「海が静かに裂けたとき」
◆ イカロスを食い止めた後…
水面には、砕け散った水の蛇の残光が淡く漂っていた。
浜辺は、あまりにも静かだった。
ハルトはミティを抱きかかえたまま、静まっていく海を見つめていた。
彼女は返事をしない。
青い肌は冷え切り、指先もほとんど動かない。
アウレリアが一歩近づく。
「……生きているの?」
ハルトは答えなかった。
荒い息――
疲労ではなく、恐怖によるもの。
カオリは胸に手を当てる。
「ハルト……すぐに中へ。
ミティの身体は、あの歌を何度も使えるようには出来ていないわ。」
マルガリータは悔しげに歯を食いしばった。
「彼女は……私たちを守るために、
この島を守るために……
そして何より、あなたを守るために命を張ったのよ。」
ハルトは顔を上げた。
その瞳は、炎のように揺れていた。
「一人で抱え込む必要なんてなかった……
言ってくれればよかったのに。」
アウレリアがそっと膝をつく。
「勇気なんかじゃないわ。
あれは……あなたへの想いよ。」
ハルトは喉を鳴らし、言葉を失った。
「行こう。安全な場所へ運ぶ。」
◆ ◆ 珊瑚の隠れ家
ハルトはミティを柔らかな海藻の寝床に横たえた。
彼女の髪は薄く輝き、
尾びれは色を失い、海の力から遠ざかったように見えた。
ハルトはそっとその手を握りしめる。
震える声。
彼がこんな声を出すのは初めてだった。
「ミティ……
どうして言ってくれなかったんだ。」
カオリが静かに肩へ触れる。
「古代の精霊は……助けを求めないの。
守ることだけが自分の役目だと信じているから。」
ハルトは目を閉じる。
「守ってほしいんじゃない……
生きていてほしいだけだ。」
アウレリアは優しく息を吐く。
「あなたの間違いはね、ハルト……
“全部を背負うのは自分だけ”だと思いこんでいるところ。
ミティは義務であなたに従っているんじゃない。
想いがあるからよ。」
ハルトは返事をせず、
ミティの手を強く握った。
すると、ミティの肩がわずかに震えた。
かすかな、弱々しい声が漏れる。
「……ハルト……」
彼はすぐに身をかがめる。
「ここにいる。
ずっとそばにいる。」
ミティはうっすらと目を開いた。
力はないが、確かな光が残っていた。
「あなた……
け、怪我は……?」
ハルトは凍りついた。
死にかけたのは彼女。
声を壊したのも彼女。
存在そのものを賭けたのも彼女。
それなのに、
最初に出てきた言葉は――彼の心配。
ハルトは抑えきれず、そっと彼女の頬に触れた。
誰にも見せたことのないほど優しい仕草で。
「そんな危険なこと……二度とするな。
頼む。
もう命を投げ出さないでくれ。」
ミティは弱く微笑み、
海の光に溶けるように涙をこぼした。
「ごめん……
でも……怖かったの……」
ハルトは息を飲む。
「怖かった?」
震える指先が、彼の胸に触れた。
「怖かった……
イカロスに……
あなたを奪われるのが……」
部屋の空気が一瞬にして重くなる。
カオリは口元を押さえ、
アウレリアは伏し目になる。
ハルトの心臓が強く打った。
ミティは涙に濡れた瞳で続ける。
「あなたがいなくなったら……
わたし……
存在する理由を……失ってしまう……」
手が落ちかけた瞬間、
ハルトはその手をしっかり掴んだ。
「そんなこと言うな。
おまえの命は――戦争よりも、
イカロスよりも、
何よりも大切だ。」
ミティは震える声で問いかける。
「ハルト……
わたし、あなたのそばにいてもいいの……?
召喚じゃなくて……
一人の……誰かとして……」
言葉を言い終える前に、
ハルトはそっと彼女を抱き寄せた。
壊れ物のように慎重に、
けれど確かに抱きしめて。
「……そばにいろ。
もう二度と失わせない。
絶対に。」
ミティの涙が彼の肩に落ちていく。
カオリとアウレリアは、
静かに部屋を出て行った。
これが何を意味するか――
二人とも、痛いほど理解していた。
避難所がかすかに揺れた。
まるで、目に見えない感情が海へと解き放たれたかのように、
水が静かに震えた。
入り口に立つマルガリータが低くつぶやく。
「古き精霊が涙を流す時……
海も、共に泣くのよ。」
ハルトは両腕でミティをしっかりと抱きかかえた。
「もう休め。
今度は俺が……お前を守る。」
ミティはかすかに目を閉じ、ほとんど聞こえない声で囁く。
「ありがとう……
わたしの……王さま……」
そして、彼の腕の中で静かに眠りについた。
ハルトはしばらく彼女を見つめていた。
召喚獣としてではない。
武器としてでもない。
精霊という存在としてでもない。
――失いかけ、もう二度と手放したくない
大切なひととして。
海は穏やかに静まった。
だが遠く、海の闇の底で――
イカロスが、ゆっくりとその赤い眼を再び開いた。
感情の戦争は、
いま始まったばかりだった。
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