(七)流国
旅路は、拍子抜けするほどつつがなく過ぎていった。
しいていうなら、流国へ到着するまでのあいだ、ソウは、きまって雷撃の訓練――魔導武具なしでの疑似的暴走からの収束――をおこなったが、とりたてて成果は上がらなかった。懸念点といえば、それくらいだろうか。
故郷に――弟のもとへ帰るまでに、これだけはどうにかしなければいけない。
流国と〈白の境界線〉を隔てるのは、山々をつなぐ稜線で、峠をこえると、世界は身を翻すように色づいた。しばしば吹き下ろす雄風に背を押されるようにくだってゆくと、ちょうど中腹に流国があり、初夏の緑が映える茶畑が美しい。
風の流れが豊かで、滝がいくつもあって水資源に恵まれていることから〈流国〉と呼ばれているのだと、ナギは話した。
流国は、魔幽大陸との玄関口となっているせいか、疫病や寄生虫の検査が細かくあり、入国するまでに、専用の宿泊所で一週間の待機を命じられた。それでも、まだ旅路が半年にも満たないことが信じられないと、検問所で日付を書きつけながら、ソウは思った。
入国してから、真っ先におこなったのは、魔狩協会支部へ寄ることだった。事情を話すと、協会は歓迎といたわりの言葉をくれた。嬉しいことに、協会は憂国の支部にすぐ連絡を取って、さらには、音声通信を取りはからってくれると言った。ひきこもりのライが憂国の協会支部に出向いてくれるとは思えなかったが――、それでも、そう提案してくれたことが、とてもありがたかった。音声通信は、現代においてめずらしいものであり、一介のランクBが、おいそれと使用させてもらえるものではないからだ。
黒影にも同様の提案があったのだろう。この話題を出したとき、彼女は眉間にしわをよせて、バカらしい、と一蹴しただけだった。
地道な手続きに破損した装備品の再発注や、魔導武具の調整、健康診断……やることは多かった。とくに難儀したのは、魔幽大陸についての報告書――討伐した魔種や、各地のようすなどだ。ほかにも、魔種調査隊との面談や、医療班との面談などが加えられ、これらは思った以上の時間を必要とした。さらに、医療班からは今後支部に寄るたびに、必ず面談をおこなうようにと言いつけられた。
ナギには協会から謝礼を出すという話が挙がり、ソウは、ナギが宿泊している宿へその話を持っていった。めずらしくアークが出てきたかと思うと、彼は書面にさらさらとなにがしかを書きつけソウへ手渡した。協会に顔を出すつもりはないらしい。けっきょく、顔をあわせたのはその日だけで、ソウの雑務が終わるまでのあいだ、ナギともアークとも話す機会はなかった。
あとになって知ったことだが、アークが書きつけた書面には『助けてもらったのは、むしろこちらのほうで、謝礼を出すなら、自分ではなく二人に出してほしい』といった旨が二人の働きとともに記されていたそうだ。支部長は「旅人というにはずいぶん達筆で語彙が豊かだ。こんなにきれいな文面は、そうそう見ないから驚いてしまったよ。君たちは人にめぐまれたね」と笑った。
一週間が経ったころ、ソウは嬉しい報せをきいた。憂国支部との音声通信の日取りが正式に決まり、そこで、ライと通信ができるという。信じられない思いだった。一日が経ち、二日を過ぎ、そしてついにその日を迎えても、ソウはやはり、そんなことは嘘じゃないかと、信じられずにいた。
音声通信は、初めに憂国支部と簡易的なやりとりがあり、そのあとすぐにロッタ叔母さんに手渡された。叔母さんはソウの声を聴いて喜び、また、ライは元気にしていることや、帰ってくるまでのことは心配しなくていいと言ってくれた。ソウはあらためて頭を下げながら、弟のことをお願いし、さらに金銭面についての話やほかに必要なものごとについていくらか話し合い、ひとまず決着した。ロッタ叔母さんは、とにかく無事に帰ってくるように、と言い含め、向こうでは受話器が別の誰かに手渡されたらしかった。
ソウは耳をすませた。音声通信独特のノイズが、耳にじりじりと響く。そのなかで、音をかきわけるように、じぃ、と息をひそめる。空気がゆれる音がした。ぼそ、ぼつ、となにか聞こえる。
『あ、……』
ライだ。ソウは受話器にとびつくいきおいで、声をあげた。
