半袖ちゃんと暗殺者
ラペルは、可愛い女の子のイラストがプリントされた半袖Tシャツを知人からもらった。赤いリボンをつけた少女が、にっこりと微笑みかけている。子どもっぽいデザインで、正直なところ自分の趣味ではない。
「殺し屋がこんなもの着てどうするんだ」
一瞥した後、ラペルそのままTシャツをクローゼットの隅に仕舞い込んだ。
彼は表向きは普通の会社員だが、裏の顔は組織に雇われた暗殺者だった。ターゲットを確実に始末し、証拠を残さず現場から消える。そんな仕事を十年以上続けてきた。友人も恋人も作らず、ただ一人で生きてきた男にとって、可愛らしいTシャツなど縁のないものだった。
そうして暫くの間、クローゼットの隅に放置していたのだが、その日は急な仕事で着ていくものがなかった。いつものスーツは血痕の処理で洗濯中、予備のシャツも出張で使い果たしていた。
「仕方ない……」
渋々袖を通してみると、意外にも肌触りは悪くない。着心地は申し分なかった。鏡に映る自分の姿は妙にちぐはぐだったが、ジャケットを羽織ってしまえば見た目はそれほど気にならない。
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深夜の倉庫街。ラペルは標的となる麻薬密売人を始末した。一瞬の隙を突いた正確な一撃で、相手に苦痛を与えることなく事を終わらせる。それが彼のプロとしてのこだわりだった。
現場を清掃し、証拠隠滅を完了させてから帰路につく。夜風が血の匂いを運んでいく中、ラペルは淡々と歩を進めた。待っているのは、白い壁に囲まれた無機質で殺風景な部屋。生活感のかけらもない、まるで病院の一室のような空間だ。
アパートに到着すると、ラペルは疲労に任せて乱雑にTシャツを脱ぎ捨てた。汗と硝煙の匂いが染み付いた衣服を、洗濯機の縁に放り投げた、その時だった。
「そこのあなた、お待ちなさい!」
鈴の音のように澄んで、それでいて芯のある声。まるで上流階級のご令嬢のような、高貴な響きを含んだ声音だった。
ラペルは咄嗟に身構え、反射的に腰のナイフに手を伸ばす。十年の経験が培った本能的な反応だった。しかし、部屋中を見回しても敵の気配はない。窓は施錠され、扉にも細工を施した痕跡はなし。
「なんて失礼な方、わたくしを雑に扱わないでくださいまし!」
声のする方を見れば――洗濯機の縁にかけられたTシャツの、プリントの女の子がぷりぷりと頬を膨らませていた。まるで生きているかのように、表情が動いている。
「……は?」
暑さで頭がやられてしまったのか。それとも今夜の仕事での疲労とストレスのせいで幻覚を見ているのか。ラペルは思わず眉間を押さえ、深くため息をついた。
翌日、一晩眠って頭がすっきりした状態でも、昨夜の出来事が頭から離れなかった。気を取り直して半信半疑のままTシャツに話しかけてみる。
「……聞こえますか?」
「あら、やっと普通にお話ししてくださるのね」
やはり声がした。ラペルは思わず後ずさりしそうになる。どうやらラペルにだけ聞こえるらしく、近所の住民に声をかけて確認してみても、彼らには何も聞こえていないようだ。
このTシャツ、勝手に「半袖ちゃん」と名付けたプリントの少女は、とにかく要求が多かった。
「洗濯機は視界がグルグルするから苦手ですわ。手洗いしてくださいまし」
「この柔軟剤はわたくしの好みじゃありませんことよ。チェンジですわ!」
「アイロンでパリッと仕上げてくださいな。シワシワの生地は美容に良くありませんの」
最初は面倒に感じることもあった。しかし、仕事柄、親しい人間を一切作ってこなかったラペルにとって、半袖ちゃんとの何気ない会話は、ふわふわとした奇妙な感覚を胸にもたらした。
「今日のお仕事はいかがでしたの?」
「……別に、いつも通りです」
「そっけないお返事ですのね。でも、お疲れさまでした」
家に帰れば誰かが待っている。そんな当たり前のことが、ラペルにとっては初めての体験だった。
「半袖ちゃん。貴方は一体何者なんですか?」
「わたくしは……うーん、よくわかりませんわ。気がついたら、このTシャツにいたんですの。でもあなたと一緒にいると、とても心地良いんですのよ」
半袖ちゃんとの生活は、意外にも穏やかなものだった。
朝起きると、「おはようございますわ」という可愛らしい挨拶。仕事から帰れば、「お帰りなさいませですわ」という温かい出迎え。ラペルの殺伐とした日常に、小さな彩りが加わった。
「今日はお休みですの?珍しいですわね」
「はい。たまには休息も必要ですから」
「それでしたら、お外にお出かけしませんか?ずっと室内ばかりで、少し飽きてしまいましたの」
ある穏やかな昼下がり。ラペルは珍しく半袖ちゃんを身につけて外出していた。
鮮やかな草木の緑、蝉の鳴き声。都市部でありながら、意外にも自然を感じられる散歩道を歩いていると、不意に胸元がぐいっと引っ張られた。
「ちょっ、どうしましたか?」
「いいからついてきてくださいまし。あそこですわ、あそこ!」
