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短編

Mの悲劇

作者: 間宮 榛



 言い訳を言わせてもらえるのならば、そこに彼女が無防備に眠っていたから、としか言いようがない。

 そもそも、彼女を見つけたのは本当に偶然だった。何度か通ったことのあるその家の前を、ふらりと通り過ぎようとした時だった。背の低い生垣の奥、開け放たれた窓の向こう、フローリングの上に、彼女が横たわっていた。

 最初は、倒れているのかと思った。外は殺人光線並みの日差しが容赦なく降り注いでいるし、照り返しと熱されたアスファルトからの熱気は下から蒸し焼きをしようとしているかのように思えるほどだった。それは宇宙全体が地上にいるすべての生き物を本気で殺そうとしているようにしか思えない。その暑さに、風もどこかに避暑に出かけてしまったようだ。だから、その暑さにやられて熱中症にでもなってしまったのかと思ったのだ。

 しかし、よくよく見てみると、彼女の胸は微かに上下している。生きている。こちらを向いている顔も苦悶の表情といったものではなく、とても穏やかなもので、耳を澄ませば一定のリズムを刻む寝息が聞こえてきた。ああ、生きている。そう安堵したと同時に、半袖とホットパンツからのびる白い四肢を見て、自分の奥底から衝動がこみあげてきた。

 そのなめらかで白い肌に口づけて、桜色の痕をつけたい。その体を、自分のものにしてしまいたい。彼女のことを、おもいっきり味わいたい。獣のような、本能から来る衝動。抑えきれない本能が、暑さにやられた脳を支配して、意識しなくとも体を突き動かす。理性なんて、とうの昔に、夏の日差しで溶けてしまっていた。

 青々と葉の茂る低い生垣を越え、開け放たれたままの窓から中に入る。侵入にかかった時間は、一分もかからないくらいだ。実際行動してみると、ひどく簡単なことだった。

 彼女は侵入した自分に気付きもせず、とても気持ちよさそうに眠っていた。この暑さも意に介さず……というよりは、暑いからこそ寝て暑さを忘れようとしているのだろうか。とにかく、自分にとっては好都合だ。無防備に眠る彼女に、音をたてないよう細心の注意を払って近づいた。

 床で眠る彼女の肌は、うっすらと汗ばんでいた。この暑さだ、当然のことである。癖のない真っすぐな黒髪をフローリングの上に惜しげもなく散らし、少しでも熱を発散しようと露出させた四肢をひんやりとしたフローリングに押し当てている。目を覚ます気配はなく、彼女はこんこんと眠り続けている。少し湿った肌をもっとよく見たくて、そっと近づいた。彼女の体から発せられる熱が、体の奥底で煮えたぎる衝動を更に増幅させる。

「んぅ……」

 不意に彼女が身じろぎをし、こちらへ寝返りをうった。驚いて後ずさってしまったが、彼女は自分に気付く様子はなく、夢の世界に出かけたままだ。そのまま様子を見、起きる気配がない事を確認し、再度近づいた。

 乱れる事のない穏やかな寝息が、少しだけ空気を揺らし、こちらまで届く。時々、その寝息に鼻にかかった声が混ざると、その無意識の色気に背筋がぞくぞくした。狙ったようなわざとらしい色っぽさよりも、日常の何気ないところにさりげなく混ざり込む色香の方が、よっぽどそそる。もう堪らない。

 思い切って距離を縮め、細かな肌の汗一粒一粒が見えるくらいまで近づく。そうして、その白くなめらかな肌のどこに口づけようか、場所を吟味する。やはり、最初に目が奪われた四肢にすべきだろうか。いやでも、桜色の痕をつけるなら、より白い部分……たとえば、服の下に隠された部分がいいだろうか。しかし、自分のものだという桜色のしるしを際立たせるのならば、色鮮やかになる肌の薄いところというのも捨てがたい。

 悶々と考えながら、彼女の肌を舐めるように、何度も視線を這わせる。これからのお楽しみである肌には触れないよう注意して、幾度も逸る気持ちを抑えるように生唾を飲んだ。

 ……決めた。皮膚の薄い、首筋にしよう、と。

 皮膚が薄く、それでいて白い。桜色の痕をつけるにはうってつけの場所だ。しかしながらこの場所は感度の高い人が多いので、口づけた瞬間に彼女が目覚めてしまうかもしれないという危険性も孕む、厄介な場所だ。だけど、その危険性やスリル感が、征服欲と衝動を掻き立てるのも事実だった。

 首筋に顔を近づけ、肺いっぱいに息を吸い込むと、彼女のにおいがした。生きている人間の、獣とは違うにおい。近くに寄って見ても、肌はつるりとしてきめ細かい。やっぱり、男と女は天と地ほどの差があると思った。自分はどっちもいけるクチだが、どちらかといえば女の方がいい。肌のきめ細かさや触り心地、桜色の痕をつけた時の気持ち。それに、男と違って無駄毛がちゃんと処理されているのがいい。あの、もじゃもじゃと生えている腕毛やすね毛を思い出すと、ぞっとする。肌が見えず、桜色の痕をつけるのにも一苦労だし、つけても見えない事が多い。自分の色に染めるなら、既に違う色に染まったキャンバスよりも、まっさらな方がいい。そういうものだ。

 高鳴る胸と逸る気持ちを抑えつつ、首筋に口を近づける。いよいよ、彼女を自分のものにできる。少し汗で湿ったその白い肌に、おもいっきり桜色の痕を刻みこめる。思う存分、彼女を味わうことができる。その事を考えると、楽しみでたまらなかった。

 口が肌に触れるか触れないかというところで、不意に周囲が暗くなった。どうしたのかと思い顔を上げると、何かがものすごい勢いで頭上に迫っていた。

 潰される……!

 そう思ったのが最期で、叫び声を上げる暇もなかった。







「……とか思ってたらどうよ」

「気持ち悪っ。何その変態思考」

 得意げな表情で右手の平を見せつける男の言葉を、女は容赦なく切り捨てた。

「だってさー、こいつだって生きるために一生懸命だったわけだし? それにさ、こんなこと考えてたら面白いじゃん」

 なー、と手の平の中央にある黒い点に語りかける男を冷たく一瞥し、不機嫌な顔のままホットパンツからのびるすらりとした足で胡坐をかき、女はわざとらしく溜息をついた。

「……血を吸うのは、メスだけらしいよ? 卵産むために栄養が必要なんだってさ」

「え、うそっ」

「ほんと」

 ショック、と頬に書かれているのではないかと思うくらいわかりやすい表情をした男は、少しうなだれた後、すぐに復活した。

「……大丈夫、こいつは男気あるヤツだって信じてる」

「どうしてよ」

「だってお前みたいなやつの血を吸おうとするなんてチャレンジャーすぎ、痛っ」

「制裁。さっさと手、洗ってきなさいよ」

「はいはい」

 チョップを受けた頭をさすりつつ立ち上がった男の手の平には、血を吸う事の叶わなかった憐れな蚊が一匹、ぺしゃんこになって貼りついていた。



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