『神すら癒せぬ傷』
その戦士が休まされている天幕は、
十人の兵によって厳重に守られていた。
ハルト、アガメトス、そしてセラフィーネが近づくと、
兵たちは一斉に頭を下げる。
アガメトスは、
ゆっくりと幕を開いた。
「……ハルト。
よく見てくれ」
「これが――
我がアキレスだ。
我が誇り……
生ける剣」
天幕の中には、
鋼のような筋肉を持つ巨躯の男が横たわっていた。
その身体には、
無数の古傷が刻まれている。
だが、目を引いたのは――
弱々しい呼吸。
震える手。
冷たい汗。
そして何より――
脇腹に刻まれた、
病んだ心臓のように脈打つ黒き傷。
ハルトは、眉をひそめる。
「……オーラが……
崩壊している」
セラフィーネが一歩前に出て、
白き翼を広げた。
「……近づかせてください」
アガメトスは、
苦悶の表情で頷く。
「名は、タリオスだ」
「一度として敗れたことはない……
――だが、
我が末の息子に刺されるまでは」
ハルトは、
厳しい視線を向ける。
「……あなたの妻を奪った王子か」
アガメトスは、
拳を強く握り締めた。
「その通りだ」
「奴の神剣には、
禁忌の毒が塗られていた」
「不死者すら殺すための、毒だ」
ハルトの背筋に、
冷たいものが走る。
「……タリオスは、
不死身だったはずだ」
「それでも、傷を負った?」
「それ以上だ」
アガメトスは、低く言った。
「毒が、
彼の不死性そのものを否定した」
「今は……
彼の肉体が、
自分自身を拒絶している」
セラフィーネは、
静かに膝をついた。
「……タリオス。
聞こえますか?」
戦士は、
ゆっくりと目を開く。
怒りと苦悶を湛えた、
黄金の双眸。
「……誰だ……」
「私はセラフィーネ」
彼女は、優しく告げる。
「天上の癒し手です」
「あなたの傷を、
治しに来ました」
タリオスは、
自嘲気味に笑った。
「……三十人、来た」
「癒し手だ……
皆、死んだか……
逃げた……」
セラフィーネは、
彼の手を取る。
「……私は、逃げません」
白き光が、
傷を包み込んだ。
すると、
闇が――
生き物のように蠢き始める。
ハルトは、
耐え難い圧迫感を覚えた。
――幾千もの囁きが、
耳元で重なる。
セラフィーネは、
歯を食いしばる。
「……この毒……」
「……人の手によるものでは、ありません」
アガメトスは、
固く唾を飲み込んだ。
「……助けられるのか?」
セラフィーネは、
そっと目を閉じる。
「……最善を尽くします」
「それしか、できません」
セラフィーネは、
タリオスを真剣な眼差しで見つめた。
「……彼の霊的心臓に、
毒の“種”が残っています」
「それを完全に除去すれば――
彼は、死にます」
ハルトの身体が、わずかに強張る。
「……それは、
戦争にどう影響する?」
セラフィーネは、深く息を吸った。
「タリオスは、戦えます。
――ですが」
「もし、同じ毒を再び受ければ……
たとえ一滴でも、
数分で命を落とすでしょう」
アガメトスは、
言葉を失った。
タリオスは、
悔しげに拳を握る。
「……つまり、
あの武器で、
もう一度斬られれば――終わり、か」
セラフィーネは、静かに頷いた。
「私は、
毎日、浄化を続けなければなりません」
「一度では足りない。
もし中断すれば……
腐食は、再び広がります」
ハルトは、
王を見据えた。
「ならば――
裏切りの王子を見つけ出し、
神剣を破壊するしかない」
アガメトスは、
剣の柄を強く握る。
「……そして、
我が王妃を取り戻す」
タリオスの瞳が、
完全に見開かれた。
数週間ぶりに見る、
生気。
「陛下……
武器を、ください」
アガメトスは、
苦い笑みを浮かべる。
「……立てるのか?」
タリオスは、
ゆっくりと身を起こした。
寝台が、
重みで軋む。
「……戦えます」
「そして、
再びあの王子と相まみえるなら――」
その瞳に、
人ならざる憤怒が宿る。
「――この手で、
叩き潰す」
「武器がなくとも……
素手ででも」
セラフィーネが、
付け加える。
「忘れないでください」
「この傷は、
今も“致命点”です」
「所在を知られれば……
それを利用して、
彼を殺しに来る者が現れます」
ハルトは、
低く、揺るがぬ声で答えた。
「……ならば」
「知る者は、誰も生かさない」
アガメトスは、
胸に拳を叩きつけた。
「我が名誉にかけて!!」
「裏切りの王子は、
犯した罪のすべてを――
必ず、支払わせる!!」
天幕の外では、
囁きが広がり始めていた。
「……タリオスは、生きている」
「無敗の戦士が、目を覚ました」
「……戦争が、変わるぞ」
――その頃。
城壁に囲まれた都市で、
裏切りの王子は、
その報せを受け取った。
そして――
その顔から、
血の気が、完全に引いた。
―つづく―