「ライ! ライなのか⁉」
『兄貴……、』
「ごはんはちゃんと食べてる? 風邪は? 誰かにいじめられたり、嫌なこと言われたりしてないか? それから、それから――、」
『ふふ、あははははっ……』
「な、なんだよ」
『そんなに慌ててる兄貴の声、はじめて』
「家族なんだから……そりゃ、心配するだろ」
ソウは受話器を持ちかえた。
「数ヶ月も、離れてたんだ。ずっと、ずっと心配してた」
『……あにき、』
ライは言った。
『ごめん、おれ。最低で』
泣いているんだ、とすぐにわかった。
『兄貴がいなくなったときに、これからどうすればいいんだろうって、一番に考えちゃって。本当は、兄貴のこと考えなきゃいけないのに、おれ、自分のことだけ考えて。こんなの、こんなの……』
「ライ」
ソウは静かに、呼んだ。
「俺はね、こうやって、ライの名前をもう一度呼ぶことができて、それが、すごく嬉しいんだ。それだけで、救われるんだよ」
『……んの、バカ兄貴……優しすぎるんだよ……そこは、怒るところだろ……!』
「かもね」
ソウは笑みをたずさえた。
「ね、」
『なに……?』
「ライの話、きかせてよ。もっと、ちゃんと声が聴きたい。もう半年近く離れてるんだ。長くなったって、きっと協会も許してくれる。だから教えてよ。ちょっとくらい、わがまま言ってもいいだろ?」
『そういうのは、恋人つくって、そいつに言ってやんなよ』
「はは、恋人なんていないよ。知ってるでしょ?」
『またそういってさぁ』
「じゃあ、恋人つくって、俺が家出ていったらいい?」
『ごめんなさいおれのために結婚しないで』
「冗談だよ。ライに出ていけって言われてないのに、俺がライを置いて出ていくわけないじゃん。いまさらそんなこと、できっこないよ。俺はライの兄ちゃんなのに」
ソウは苦笑した。
「で、ライはなにしてたの?」
『あ、あのね。兄貴、おれ、ちょっとだけ、料理とかできるようになったんだ。まだ、兄貴みたいにうまくないけど……兄貴が残してたレシピとか、見つけて、読んで』
それから、ライはたどたどしく自分のことを話した。
掃除のやり方がわからなくて、逆に散らかして、汚してしまったこと。
たくさん失敗したこと。
すこしだけ外に出られるようになったこと。
買い物でお金をはらう時に、金額を聞きまちがえて恥ずかしい思いをしたこと。
こまっていたら、親切な人が横から教えてくれたこと。
『おれ、ずっと怖くて。でも、ちゃんと優しい人もいるんだって、わかって。それがちょっとだけ嬉しくて』
「うん」
ソウは受話器越しに、ライの声に聴きいっていた。すこし緊張しているのは、周りに人がいる状態で話しているからだ。もしライが目の前にいたなら、でっかい背を丸めて、首をちいさくちいさく縮めて、ちょっと上目づかい気味にこちらを見上げて、時折まわりの視線に怯えたように見回したりして……けれど、一生懸命言葉にしてくれる――そんなようすが、目に浮かぶようだった。
遠く離れてしまったこの数ヶ月を埋めるように、 ソウは目を閉じたまま、ライの話ひとつひとつを大事にした。とりこぼしたりしないように、あいづちをうった。もっと、ずっと、ライの声を聴いていたい。どうしていま、目の前にいないのだろう。なぜすぐ会いに行けないのだろう。故郷までの距離が、ひどくもどかしい。
『――で、ロッタ叔母さんが、絵を描いて、売ってみたら、って言うんだ』
「絵を?」
『農場に新しい看板立てるから手伝えって。筆もたされて、しかたなく描いたら、すごく褒められて……ほかのひとも、すごいって、よろこんでくれたんだ。おれなんかの絵で、って。おれでも、だれかを喜ばせたり、できるんだって』
ライは絵を描くのが、むかしから上手だった。色を見分けるのが得意で、ソウにはとうてい考えられない美しいものを生み出すちからがある。それを知り、認めてくれる人ができたのだと思うと、胸の奥から、じんと温かさがこみあげてくる。
「やってみなよ」
『いいの?』
「なんのために貯金してたと思ってるの。これからの心配はいらないし、やりたいことやんなよ」
『でも、おれ……』
「失敗してもいい。すぐ帰るし、兄ちゃんが護るから」
それにね。ソウは言った。
