Episode1. ― 回想
秋は、天空を澄み渡るような藍に染め上げて、草原や木々を数多の黄金で彩り遊ぶ。
それが過ぎれば冬の訪れ。人々は家畜を、寒風は人々を山肌に追い立てて、冴ゆる風を耐え忍ぶ。そして、砂塵舞う春が来れば、次いで潤いの夏が、また秋が。冬が――。
――幼い私は、それを世の唯一なる理と信じていた。大空があまねくものを覆うように、いずれの地でも変わらない普遍の摂理と。
それほどまでに幼子の背丈は小さく、辺りを見渡す事すらままならなかったのだ。
……ぁ…今は、違うがね。
「御上。長らく、お預かりしておりました。」
今、世界は手のひらに。それを握れば、私の掌中に。
「こちら、玉璽にございます。」
これは、私と奴の物語。
魔王の孫娘と勇者の孫、世代を越えた因縁の結末。
我がかけがえなき仇敵と過ごした……あの日々の記憶――。
◆
――いにしえの時代、山々の果てに帝王が興った。
帝王がザカタ川のあまねくを従えて……ある一つの〝文明〟を形作ると、数百年に及ぶ勝利と狂乱の時代が訪れる。
次第に、栄華極まる文明は〝世界そのもの〟へと昇華されてゆく。
比較対象は忘れ去られ、アイデンティティが解けてゆく。
そうして、文明は滅んだ。少しの衝撃で、互いが互いを喰らい合った。
あとに残されたのは、黄昏の時代に生きようとする〝征服者〟と、留めなく綻んでゆく中興の時代に…永く…永く在り続けようとする〝延命者〟である。
◆
薄っすらと蒼い夜空に、小綺麗な三日月が浮かんでいる。春雲は素早く横切って、時折、御月様が顔を見せるのに、彼女は私の足元を照らすことなく――。
太陽と違って、どうしてあれほどケチなのでしょう。
特に春夜は雲ばかり、月は隠れて現れてを繰り返す。それなら、休める時間だってあるはずなのに。
でも、どうか強く照らして欲しいの。まばゆい三日月の良い夜に、足元が真っ暗なんて……そんな悲しい事はないですから。
……。
気持ち悪い。死んでやろうか。月夜の良さを感じられるだけでも、今回の沈みが浅いと分かる。こんな風に、暗い気持ちが続くのはいつもの事。そういう数日間もあるし、そうでない数日間もある。でも、今回は辛い。特に辛い。浅い。ほんのり暗い。軽いのです、症状が。それが今回の病なのでした。
ただ、気持ち悪いだけ。悶え苦しむほどに猛烈な頭痛も、凍てつくような胸元から手首にかけての痛みも、何も。ただ、気持ち悪い。それだけ。無い。
それが辛い。自分が自分じゃないみたいで、気の狂いそうになるほど辛い。
ずっと寝れなくて……澄んだ空気を吸おうと、中庭へ歩み出たのだけれど。
これが…とても孤独で――。
ふと、耳にしたのです。その……戸棚を開けて、何かを取り出し、それを閉じて、歩む。……そういった音を。それなのに、誰の姿も見えなくって。それでいて、室内の生活音が嫌でも響いてくる。まるで…この世でただ一人彷徨っているような、酷い寂しさを感じてしまった。
皆、夜が怖いんです。
人は『夜』を得体の知れぬもの――【魔族】だと、そうのたまって……外に出たがらないのが普通なのです。例え塢壁の内側だったとしても、魔族の類は容易に壁をよじ登って中庭へ入り込めるものと、信じている。
……かく言う私も、闇夜を怖がらない訳ではありませんけれど。
……。
「旦那様。夜分…遅くに、如何なさいましたか。御散歩でしょうか。」
「あいつをずっと見ていないと。」
御散歩なんて…そんな大層なものじゃないよ。
いや、大層なんかじゃ…何が大層で何が…。
「……と…仰いますと…?」
「あいつだよ。」
今朝、私の首を刺してきやがった、それで何か産み付けたんだ。そう思う。前にもあった。多分。
蛇みたいに身体をしならせて、人の身体を貫き飛び回ってる。搔きむしっても離れないし、掴めない。痛いわけでもないけれど、気持ち悪いの。
「旦那様、どうか御部屋にお戻り下さい。御身体が凍えますゆえ。」
「お前の試みは知っている。」
「…は…?」
見えてるんでしょう。ねぇ。見えてるんでしょう。あいつに目が無いからって、見えていないなんて分からない。暗闇から見ているんです。私達の隙を窺って…一息に刺し殺すつもりなんです、あの鋭利な枝で。
「見なさいよイリトナ。あの木、私達を刺そうとしてるんだ。」
三百年前、学者エケトカナイは『博物基書』で「動くものを動物、動かないものを植物」だと定義していたけれど、それは間違っている。
植物は動くんです。誰も見ていない間に。それで私達の首筋に枝を突き刺して、何か人ならざる術を用いて操るんです。それでも人前では正体を隠しているから、決して誰にも気付かれない。どんなに慧眼な博学者であろうとも。
でも……でも私は違う、私は人形だから。
そう、人形なの。私は生きていない。多分、父か母が巫者に頼んで作らせた人形。生きていないから、私は植物から半分ほど仲間だと思われている。それで木々や草花は私が見ていても凶行に及ぶの。
「……あ、あぁ……そう…でございますか。」
「見張らなきゃ。」
「……。」
皆には見えていない。皆、首筋に触手を埋め込まれたり、匂いを吸わされていて、植物に操られている。都合の良いように、花を愛でさせたり、水をあげさせたり。だって、木とか花とか普通は怖いじゃない。ずっとこっちを見てるのに…。
「……旦那様。それなら、逃げましょう。」
あいつら、みんな私を襲おうとしているに違いないの。誰も気付いていないだけで、いつか皆を食べようとしてる。
「逃げれば宜しいのです。旦那様。」
見張らなきゃいけない。笑ったって無駄。笑った。笑って。笑ってる。
なんで、なんで笑って、なんで笑ってるの。どうして。
「旦那様は常に…その……戦っておられますが、背面に必ずしも障壁が存在している…という訳は…その…ございませんから。逃げても宜しい時に、逃げたくなれば、逃げても宜しいのです。」
花、花だ。あんなところに咲いて…なんで。怖い、来ないで。怖い、やめ、やめて…ぇ……ぁ…ぁ˝ぁ˝…。
「……旦那様。」
……勇者の孫は、狂っていた。
心を病んだ勇者の孫が魔王の孫娘にオトされるまで。




