秘された会談
ボレアリス王国と黄金の国境を隔てる森にて、
雪が音もなく降り積もっていた。
紋章のない一台の馬車が、隠された道を静かに進んでいた。
その中で、青いマントに身を包んだひとりの女性が、闇に目を凝らしていた。
——エリーズ・ダルクレーヌ王妃。
宝飾も、護衛も帯びず、ただ侍女セリスだけを連れていた。
—陛下、まだ戻れます…… —セリスが小さく囁いた。
—戻ることは……死に続けることと同じ。
——今夜だけは、私は「私」として生きるの。
黒い空を見上げながら、エリーズはそう答えた。
やがて、遠くにひとつの影が焚き火のそばで待っていた。
風がそのマントを揺らす。
それは——ハルト・アイザワだった。
馬車が止まった。
エリーズが降り立つと、ハルトはわずかに頭を下げた。
—まさか、ご自身で来られるとは。
—私自身も、そう思っていなかったわ。
でも……世界が燃えているとき、手紙ではもう足りないの。
火がパチパチと音を立てる。
誰も剣を持たず、護衛もいない。
武器は、言葉だけだった。
—なぜこんなことを?
異国へ逃げて、穏やかに暮らすこともできただろう。
—逃げれば、私の子どもたちは「臆病」が美徳だと学んでしまう。
——あなたは? なぜまだ戦い続けるの?
ハルトは静かに彼女を見つめた。
—止まれば……私を信じた者たちは、再び「恐怖」の中に生きることになる。
沈黙が降りた。
焚き火の炎が、ふたりの瞳に同じ疲れを映していた。
——望んだわけではない世界を、背負い続けてきた者の眼差し。
エリーズはマントの中から小さなメダリオンを取り出し、火の間にそっと置いた。
中には青く輝く魔法石がひとつ。
—この結晶には、北方の秘密の道と王家の財宝の鍵が記されている。
—……王国を渡す気か? —とハルトが問う。
—いいえ。渡すのは「真実」よ。
黄金と信仰と血は、長きにわたり絡み合ってきた。
あなたの敵は、私の夫ではない。
——彼を支えてきた「偽り」こそが、あなたの敵。
ハルトはメダリオンを握りしめた。
—君は、何のためにこれを?
—私の民が……たとえ私が見届けられなくとも、「明日」を持てるように。
風に揺られて火が揺れる。
そして、ハルトが口を開いた。
—もし私が倒れれば、君の王が再び権力を握る。
私が勝てば……新たな暴君として恐れられる。
——その時、君は誰に仕える?
エリーズは真っ直ぐ彼を見た。恐れのない眼差しで。
—声なき者たちの「記憶」に仕えるわ。
王にも、あなたにもではない。
——ただ、「真実」に。
ハルトは一瞬、敬意と哀しみが入り混じったような笑みを浮かべた。
—それなら……君は百の軍より危険だ。
—違うわ、ハルト。
私はもう……「男たちの支配」を恐れぬ女でしかない。
炎はゆっくりと消えていった。
そして残ったのは、
静かに世界を照らし始める——夜明けの光だった。
去る前に、エリーズはもう一度口を開いた。
—人々は私を裏切り者と呼ぶでしょう。それでいい。
世界を動かすのは、いつだって「裏切り者」なのだから。
ハルトは彼女が馬車に乗り込むのを見つめていた。
—君の言葉、忘れない。
—私も。 —そう応じた彼女は、かすかに微笑んで言った。
——太陽には、輝くために「影」が必要なのよ。
馬車は霧の中へと消えていった。
ハルトが手を見下ろすと、メダリオンはまだ温もりを帯びていた。
その中の石には、眠るような光が——まるで約束のように——静かに輝いていた。
「真実は、恐怖より速く届く。」
――つづく。
面白かったら☆評価とブックマークをお願いします!