「ライの絵が見たい。俺が、誰よりも一番見たい」
ライはまた、泣いた。
『おれ、がんばるから……いまさら、かもしれないけど。けど、兄貴が帰ってくるまでに、もっと、いろいろできるようになるから。だから、だから……』
通話越しに、鼻をすする音が聞こえる。ライは言葉を詰まらせながら、必死に話している。ソウはくちもとをほころばせた。
「ライ、話してくれてありがとう。俺はさ、ライがどんなことをできるようになってるか、楽しみにしておくよ。本当はすぐ会いたい。いますぐ会いたい」
『……兄貴、おれ、兄貴がつくったごはんが、食べたい』
「ああ、つくるよ。必ず。ライの好きなもの、食べきれないくらいにさ。ミルク煮にミートスパゲティ。リゾットも好きだよな。ロッタ叔母さんから、良いチーズをわけてもらおうよ。――そしたら、倉にある特別なワインをあけて、一晩じゃ足りないくらい語り合うんだ」
『お酒、飲めるの?』
「ライとなら、いくらでも。もちろん仕事は休みにする。明日のことなんて気にしないでしこたま飲んでさ」
『はは、想像つかないや。……でも、いいな、それ』
「俺は必ず帰るよ。だから、それまで家を護ってて」
『うん……うん』
「頼んだ」
***
ようやく雑務から解放されたソウは、すっかり伸びてしまった髪を整えた。ようやく新しい装備――といっても、前に採寸して特注したものを、再発注しただけだが――が届き、久々に、見慣れた青色の上着を着用する。ベルトループに、赤い八打ちの紐を結び、猫面を固定する。りん、と鈴の音が鳴る。
(よし、いつも通り)
魔狩協会を出ると、外はたえず風が吹きぬけている。空を見上げると、鳥の両翼を広げたような三角形が、いくつも滑空している。それはよくよく見ると、小さな機体がぶら下がっていて、そこに人が乗れる仕組みになっている。すべるように大空を流れ、滝と滝のあいだを器用にすりぬけていくさまは、圧巻だった。滝の裏にある細道を、ソウは歩いていった。黒影はいつもどおり、音もなく後ろをついてきている。
ごうごうと反響する滝の音を聞きながら、ソウは故郷のなだらかな葡萄畑を思い浮かべる。深く息を吸ってみる。ここは水の匂いにあふれていて、しっとりとした空気が絶えず流れていく。故郷の風はもっと、土の匂いがして乾いていた。息をはく。
表へでると、大空に飛びたついくつもの翼が、きらめいた。
ようやく。ようやく故郷へつながる道に立ったことを、ソウは強く実感していた。
きっと帰る。
必ず帰る。
りん、と鈴の音が鳴る。
ソウは、はやる心をなだめるように猫面をそっとなでた。
「でね、協会からは、山凍地方を経由して黒曜地方へ戻るように、って」
流国の出国所で、ナギと落ち合ったソウは、言いながら苦笑して見せた。
「俺はてっきり、天遼地方を経由して魔鉱列車に乗るのかと思ってたんだけど。だから、まだまだ先は長いかな」
「ああ、納得ですねぇ。なんでも、皇国やその周辺の情勢が怪しいらしくて」
「それ。協会としてもあまり刺激をしたくないらしいよ」
つれだって歩きはじめると、おもむろに、ナギが訊ねてきた。
「それで、けっきょく弟さんと連絡とれたんですか?」
「うん」
ソウはほほ笑んだ。瞬間、ぴたりとナギが静止する。黒影もまた、こちらを凝視したまま微動だにしない。
「な、な、な、なんですかその顔は!」
「え、なに」
「いまの笑みですよ。いままで見たことのないくらいの優しくてやわらかくて、幸せそうな笑みで……まるで、片想いをしながら苦しくて辛くてしんどくてしかたなかった子が、ついに相手と両想いになって、人生で一番のしあわせを感じた瞬間みたいな笑いかたでしたよ」
「よくわからないけど」ソウは半眼になった。
「わかってくださいよ」ナギは愕然と言った。
ソウはナギのあつかいにこまって、黒影へ視線を投げた。彼女はいちど視線を逸らした。そしてまたこちらを見つめると、
「気色悪……」
それだけ言って、早々と去ってしまった。
「ね、ナギさん」
「なんです?」
「俺、そんなにおかしいかな」
「いえ。まぁ、ええ。かもしれません」
その後、出国してからの道中――しばらく、ナギも黒影も目を合わせてくれなかったのは、言うまでもない。




