「セレスとライラ:震える月の下で」
◆ 嵐の前の、悲しい静けさ
島は静まり返っていた。
ハルトの命に従い、海底では守護の大蛸が眠り、
軍は休息し、
巫女たちは負傷者の治療を続けている。
だが――
その場から離れ、月明かりに照らされた砂道を歩く二つの影があった。
背にライフルを負うライラ・フロストベイン。
喉の魔紋が覗く薄い外套を羽織ったセレス。
どちらも、何も言わなかった。
海もまた、沈黙している。
まるで世界そのものが息を呑んでいるようだった。
◆◆ セレスの崩れた心
沈黙を破ったのは、セレスだった。
「……ライラ。怖くはないの?」
ライラは一瞬だけ足を止め、
またゆっくりと歩き出した。
「怖くはない。
ただ……覚悟しているだけ。」
セレスは視線を落とした。
「私は……怖いの。」
ライラは驚いたように振り返る。
セレスは震える声で続けた。
「イカロスに歌ったとき……
私の声が内側から壊れそうだった。
もう少し強く歌えば……死んでいたかもしれない。」
ライラは眉を寄せた。
「私たちが守った。」
「わかってる……」
セレスはかすかに微笑んだ。
「だからこそ……怖いの。」
ライラは言葉を失う。
セレスは続けた。
「みんなを……裏切りたくない。
ハルトを。
あなたを。
みんなを。」
風が彼女の髪を揺らし、
月がその瞳に映り込む。
震える湖のように光っていた。
「最初に死ぬのはいや……
でも、戦うのをやめたくもない……」
その言葉は、海よりも静かで――残酷だった。
◆◆ ライラの真実
ライラはそっと手袋を外した。
露わになったのは、無数の傷が刻まれた手。
「これ、見える?」
セレスは息をのむ。
「その傷って……鍛錬でできたものだと思ってた。」
ライラは首を横に振った。
「違う。
誰も守ってくれなかった頃の……生きるための傷。」
セレスは胸に手を当てる。
「ライラ……」
ライラは星空を見上げた。
「ハルトと出会うまでは……
私には誰もいなかった。
“お前を守る”って言ってくれる人も。」
氷原の風。
大きすぎるライフル。
闇に潜む魔獣。
震える指で引いた、孤独な引き金。
その記憶が一瞬だけよぎる。
「私は……怖さと一緒に生きてきた。
震えながら……撃ってきた。」
そして、セレスへ向き直る。
「でも今は――
生まれて初めて……」
ライラは、かすかに、しかし確かな笑みを浮かべた。
「……死にたくないと思える。
生きたい理由ができたから。」
セレスの胸がきゅっと締めつけられる。
「理由……?」
ライラは頬を赤らめた。
「ハルト。
アウレリア。
カオリ。
そして……あなた。セレス。
みんなが、私の理由。」
ライラはライフルをそっとセレスの肩に置いた。
「だから……怖いなら、
一人で歌わなくていい。」
セレスの目に涙があふれる。
「ライラ……フロストベイン……」
ライラは彼女の頭にそっと手を置いた。
「怖くてもいい。
震えてもいい。
泣きながら歌ってもいい。」
そして、月明かりの中で囁いた。
「生きている限り……
私はあなたを守る。」
遠く、闇の向こうから低い咆哮が響いた。
イカロス・オメガ――
あるいは、それ以上の“何か”。
セレスは涙を指先で拭った。
「ライラ……
戦いが来たら……」
ライラは無言でライフルを装填した。
「私は、あなたの隣にいる。」
その言葉に、セレスは今夜初めて微笑んだ。
「じゃあ……私は空を開くために歌う。」
「私は、地獄を震え上がらせるために撃つ。」
ライラが静かに答えた。
二人は並んで海を見つめた。
月は黒い雲の陰に隠れようとしている。
怖かった。
死にたくなかった。
ハルトを守りたかった。
そのすべての感情が――
どんな魔法より、強かった。
——続く——




