裏切りの雪
ボレアリス宮殿の朝は、沈黙に包まれて始まった。
空は濃い灰に染まり、雪が無音で降り積もっていた。
使用人たちは声を潜めて囁き合った。
「昨夜、女王が宮を去ったって……」
「違うわ。秘密の礼拝に出ただけよ。」
「でも……北へ向かった馬車は、戻ってない。」
噂は小さな刃物のようなもの——
小さいが、致命的。
そしてその刃は一つの名に向かい始めていた:
女王エリーズ・ダルクレーヌ。
大聖堂の奥、北神の声を代弁する大司祭ヴァルマーが、尋問官によって見つかった一通の手紙を手にしていた。
紙は裂けていたが、青いインクは明らかだった。
「……黄金の太陽は真実を語る。
王がその真を恐れるのなら……この王国はすでに失われている。」
ヴァルマーはその手紙を握り潰し、聖なる火へと投げ入れた。
—女王は……異端に堕ちた。
——その笑みは、信仰からではなかった。
—王に知らせますか? —と、ある聖職者が尋ねた。
—いや。まず試そう。
——もし王の心に疑念が生まれたなら、その玉座を……「血」で清める。
その瞬間、大聖堂の鐘が鳴り響いた。
礼拝の音ではない——
「警鐘」だった。
王エルヴァルト十三世は執務室で震えていた。
怒りに、いや、恐怖に。
使者が報告を差し出す。
—陛下、南方の軍が国境に向けて動いています。
—それが偶然だとでも思っているのか!
——あの女……!あの異国の女が!
王は机を叩き、燭台の炎が揺れた。
そのとき、エリーズが静かに部屋に入った。
—お呼びでしたか、陛下?
王は答えず、ただ真っ赤に充血した目で彼女を見つめた。
—……言え、エリーズ。昨夜、どこへ行っていた?
空気が凍りつく。
エリーズは嘘をつかなかった。
—森へ祈りに行っておりました。
—祈り……か。謀略ではなく?
答えはなかった。
あるのは、焚き火の軋む音だけ。
そしてそのとき、エリーズは初めて「命」にではなく、
王がこれから「何をしようとするか」に恐れを感じた。
ハルトの砦では、カオリが扉を乱暴に開けて駆け込んできた。
—ご報告を! 王が国境を封鎖し、女王の侍女たちを拘束しました!
リラは拳を握りしめた。
—やはり。聖職者たちが何かを見つけたのね……
ハルトは静かに立ち上がる。
—ならば、雪は「夜明けの前」に赤く染まるか。
—どう動きますか? —とマグノリアが問う。
—いつも通りだ。私は王妃を救う者じゃない。
——だが、「偽り」に王座は渡さない。
その目に、鋼のような決意が宿る。
空気に浮かぶルーンがひとつ、またひとつと光り始める。
ハルトは新たな存在を召喚した。
氷と黒い羽毛に包まれ、鏡のような瞳を持つ存在。
——「静寂の監視者、ラヴィエル」。
—北へ飛べ。そして「真実」を持ち帰れ。
氷の鴉は空へと舞い上がり、
その翼が残した結晶は、夜空の星のように……消えていった。
夜の闇の中、ひとりの使者が駆け寄ってきた。
手には、血に染まった小さな手紙を握っていた。
言葉もなく、ただ震える手で——それをハルトに差し出した。
ハルトは黙ってそれを受け取り、封を切った。
中に書かれていたのは、たったひとつの青いインクの言葉。
「もし私が夜明けまでに戻らなければ……
真実が、私の代わりに語ってくれるように。」
——エリーズ・ダルクレーヌ
風が強く吹き抜け、雪が再び降り始めた。
ハルトは静かに目を閉じる。
長い間忘れていた「哀しみ」のようなものが、胸の奥に灯った。
—……王座よ、震えるがいい。
この戦いは、もはや「俺ひとりのもの」ではない。
――つづく。




