(五)心
皮肉なものだ。
みじめでもある。
だが所詮、このていどのものだ。
心象風景、というものがあるならば。
ひとつは、六歳までを過ごした邸宅。
もうひとつは、それ以降を過ごした兄の研究施設。
最後は、暗闇だ。
暗闇のなかに、独り。
ほかになにもなく、ただ座っている。
殺風景、というにもバカらしい。なんせ、暗いのだからなにも見えない。音もなければ、においもない。安息というには退屈で。恐怖というには、現実味がない。からっぽとは言いがたいが、ではなにかあるかと訊かれると、なにもない。
しいて言うならば、多少、寒い。
枯れた指先で、くちびるをなぞる。温度が残っているかと期待したが、期待するほどのものはなにもなかった。どれもこれも、そのていどだ。はたして、あの男は生きているだろうか――。
「こんなところにいた」
ふわりとさしこんだ冷涼な香りが、彼の足もとをあらわにした。
「酔狂なヤツ」
魔素交合をした時点で、ソウもまた、瘴気症や白亜化の危険にさらされることになる。そしてそれは長時間におよぶほど、致命的だ。この男にとっての最善はまちがいなく、〈黒影〉を拒み、さらには、瘴気症に侵されたいつ死ぬともしれない足手まといを捨て置くことだった。たとえ、ナギの目の前で、善性を演出するために「拒めない」姿を見せる必要があったとしても――、正当防衛をできるだけの理由を与えて、さらにはこちらから手をはなしたのだから、そのまま帰ればよかった。
考える時間も与えてやった。
選択の余地を与えてやった。
しかし彼はここへ来た。
それは、なぜだ?
「ワタシとともに、死ににきたか?」
「俺は故郷に帰る。だから、ここでは死ねないよ」
「であれば、ワタシを捨て置いたほうがよかろうに」
「それも考えた」
彼は乱雑に言う。
「ただ……ただ、都合が良いんだよ。君なら、そこまで気を遣わなくていいし。それにさ、俺の身体……雷撃のことだって、まだなんにも解決してないんだ。いまさら、誰をこんなことにまきこめると思う? ――いや無理だね。あまりに危険すぎる」
「は、」
嗤う。
「板についた善人ぶりだな」
「まさか」
ソウは目を丸くしてみせた。
「そんなの、俺のことを知った奴が敵になるかもしれないからに決まってるだろ。いってしまえば、君には、俺を売って有益なことなんてないはずだ」
「ほう? ではキサマは、自分の秘密を守ることのほうが重要で、雷撃で他人が死ぬのは、かまわないと?」
「そこまでは。ただ、優先順位がちがうだけ」
「たいそうなクズだな」
「君にはおよばないよ」
クセづいた彼の笑みと好青年然とした口調はやはりいつも通りだ。凛と冷めた目じりがふちどる、蒼穹の瞳。この暗闇のなかでも、彼のまなざしはどこまでも徹底して在るように思えた。
「約束は俺が故郷に帰るまで、でしょ」
彼は、あきれたように言った。同時に、すこしばかり面倒くさそうでもあった。
「なら、それまでのあいだ、俺に利用されてろよ。アンタはアンタらしく、魔種を殺してくれればいい」
いまさらなにを。
思わず嗤ってしまう。
ああ、なるほど。彼は〈黒影〉を利用しつくしたいのだろう。しかし、この死に体に、そこまでの価値があろうか。
否。
ありえない。あるわけがない。ゆえに――、
「そしたら俺は、アンタに命をかけてやる」
耳を、疑った。
いま、ソウはなんと言った。
命をかけてやる、と。そんなバカげたことを言ったのか。
この男が?
「キサマはバカのたぐいか? それともただの死にたがりか?」
「そういう君はたいそうな自信家だね」
ソウはくすくすと、笑った。
「二択なら前者。けど、俺は死ぬつもりなんてない。同時に、君みたいに強いわけでもない」
「ならばどうする?」
「決まってるでしょ」
目の前に立った彼を見上げる。たおやかな金糸を揺らして、ソウは膝をついた。それでもやはり、彼の背丈のほうが高い。
彼はやわく、微笑んだ。
人は、彼の笑みを美しいと思うだろう。
疑いようもなく奇麗で正しいその形が、自分へ向けられた自分だけのものと錯覚し、自らにとって都合のいいように解釈してしまうだろう。
なぜなら彼は知っている。
どう笑えば人の心をつかめるか。
どんな声を出せば人の心を奪えるか。
彼は、自分を魅せるあらゆることにおいて、巧みなのだから。
彼は手をさしのべる。
「俺はさ。けっこう、計画的なんだ」
明確な殺気が、手をさしのべる。
「俺のやり方で、アンタを殺してやるよ」
言いきった。
にわかには信じがたいものだった。
あらゆることにおいて善良と公正を基底とするこの男が。そしてそのように見せるべく、隙ひとつさえも計算して演出するこの男が。――その奇麗な口から、殺してやるなどとのたまった!
「ふはっ!」
笑った。笑ってしまった。
「ははははははは!」
ああ、ああ。酔狂な!
「キサマはやはり気色悪い!」
いったい何の心変わりをしたというのだろう。そんなことは知る由もないが、この身に触れた殺気はたしかなものだ。しかし、恨みや憎悪とはまったくちがう。だというのに、明確に殺意がある。彼は〈黒影〉を殺そうと腹に据えている。こんな危険まで冒して、わざわざ宣言をしに来るなど。
この男は、狂っている!
「くくっ、ふ、はははははははははっ!」
黒影はしばらく、笑いつづけた。
「ああまったく、死ねなくなった。人がせっかく約束を反故にしてやろうというのに、自ら楔を打つなどなんとも馬鹿げている! たとえ嘘としても――否、嘘ではなかろうな。なるほどおもしろい。いいだろう、生きてやろう。キサマの話にノってやる。しかしいいのか。こんなくだらん馬鹿げた約束など。いまさらキサマの利益にはならんぞ。それでも殺しあいをすると。約束するというのか」
相反して、ふてくされた顔をしたのはソウだった。
「君こそ、かってすぎるんだよ。自分で約束を取りつけておいて、都合が悪くなったら反故にする――のはまぁいいんだけど、いまさら、人のためみたいな。そういうの。言っただろ。アンタには、最後まで狂っててもらわなきゃ困るって。いいかげん、アンタの善性に振り回されるのはごめんだ。あと責任取れ」
「責任? なんの話だ。くちづけをしたことか? いまさらそんな生娘のような――、」
「そこじゃないし、アンタわかってて言ってんだろ」
「はははははっ!」
さしだされたソウの手は無視して立ちあがる。
「しかしキサマはやはり、幼いな」
「ちょっとそれ、どういうこと?」
「そのままの意味だ」
彼もまた、こちら合わせて立ちあがった。彼の金糸を目で追う。その蒼穹を見あげる。この暗闇の中で、それだけがゆいいつ、鮮やかに見えた。
「ソウ」
嗚呼、まだ、彼の名を呼ぶことができる。まだ生きている。
「なに。まだなにか、説明が必要?」
「ふふ、いや。いらん」
ならば、もう逃がすものか。
「忘れてくれるなよ。ワタシは、たいそう気が短いぞ」
「知ってるさ。そんなことくらい」
ソウは、皮肉げに嗤った。