導かれるままに路地を曲がると、古風な趣ある店構えのお団子屋さんがあった。暖簾には手書きで「創業五十年」の文字。軒先には「夏季限定 かき氷」の看板が揺れている。店内では家族連れや老夫婦が、美味しそうにかき氷を食べている。その光景を見て、半袖ちゃんはキラキラと目を輝かせていた。
「あのご夫婦が食べている氷、とっても美味しそうですわ。わたくしも食べてみたいですの」
ラペルは困惑しながらも、宇治金時をひとつ購入した。他の客に気づかれないよう、こそこそと胸元へかき氷をすくったスプーンを持っていく。
「んんっ……!おいしいですわっ、もっとくださいまし!」
パクパクと夢中で食べる半袖ちゃんを見て、まるで雛鳥に餌を与えている気分になった。ラペルの心は、これまで一度も抱いたことのないような温かい感情に包まれる。
(こんな感情、俺にもあったのか……)
穏やかな午後のひととき。
しかし、刹那にしてその時間は砕け散った。
「見つけたぞ、ラペル!」
店の入り口から響く怒号。ラペルは瞬時に状況を把握した。敵対する組織の刺客たち。どうやら居場所を突き止められてしまったらしい。
真昼間の店内に似つかわしくない銃声が轟く。一般人たちの悲鳴が響く中、ラペルは冷静に対処した。テーブルを盾にしながら、腰のナイフを抜く。
研ぎ澄まされた感覚で周囲の敵を把握し、一人、また一人と確実に無力化していく。経験が培った戦闘技術は、狭い店内という不利な条件下でも遺憾なく発揮された。
だが、倒し損ねた残党の一人が、最後の力を振り絞り、死角となる背後から銃を構えた瞬間。
「危ないですわっ!」
突如、Tシャツの生地が風船のように膨らみ、ラペルの背中を庇うようにせり出した。銃弾が膨らんだ部分を貫き、半袖ちゃんの悲鳴が響く。
「半袖ちゃん!」
ラペルは間髪入れずに隠しナイフを投擲し、残党の息の根を止める。しかし、彼の意識は全て胸元で小さく息をつく半袖ちゃんへ向いていた。プリントの少女の顔は青ざめ、普段の元気な様子は微塵もない。
「……あなたが無事で、何よりですわ」
掠れた声とともに、半袖ちゃんがくたりと力なく項垂れる。プリントの色が薄くなっていくのが、ラペルの目にもはっきりと映った。
「半袖ちゃーーん!!!」
ラペルの叫びが、破壊された店内に虚しく響いた。
その後、ラペルはTシャツをくれた知人に連絡を取った。
「血痕なら酸素系漂白剤が効くよ。オキシクリーンに数日間漬けてみな」
藁にもすがる思いで、ラペルは知人のアドバイスに従った。オキシ漬けで三日三晩、Tシャツを浸し続ける。その間、ろくに眠ることもできなかった。
三日目の朝、恐る恐るTシャツを取り出すと――
「……ふわあっ、よく眠れましたわ!あら、なぜそんなに憔悴したお顔を?」
奇跡的に半袖ちゃんは復活した。プリントの色も元通り、いつもの元気な声も戻っている。
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、元気もりもりですわよ」
「半袖ちゃん……無事で何よりです。本当に、良かった」
ふふんと胸を張る半袖ちゃんに、ラペルは安堵のあまり、思わずその場に崩れ落ちそうになった。
今回の襲撃で一つのことが明確になった。
「俺と共にいれば、常に危険と隣り合わせです」
暗殺者である自分との生活に平穏はない。また彼女を危険な目にあわせてしまう可能性が高い。そんなことは、できれば避けたかった。
しかし、そんなラペルの言葉に、半袖ちゃんは何故か嬉しそうな反応を見せた。
「あら素敵。退屈な日常より、スリリングな方が面白いですわ。それに――」
半袖ちゃんが柔らかく微笑む。
「ここが一番落ち着くのですわ。あなたの鼓動が、ちゃんと聞こえますもの」
ラペルの心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。
こんな感情を抱いたのは、生まれて初めてだ。
「……そうですか」
「はい。どこへでもお供しますわ」
半袖ちゃんはそう言うと、ラペルの胸元でウインクした。
――
最低限の荷物だけを持って、ラペルは殺風景な部屋を去った。組織からの追跡を逃れるため、しばらくは身を隠す必要がある。
以前の彼であれば、一人きりで逃亡生活を送っていただろう。しかし今は違う。彼の傍には、たったひとつのかけがえのないものがあった。
「次はどちらへ向かいますの?」
「南の方ですかね。暖かい場所の方が貴方には良さそうだ」
「まあ、わたくしのことを気遣ってくださるなんて。うふふ、あなたは紳士ですわね」
一人の暗殺者と一枚の半袖Tシャツ。奇妙なこの組み合わせは、互いの存在を確かめ合いながら、闇の中を共に歩むことになったのだ。
「ところで半袖ちゃん、今度はどんな食べ物を試してみたいですか?」
「そうですわね……次はお寿司というものに挑戦してみたいですわ。大トロ、ウニ、いくら、考えただけでワクワクしますの!」
無邪気に語る半袖ちゃんを見下ろしながら、ラペルは小く微笑み、また歩き出した。