聖女の葛藤
彼女の名は――イリス・ヴァレノール。
“天の声”と呼ばれた少女。
教会史上最年少の聖女。
雪のように白い銀髪、
そして、まるで空そのものを映したかのような澄んだ青い瞳。
民は彼女を「生ける奇跡」として崇めていた。
だが――イリスは、もはや“天”を夢見ていなかった。
聖域の窓辺から、イリスは見ていた。
枢機卿ガドリエルの兵たちが、一人の男を鎖に繋いで引きずっていくのを。
その罪はただ一つ。
“黄金の太陽”の紋章が描かれたパンフレットを持っていたこと。
「父上、これが正義なのですか?」
震える声でイリスは問いかけた。
ガドリエルは厳しい表情で彼女を見た。
「これは信仰だ。」
「……信仰?それとも“恐れ”?」
枢機卿は言葉を飲み込み、しばし沈黙したあと、低く答えた。
「お前は聖女だ。哲学者ではない。」
その夜、イリスは人の気配のない寺院の回廊を歩いていた。
聖人たちの像が、まるで何かを問いかけるように、静かに彼女を見つめていた。
氷に覆われた祭壇の前で足を止め、
両手を重ねる。
だが祈りの言葉は、唇から出なかった。
彼女の胸には、民の声が響いていた。
「“黄金の太陽”が天を砕けるなら、私たちも自らの鎖を断ち切れる。」
イリスは目を強く閉じる。
「もし…ハルトが“敵”じゃなくて…
神々が沈黙の中に隠した“答え”だったら?」
冷たい大理石の上に、涙が落ちた。
すると――氷がひび割れ始めた。
その夜、彼女は夢を見た。
白い大地と、黄金に染まる空。
虚無の中に、一つの炎のような存在が現れた。
ハルト――火をまといながらも、
その瞳に憎しみではなく、静けさを宿していた。
「あなたが…人々が恐れる“悪魔”なの?」
ハルトは微笑む。
「いや。ただ――祈るのをやめ、行動を選んだ男さ。」
イリスは困惑しながら一歩下がった。
「なぜ、私にこれを見せるの?」
「まだ、お前には“選ぶ力”が残されているから。」
その炎は、彼女を焼かなかった。
ただ、彼女を――“照らした”。
目を覚ましたとき、彼女の手のひらには、
“黄金の太陽”の紋章が焼き印のように刻まれていた。
翌朝。
イリスは大聖堂でガドリエルの前に立った。
「私はもう…民の虐殺を正当化できません。」
「黙れッ!」
枢機卿が吠える。
「お前には何も分かっておらぬ!民が考え始めたら、“信仰”は死ぬのだ!」
イリスはまっすぐに彼を見つめた。
その眼差しが、枢機卿の手を止める。
「ならば…その信仰は、一度死ぬべきです。
再び、真に生まれ変わるために。」
枢機卿が振り上げた手を、イリスの瞳が制した。
その瞬間――金の流光が部屋を貫き、
イリスの背後に“黄金の太陽”の紋章が浮かび上がる。
「ハルトは信仰を壊していません。」
彼女の声は、静かで、力強かった。
「ただ、それを穢した者たちを…取り除いているのです。」
ガドリエルは恐怖に満ちた顔で後ずさった。
「異端だ…!神への冒涜だ!」
「違います。」
イリスは囁いた。
「これは――“啓示”です。」
そして、彼女はその場を去った。
その背中に重なるように――
寺院の鐘が鳴り始め、
ひとつ、またひとつと、音を立てて…砕けていった。
数日後、ある噂が広がり始めた。
“聖女イリスが姿を消した”と。
処刑されたのだという者もいた。
いや、彼女はハルトのもとに下ったのだという声もあった。
だが、北方の村々――
雪深き小道の石の上に、新たな祈りの言葉が刻まれ始めていた。
「信仰は、上から強いられるものではない。
信仰は、内から燃え上がるもの。」
その言葉の隣には、金色の紋――
昇る太陽のような印が刻まれていた。
ハルトはその祈りを読み、静かに微笑んだ。
「…聖女でさえ、自らの“真実”に辿り着いたか。」
カオリが彼を見つめる。
「あなたは?」
ハルトは目を細め、遠くを見た。
「俺はただ…夜明けを築き続けているだけだ。」
――つづく。




