虚無の女神
リサンドリア宮殿の鐘が、人工的な甘い音を響かせていた。
通りでは民が飢えに苦しんでいたが、大広間では赤い川のように酒が流れていた。
女王リサンドラ・ヴァシリスは、ダイヤモンドの冠を戴き輝きながら、杯を掲げて客人たちに微笑んだ。
「今夜、東の王国は希望を祝うのです」
「“黄金の太陽の皇帝”など、我らの光を消せはしない」
貴族たちは笑ったが、その目には恐れが映っていた。
扇子と仮面の裏では、噂が燃え上がっていた。
「ハルトが寺院を壊した…」「空が黄金に染まった…」「死そのものを呼び出したらしい…」
オーケストラは魔法のようなワルツを奏でていた。
無数のシャンデリアが舞踏会の上空に浮かび、
空気は香水と香と、そして嘘の香りに包まれていた。
そのとき、大広間の扉が予告もなく開いた。
冷たい風が通路を吹き抜け、いくつもの蝋燭を消していった。
沈黙の中を歩くその姿――
銀灰色の髪と灰青色の瞳を持つ女。
光を吸い込むような黒いドレスをまとい、静かに現れた。
誰も彼女を招待していなかった。
だが皆、道を開けた。
女王は眉をひそめた。
「誰が王国の祝宴を邪魔するのかしら?」
女は微笑み、軽く一礼した。
「ただの旅人です…ひとつの“映し”を探しているだけ。」
その声は、生と死の狭間から届く、悲しげな旋律のようだった。
「名を名乗りなさい」女王が問う。
「アヤ」と静かに答えた。「アヤ・クロナミ。」
広間に冷たい震えが走る。
鏡が一つずつ曇っていった。
アヤは王座の背後にある大鏡へと歩み寄った。
金の花で飾られたその鏡に手を触れると、白い光が震えた。
突然、映し出されたものが変わる。
そこにあったのは大広間ではなく、金のマントを羽織り、赤い瞳をしたフードの男――ハルト・アイザワだった。
群衆は恐怖に後ずさりした。
鏡の中から声が響く。
「王国はその贅に腐り果てた。
信仰が金で買えるなら、空虚がその審判を下すだろう。」
女王は震えながら一歩退いた。
「お前…お前が“黄金の太陽の悪魔”…!」
ハルトは鏡の向こうで微笑む。
「いいえ、陛下。私は悪魔などではない。
本当の悪魔とは、冠をかぶりながら民の飢えを忘れる者のことだ。」
アヤは大鎌を持ち上げた。
その刃は純粋な闇でできており、無数の鏡にその影を映した。
「ハルトが私を呼んだのは、“浄化”のため。
私は破壊しない…ただ、不必要なものを消すだけ。」
鏡が粉々に砕けた。
その破片一つひとつに、別の光景が映し出される:
飢える子供たち、焼かれた村、金に満ちた空虚な寺院――。
アヤが前へ一歩進むと、床は液体のような影に覆われていく。
楽団の音は止み、ヴァイオリンが床に落ちた。
貴族たちは逃げようとしたが、扉に届く前に体が塵となって消えていった。
アヤの黒いドレスが変化し、闇の翼へと姿を変える。
その背からは、夜の欠片のような羽が生えた。
リサンドラは膝をつき、涙を流しながら叫ぶ。
「お願い…私はただ、この世界に美をもたらしたかっただけ…!」
アヤは冷たい慈悲を宿した目で彼女を見つめ、身をかがめる。
「慈しみなき美は、ただの虚栄です。」
そして静かに手をかざすと、女王の“映し”が鏡から消えた。
残されたのは、ただ空っぽの玉座だった。
やがて太陽が東の王国に昇ったとき、
民は空っぽの宮殿を見つけた。
溶けた宝石、燃えたタペストリー。
そして大広間の大理石に刻まれた、ただひとつの言葉。
「空虚は破壊しない。ただ、権力が汚したものを清める。」
生き残った者たちは空を仰いだ。
雲の間に、黄金の紋章が輝いていた。
それは黒い影の輪に囲まれた太陽の印だった。
噂は広がっていった。
ある者は言った――ハルトが女神を遣わしたのだと。
またある者は、王国自らが腐敗の報いを受けたのだと。
そして城から、ハルトは地平線を見つめていた。
東の光がゆっくりと消えていくのを。
「アヤ…お前は役目を果たしたな」と彼はつぶやいた。
遠く、黒い翼の影が霧の中に消えていった。
東の王国は滅びた。
そして世界は…ただ静かに見つめていた。
――つづく。




