(三)夜
軋む身体を引きずって天幕へ戻ったソウは、唖然とした。
視線を左右に振る。そのどこにも、黒影の姿がなかったからだ。
(まさかさっきのやつらに)
ソウは状況を一瞥した。荒れたようすはない。なくなったのは黒影の姿と、一振りの大太刀だけだった。夫妻が暮らす天幕へかけこんだソウは、このあたりに冒険者や乱暴者は来ていないこと。また、夫妻の娘は水をとりかえに行くため、天幕から十分ほど離れただけだったことを訊きだした。――つまり黒影は、自らの意思で出ていったわけだ。
ソウは天幕をとびだした。
まだ十分。あの身体で、それほど遠くに行けるとは思えない。
(こんな、ときに!)
***
たった数分。それが一時間になった。
一時間半を超えた。
二時間を迎えた。
ソウは黒影をさがしたが、その姿は見つけられなかった。月のない夜は、ひどく暗い。川べりで足をすべらせかけて一瞬、死を覚悟したが、運よく木の根につかまることができ、ことなきを得た。同時に、彼女がこの場所で同じように脚をすべらせたんじゃないかと嫌な想像をしてしまった。
その痕跡がないことを確認し――といっても、暗くて、とてもわかったものではなかったが――それらを振りきるようにかけだした。
この数ヶ月のあいだにいくらか黒影の気配がわかるようになったとはいえ、それはあくまでも、彼女が目に見え手をのばせば届く範囲での話だ。彼女のように、魔素や瘴素を微細に察知する敏感さなんて、もちあわせていない。
もし自分が黒影を見つけられるとすれば、彼女が戦場にいるときだろう。ところが夜は夜らしく、バカみたいに静かなままだった。
びゅうと荒野を吹き抜ける風に、身体が冷えていく。
走るたびに、この脚はズキズキと悲鳴をあげた。どこもかしこも痛んだ。やみくもに捜してもどうにもならないとわかっていた。いまさらになって、夫妻に相談して助けを求めればよかった、なんて考えた。そもそも、変なやつらにからまれたりしなければ、黒影が天幕を出る前に戻れたはずだった。
あんな面倒な奴らなんて、いっそ殺してやればよかった。
いや、だめだ。そんなことは正しくない。理性が断言する。あのときもっと考えていれば良かった。どれだけ疲れていたとしても、無理やりにでも思考すればどうにかできたかもしれない。焦燥感が傷口をなじる。ぜんぶ後手にまわっていく。悲鳴をあげる傷口が、ささやく。
(もう、いいんじゃないか)
彼女がひとりでかってにどこかへ行ったなら、もういいんじゃないか。
黒影はいつもそうだった。なにもいわない。自分かってに、どこかへ行ってしまう。他人のことなんてこれっぽっちも考えていない。自分さえよければいい。そんな人間だ。
あきらめてしまえば、もうそれに振りまわされなくていい。
それでいいじゃないか。
だって、目指している故郷への道はつながっている。水瑠地方はすぐそこだ。ここまで来れば、もうそれほど言葉にこまることもない。手もとに金はあるから、明日にでも旅支度をすませて、ここを出て行ったっていい。ひとりでもなんとかなる。水瑠地方にさえ入れば、協会と連絡がつく。そうすればどうにだってなる。黒影にこだわる理由なんて、なにもない。ここで別れてしまえば、殺しあいなんていうふざけた約束もなかったことになる。ただ故郷へ帰って、ただいまと弟を抱きしめれば、ぜんぶすむ話だ。彼女の寂しそうな横顔も、見なかったことにすれば、きっとそのうち忘れる。弟といっしょにいれば、いそがしくとも愛おしい日々に圧倒されて、考える暇だってなくなる。すぐどうでもよく思える。だから――。
だから。
ズキ、と痛んだ足が、地面を踏みそこなった。膝をついて、頽れる。乾いた土といっしょに両のこぶしを握りこんで、ソウはさらにうずくまった。
「どうしてだよぉ……」
なさけない声が、かってに喉からあふれた。
自分の輪郭が、わからなくなっていく。こんなに暗いのに、まぶたの裏で夕暮れが明滅する。光をこえてつかんだ黒影の手の熱さがよみがえり、身体の熱が目じりからこぼれる。ぼろぼろとくずれていく。――だっておかしいじゃないか。こんなこと。
「俺を変えるなよ。かってに変えてくれるなよ……」
うずくまったまま、前髪をくしゃくしゃに握りこんだ。手のひらについた土が、ざらりと擦れる。夜風が吹きつける。木々のない荒野のただなかで、それらをさえぎるものはない。
「帰りたい。戻りたい。戻らせてくれよ。なぁ、どうしてだよ。やだよこんなの。だってこんなの、俺じゃない。おかしいよ。変だよ」
――怖いよ。
誰かの声が聞こえたような気がして、ソウは顔をあげた。
暗い。
黒い。
だれもいない。
「――……、」
咽喉が、きゅう、と細く軋んだ。
「は、ははっ、俺が?」
ソウは笑った。くちもとがひきつれる。なんだかおかしい。
「ちがう」
ソウは否定した。声がふるえる。意味がわからない。
「だって、」
そんな感情なんて、いらないじゃないか。
そのとき、声が聞こえた。
今度は明確に他人の声だった。
「ソウくん!」
目を見ひらく。
暗闇のなかを、わずかな輪郭がかきわける。浮きあがるようにその姿があらわになり、ゆるやかな旅装束の裾が揺れながら、かけよってくる。
