『不存在――開かれし夜を砕くもの』
玉座の間全体が、なおも激しく揺れていた。
神剣ニクテマールの影は黒き蛇のように蠢き、柱を引き裂き、大理石に深い亀裂を刻んでいく。
ミラは、静かに息を整えた。
その瞳が、深い紫へと輝く。
「リリー……援護して。
――“あれ”を使うわ」
リリーは唾を飲み込んだ。
「……本気?
失敗したら、その剣に残りすべてを吸われるわよ」
ミラは、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。
私が使う魔法は――
存在しないものだから」
セロンは剣を掲げ、嘲笑する。
「存在しないだと?
ハッ! そんな戯言が通じると思うな!」
ニクテマールの影が、鞭のように伸びる。
――ヒュン!
ミラは、動かなかった。
そして影は――
彼女をすり抜けた。
セロンは目を見開く。
「……なに……?」
ミラの声が響いた。
それは、人のものではない。
空洞で、反響するような――
どこにも属さぬ声。
「ようこそ、王子。
ここは私の領域――
《無限鏡》の秘奥義よ」
ミラは、手を掲げる。
その身体が、無数の輝く破片へと分解され――
――世界から、消えた。
「――不存在」
セロンは周囲を見回す。
混乱が、顔に浮かぶ。
ニクテマールが震え始めた。
まるで、方角を失ったかのように。
『……見えない……
……感知、できない……』
セロンは叫ぶ。
「どこだ!?
出てこい! 正々堂々と戦え!!」
ミラの声が、空間そのものから響く。
「正々堂々なんて、無理よ。
だって今の私は――
“現実”じゃないもの」
剣の影が暴れ狂い、空気を切り裂き、壁を粉砕する。
だが――触れるものは、何もなかった。
ミラは、煙であり、反射であり、概念だった。
ニクテマールは“存在する魔力”を喰らう。
しかし、この技は――
痕跡すら、残さない。
その隙を、リリーは逃さなかった。
魔力を一切使わず、
純粋な運動エネルギーで強化された貫通弾を放つ。
――ドォォォォン!!
弾丸はセロンの脚を撃ち抜き、
彼は膝をついた。
「ぐあああっ……!!
くそ……!」
『……もっと……
……光を……生命を……』
剣が、飢えたように囁く。
その背後に、ミラが現れた。
実体のない――
ほとんど亡霊のような姿で。
「吸収できないわ。
実体を持たないものはね。
そして今の私は――
あなたにとって、存在していない」
セロンが振り向こうとする。
だが――
ミラは、霧のように彼をすり抜けた。
幻は、完全だった。
――――
空が、竜の炎で唸っていた。
アウレリアは、ゼフィロンに跨り、空中で荒く息を整えていた。
「……この結界、
神性の混成体ね。
力押しじゃ、破れない」
そこへ、ベータが飛来する。
「司令官!
ローザが――何かを感知しました!」
緑竜に騎乗した無言の狙撃手、ローザが現れ、
素早く手信号を送る。
アウレリアは眉をひそめた。
「……結界が、三秒ごとに振動している一点?
それはつまり――」
ベータが言葉を継ぐ。
「内部の“使用者”の生命エネルギーと、直結しています」
アウレリアは、獰猛に笑った。
「……なら、壊せる」
ゼフィロンが、力を溜め始める。
周囲の竜たちが、半円陣形を取った。
アウレリアは槍を掲げる。
「――黄金太陽の竜翼!
狙いを一点に集中!
全力で放て!!」
竜たちが、咆哮を重ねる。
純粋な光の槍が、弱点へと降り注いだ。
――――カァァァァッ!!
――――ドォォォォン!!
結界が、激しく震え――
亀裂が走る。
アウレリアは叫んだ。
「ミラ! リリー!
――もう少しだ!!
出口をこじ開ける!!」
セロンは、絶望のままに“存在しない敵”へ剣を振るい続けていた。
すでに完全に不可視となったミラが、彼の背後を歩きながら告げる。
「セロン……
その剣じゃ、英雄にはなれないわ。
なれるのは――
虚栄心を抱いたまま死ぬ屍だけ」
リリーはライフルを構え、照準を定める。
「アウレリアが壁を壊す前に――
終わらせましょう」
ミラが、静かに手を上げた。
次の瞬間、玉座の間全体が
砕け散った鏡で満たされる。
――無数の反射。
――無限の視点。
――出口のない迷宮。
セロンは、その中心に閉じ込められた。
理解できない。
認識できない。
自分が、どこに立っているのかすら。
ミラとリリーが、同時に告げる。
「――王子、終幕よ」
―つづく―




