーと、私が所属している作家サークルのお題『解放』が出会って、今回の第一話が生まれました。
楽しんで頂けたなら幸いです。
感想や、批評など、今後の執筆の糧となりますので、頂けましたら有頂天になります。
それでは、また今度。他のお話で。
≪2006年9月8日、自宅にて≫