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(四)記憶

 彼女の匂いに、包まれている。

 彼女は、いつだって乱暴で、人の嫌がることを平気で、それも楽しんでするような意地の悪い人間のくせに、こうやって触れてくるときだけは、どこまでも繊細に、大事そうに触れてくる。

 最初は、うすい温度を感じていたものの、そのうちに境界線が曖昧になって、溶けてしまった。意識が溶けきってしまうと、その先はどこまでも黒かった。暗くて広い。暗いのだから、広いかどうかもわからないはずなのに、どうしてか、広く思えた。そして冷えきっていることも、はっきりと感じた。同時に、そこかしこに気配と息づかいのようなものがあり、まとわりつくような湿気が、輪郭にしっとりと染みこんでくる。じっとりと重く、どろりと――、

 ふるえそうになった身体が、急激に温度を思いだした。とけあった彼女の温度が、どういうわけか離れていくのを感じたからだ。きっとこのままにしていれば、彼女から乖離(かいり)して、元通り。それでいい。彼女はあくまでも、利用するコマでしかない。それでいいはずだ。それ以上のものは必要ない。とうぜん、彼女が「ワタシを拒んでみろ」と言ったときに拒まなかったのは、端的に、ナギがその場にいたからだ。ナギがいなかったら、きっと拒んでいた。――そんなふうに、自分の行動について心の中で理由をつけた。

 だから、それ以外に理由はない。いらない。

 なのに。

 夕暮れが、忘れられない。

 彼女が生きることをまるで諦めた、あの瞬間がなんども思い起こされる。

 自分が遂行すべき道のなかに、彼女の視線が、一挙一動が、声が、わりこんでくる。そのことが、ひどく不快だった。

 ソウは暗闇のなかで、身体を起こした。

(これが、魔素交合……?)

 夢でも見ているみたいだと思った。まどろみのなかにある、夢と現実の区別がつかないような時間にいる、ような。

 黒影の姿は、どこにもない。地面という地面は見られず、ただじっとりと重い空気が全身を押しつぶすように存在している。水のなかとも言えない。冷たく、広く、じっとりと重い。歩くたびに、泥のように重いものが、脚を引いているような気がした。

 この暗闇の中ではいくつもの声が聞こえた。

 耳をすませると、幼い少女の声があることに気がつく。


――おとうさま。


 暗闇に浮かんだのは、騎士の男だった。立派な外套を身にまとっていて、背中にも、また鎧の装飾にも国の紋章が鮮やかに輝いている。


――ワタシは剣を習いたいです。

――女の子に剣は不要だよ。


 笑って、男は大きな手のひらで幼い娘の頭をなでたらしかった。


――またあとで。


 騎士は颯爽(さっそう)(きびす)を返して、どこかへ行ってしまった。

 以降、その声は聞こえなかった。

 今度は、遠くから女たちの声が聴こえた。


――奥様もずいぶん安定してらして、

――生まれるのはご子息かしら。

――きっとすてきな跡継ぎになられるわ。


 暗闇のなかに、ぽつり、と落ちた布きれがあった。ソウはおもむろに、それをひろった。手触りがよく、美しい刺繍をこしらえた髪飾りだ。よくよくみると、髪を留める部分が引きちぎれていた。

 また、少女の声が聴こえる。


――では、ワタシはいったいなんのためにいるのでしょうか。


 それまで聴こえていた少女の声は、とたんに聴こえなくなった。

 暗闇は多くを語らなかった。ただ、ぽつ、ぽつ、と燭台の炎のように、揺らいで、消える。


 お願い――(すが)る女の声が聴こえた。

 愛しているよ――低く響く男の声が揺らいだ。


 しかしそれも、次第に聴こえなくなる。遠くには、とるに足らない魔種のいななきや、刹那の剣戟(けんげき)が弾けたが、どれも、簡単に消えてしまった。それでもずっと、ここは暗闇のままだった。

 ソウは拾った髪飾りを見つめた。施された美しい刺繍を指先でなぞる。

 彼女を呼ぶことは、きっと簡単だろう。だが彼女はそれに応じるだろうか。たとえば、彼女へ慰めの言葉を口にして、同情を示してみたとして――そんなの、わかりきっている。

 同情も、励ましも、彼女には意味がない。よくも悪くも、この旅路を通して、彼女を知ってしまった。彼女もまた、ソウのことを知っている。なら、多少はやりようがあるはずで、それほど難しいわけではなくて。

 ただ。

 ただほんのすこしだけ、()()と折り合いをつける必要があって。

(見つけた)

 広い暗闇の中で、彼女は独り座っていた。

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