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夢を見た。
まだ俺も兄も幼い頃の夢だ。
母が死んで、父は仕事で、兄弟二人きり。兄は絵本を読み聞かせてくれたが、俺は退屈してしまって、兄をくすぐって笑わせて絵本どころではなくなる。そういう日々を送っていたあの頃。
夢の中では、母と暮らしたマンションにいて、兄と同じ布団にもぐっていた。兄は絵本を片付け、電気を消した。
兄と手を繋ぎ、天井を見上げた。豆電球だけがぽおっと灯っていて、辺りはとても静かで。まるで世界には俺と兄しかいないような感覚。
「ナオくんは、大人になったら何になりたい?」
「えー、わかんない」
「僕もまだ決めてない。でも、ナオくんと一緒がいいなぁ!」
俺は夢だと気付いていた。そしてこれは、実際にあった記憶か、どうなのか。本当に兄がそう言っていたのだとしたら、兄だって俺と過ごしたいと昔から思ってくれていたということだ。
その夢は叶った。喫茶「くらく」は俺たち兄弟で作り上げた居場所だ。俺には帰るべき場所がある。三綿家だのカミサマだのに縛られたりなんかしない。
「カズくん……!」
俺は身を起こした。まだ辺りは暗い。スマホも時計もないし、星で時刻をはかるという芸当もできないから、何時なのかはわからない。
壺の様子に変わったところはなかった。俺に渡された食料は一日分。ということは、明日が生贄にされる日なのだろうか。残っていたおにぎりを食べた。兄は、兄は必ず来てくれる。
予感めいたものがあった。
俺は立ち上がり、耳を澄ませた。一つの道の奥から、足音が聞こえてくる!
「ナオちゃん!」
髪を振り乱し、走ってきた兄。俺はすぐさま駆け寄った。兄は俺の手首をしっかりと掴み、駆け出した。
「立ち止まらないで着いてきて!」
兄は無数の道を全く迷うことなく選び取り、ずんずん進んでいく。次第に俺の息は切れ切れ、顔はすっかり熱くなってきて、鉄の味までしはじめたが、俺はがむしゃらに足を動かした。
そして、違和感だ。俺のことを「ナオくん」と呼ぶのは世界で兄一人。そして、「ナオちゃん」と呼ぶのは。
「母さん……?」
間違いない。母だ。今の兄には母の霊が降りている。そうとしか思えない。だが、確認している場合ではない。兄は俺の方を振り返らず、ひたすらに駆けていく。そしてついに、洞窟を抜けた。
「うわっ……?」
洞窟を出てすぐのところに、男が一人倒れているのが見えた。傍らには金属バットが落ちていた。兄なのか、兄を介した母なのかはわからないが、きっとどちらかがやったに違いない。
「美乃谷を出る。トンネルさえ抜ければ遼くんが待ってる!」
手を引かれたまま、あぜ道を走る。山の向こうが段々白くなっていた。夜明けだ。ついに体力が切れ、走るのは無理になってしまった。よろよろ、と早歩きで兄の姿に食らいつく。
「ナオちゃん、しっかり!」
声は兄だが、言い方は母だ。俺が幼児の頃、歩くのを渋って道にしゃがんでいたらかけられた言葉そのもの。
――最後の手段って、これだったのか。
兄は何らかの形で母の遺品を残していたのだ。兄がやけに美乃谷や三綿家のことに詳しいのもこれで納得できた。
「いたぞ! あそこだ!」
「追え! 早く追え!」
男たちの声がした。まだ声は遠くだ。まだ逃げ切れる! ここで捕まってたまるか!
もう一度走り出し、アスファルトで舗装された道を行くと、トンネルが見えてきた。ここを車で通った時は一瞬で通り過ぎた。しかし、走ってみるとなかなか出口にたどり着けない。こんなに長かっただろうか。足がもつれそうになりながら、とにかく駆ける、駆ける!
「逃がすか!」
男たちがトンネルに入ってきて、何人もの足音が内部に響いた。ようやく、出口が目の前に迫った。くわぁ、くわぁ、と鳴きながら羽ばたく鴉の姿。
「遼!」
トンネルを出た瞬間、遼が俺の肩に止まり、視界が白くなった。
しばらくして、見えてきたのは七宮さんの家。助かったのだ。
「カズく……母さん?」
呼びかけると、ぎゅうっと抱きしめられた。
「よかったぁ……ナオちゃん、よかったぁ……」
「うん……やっぱり、母さんでしょ。もう、何で隠してたのさ。身に着ける物、置いてあったんだね」
母は自分の袖をめくった。手首にはピンクと白の模様が入った紐のような物が巻かれていた。
「多分覚えてないと思うけど、カズちゃんとナオちゃんが作ってくれたミサンガ。これだけは残ってた」
「カズくん、やっぱり抜け目ないなぁ」
「ナオちゃん。これ以上はカズちゃんの身体が持たないから。ママはいくね」
「うん……」
母はミサンガを外した。ぐらり、と兄の身体は倒れ、地面に叩きつけられる寸前で俺が抱きとめた。
「カズくん……」
「和美さん! 直美さん!」
七宮さんの声が聞こえてきた。すっかり安心しきった俺も、意識を手放した。




