『アルゴシアへの逃亡――イリアンドロスを裂いた奪還劇』
アガメトスに届いた報せは、
真夜中の雷のように王の心を打ち砕いた。
女王ヘランドラと第二王子エヴァンダーが逃亡した。
テレマリスへでも、アルビオルへでもない。
――アルゴシア王国へ。
アガメトスの父が治めていた古王国。
イリアンドロス最古の血脈。
堅牢で、誇り高く、侮れぬ大国。
アガメトスは数秒、完全に硬直した。
そして――火山の噴火のように怒りが爆発した。
アガメトス
「アルゴシア……!
貴様ら……!!
我を――王を、子供扱いする気か!!」
将軍たちは一歩後ずさる。
側近ヘリオンが慎重に口を開いた。
ヘリオン
「陛下……アルゴシアが女王に庇護を与えたとなれば……
これは“ただの逃亡”ではありません。
宣戦布告に等しい。」
アガメトスは机を叩きつけ、
器や杯が空中に跳ねた。
アガメトス
「宣戦布告だと!
ならばこちらも――戦を受けて立つ!!」
しかしヘリオンは首を横に振った。
ヘリオン
「……陛下、軍備が足りません。
近年の損耗。
アルビオルとの緊張。
そして今日の混乱……
古王国アルゴシアと正面から戦う力は、今のイリアンドロスにはない。」
アガメトスは拳を握りしめた。
ヘリオンはさらに踏み込む。
ヘリオン
「ゆえに……
“助力”を求めるべき相手がいます。
陛下の――兄上です。」
空気が一瞬止まった。
参謀たちは互いに視線を交わし、硬直する。
その名を出すこと自体が禁忌。
恐れられた存在。
五十の戦役を制した征服王。
イリアンドロスを武力で統一できる唯一の男。
アガメトスは崩れ落ちるように椅子へ腰を下ろした。
アガメトス
「……頼るしかないか。
たとえ、彼が私を憎んでいようと……
屈辱を与えられようと……。」
ヘリオン
「そうせねば……
女王はアルゴシアのものに。
そして王子はテレマリスのものに――。」
アガメトスは目を閉じ、深く息を吐いた。
アガメトス
「……使者を出せ。
すべて準備しろ。」
◆ハルト、崩れゆく秩序を見つめる
その報せを受けた時、
ハルト、アウレリア達はちょうどアガメトスと共にいた。
王は深く息を吸い込み、
真っ直ぐハルトを見た。
アガメトス
「ハルト・アイザワ……
こんな……醜態を晒してしまい、すまぬ。」
ハルトは静かに首を振った。
ハルト
「謝る必要はありません。
王国の強さとは……
その住人の“忠誠”の強さです。」
アウレリアはその冷静さに目を見張る。
マグノリアが囁く。
マグノリア
「つまり……女王は自ら裏切った、と……?」
カオリ
「……あるいはエヴァンダーに“説得”された。」
アガメトスは低く唸った。
アガメトス
「エヴァンダー……あの甘やかされた小僧。
名も与え、教育を与え、王家の席まで与えたというのに……
この裏切りよ!」
セレネは皮肉な笑みを浮かべる。
セレネ
「……ギリシャの神々なら、間違いなく楽しむでしょうね、この劇。」
ハルトは穏やかだが鋭い声で問う。
ハルト
「さて……アガメトス。
あなたはどう動く?」
王は両手を机につき、重く告げる。
アガメトス
「女王を取り戻す。
アルゴシアを――石一つ残らぬまで砕いてでも。」
ハルト
「ですが……あなた一人では無理です。
分かっているはずです。」
アガメトスの誇りが、一瞬ひび割れた。
アガメトス
「……ああ。
兄に頼る。
“百槍の王”に。」
アウレリアが息を呑む。
アウレリア
「伝説の……レアンドロス……!」
ハルトも目を見開く。
ハルト
「南部を征服した覇王……
まさか、まだ生きていたとは。」
ヘリオンが緊張した声で告げる。
ヘリオン
「生きています……そして今なお強大です。
ただし――陛下とは十二年間、音信不通ですが。」
アガメトス
「だが、動く時だ。
これは個人的な問題ではない。
……王国の存亡だ。」
アガメトスはハルトに歩み寄る。
王としてではなく、一人の人間として、真っ直ぐに。
アガメトス
「ハルト・アイザワ。
この争いが始まったその時……
私はお前に“味方をしろ”とは言わん。」
ハルト
「でしょうね。」
アガメトス
「だが……敵にはならないでくれ。」
ハルトは静かにその視線を受け止めた。
ハルト
「理由がなければ、私はイリアンドロスを攻めません。
……だが、挑発されれば別です。」
アガメトスは大きく息を吐き、わずかに肩の力を抜いた。
アウレリアは不安げにハルトの手を握りしめる。
アウレリア
「ハルト……巻き込まれないで。
まだ……。」
ハルトは答えず、
ただ遠くの地平を見つめていた。
一人の兵士が、息を切らしながら王の天幕へ駆け込んだ。
兵士
「陛下!
テレマリスから――至急の報せです!」
アガメトスの全身が緊張する。
兵士
「アルビオルのゴーレムが……
第一防壁を突破しました……
そして……そ、それだけでなく……」
アガメトス
「――言え!!」
兵士は震える声で叫んだ。
兵士
「女王ヘランドラが……
アルゴシアに外交保護を要請しました!」
天幕の中が凍りつく。
アウレリア
「……まるで、トロイの“亡命政策”ね。」
カオリ
「でも、それってつまり……」
その続きは、ハルトが静かに告げた。
ハルト
「……彼女はもう、“あなたの王妃”ではない、アガメトス。」
アガメトスは動けなかった。
言葉もない。
息もできない。
怒りとも悲しみともつかない表情で、ただ立ち尽くしていた。
沈黙が王の重さを押しつぶす。
そして、章はこの一文で幕を閉じる――
**『女王が逃れたその瞬間――
彼女は王国には属さず、歴史そのものに属するのだ。』**
――つづく――