ナギだ。
ソウはいそいで身体を起こした。背中を向ける。腰を浮かす。
いますぐに逃げなければいけないと思った。
ズキリと脚が鋭い悲鳴をあげて、また転ぶ。足音がすぐ近くに迫る。うしろに迫る。見られている。――いやだ。こんなのは、だめだ。
「ソウくん、よかっ――、」
「嫌だ!」
叫んだ。
「嫌だやめてこないで!」
「ソウくん。ナギです。おちついてください、敵じゃないです」
「触るな!」
「ソウくん」
「ちがう!」
ソウはうずくまった。
「ちがう。こんなの俺じゃない。だっておかしい。助けて。見ないで。いやだ。いやなんだこんなの。怖い。ちがう。そんなんじゃない。おかしい。ううん。おかしくない。おかしいのは俺なんだ。最初から、ずっと。俺だけがおかしくて。だからおかしいのをおかしくなくしたのに、でも、それまでおかしくなったら、俺はなんのためにいままで――、」
「――生きていてくれて、よかったです」
ふわりと、亜麻色の髪がほほに触れた。温かい。すぐそばで触れた声が、ソウを抱きしめる。泣いて、いるのだろうか。ふるえているのだろうか。
「本当に。本当に、よかった」
大人の腕につつまれたソウはふと、幼いころのことを思いだした。まだ、抱きしめられることも、頭をなでられることもあたりまえだったころの、なんてことのない日常。――大丈夫だ。記憶のなかで、父さんがいう。やさしいまなざしで、ソウがいっとう好きな声で。鮮明に甦る。
「ひとりで、よくがんばりましたね」
瞬間。
ガン、と殴られたような痛みが全身を軋ませた。
堰を切ったように、身体中が悲鳴をあげる。激しい頭痛が目の奥を叩き、まともに口をきけなくなる。ナギさんも無事でよかった。ありがとう。そんなふうに、いつものように言葉にしたいのに、背中がズグズグと悲鳴をあげる。まともに立っていられない。自分の身体を支えきれない。川べりですべったときにずり剥けていたらしい太腿が、いまさら燃えるように痛みだした。じんじん、ガンガン、身体中が音をたてる。
「……助けて」
ソウはうめいた。
「助けてナギさん。黒影がいない。捜さなきゃで、でも俺もおかしくて、どうすればいいかわからなくて、優先順位は決まってるんだ。なのに、ぐちゃぐちゃになる。変なんだ」
「ソウくん」
ナギはいちど腕をはなすと、ソウと向き合った。温良とした笑みをうかべて、ソウのほほをやわくつつんで、こぼれおちた涙を受け止めた。
「ごはん、食べましょっか」
ソウの肩を担ぎながら、ナギは「来るのが遅くなってごめんなさい」と謝った。そんなことはない。また会えてよかった。どうやって来たの? ――正しい反応はいくらでも思いついたが、ソウはなにも言葉にできなかった。口が言葉をかたちづくってくれなかったからだ。痛みが喉もとまで出そうになって、それを奥歯で噛みころしてのみこむと、今度は目もとから、しずくがぼろぼろと崩れてしまった。
すこし歩いたところで、ナギはソウを馬車の荷台に座らせた。携帯照明具に灯りをいれると、すぐに手当をはじめた。言われるがまま、ソウはナギに身体をあずけていた。ぼんやりとしながら聴く綿毛のような声は、どことなく心地が良かった。
次に声をかけられたとき、自分がいつのまにか寝入っていたことに気がついた。寝ていたのはほんの数十分ていどだったが、そのあいだにナギは、簡単な汁物をつくってくれたらしく、椀を受けとると、手のひらに熱がおちた。じんと広がる温かさが、胃の中から広がるのを感じたとき、自分の身体がずいぶんと冷えていたことに、いまさら気がついた。
ソウは汁物を飲みながら、ぽつぽつと話した。どれくらい、なにを話したかは、あまり明確でなかった。
頭の中にあったのは、とにかくいそいで黒影を捜さないといけないということで、そうしなければ、彼女はいまにも瘴気症で白亜化してしまうかもしれない。言いながら、父の白い死が脳裏をよぎって、ソウはその場で吐き戻した。――せっかくナギさんがつくってくれたのに。
謝ると、ナギは気にしないでいいと言って背中をさすってくれた。何度も謝った。ごめん。ごめんなさい。ごめん。ごめん。もう、なにに謝っているのか、わからないぐらいに。それでも、どうしてもその言葉を口にせずにはいられなかった。
ナギはとくべつなにもいわなかったが、しばらく経ってからおもむろに、黒影がまだ生きていることをはっきりと告げた。その言葉を聴いたソウは、意識を溶かすようにまどろみはじめた。身体には疲労が重くのしかかり、根拠を問うだけの気力も体力も、もう残っていなかった。
目が覚めたのは、おそらく数時間後。まだ暗く、朝がおとずれるには、もうしばらくの時間が必要だろうというころに、ちょうど、ナギが黒影を抱きかかえて戻ってきた。バッと立ちあがろうとしたソウを制し、ナギは彼女をソウのとなりに寝かせる。と、外傷がないかどうかを確認し、その頼りない痩躯を、毛布で温めた。――白亜化は、していない。
安堵すると同時に、自ずと彼女の手を握っていた。枯れ枝のような手は、自分よりもうすく、小さい。ひどく冷えていた。どうしてこんなことを、と心の中で問いかけたが、彼女はまぶたをかたく閉ざしたままだった。
うまく考えられない。
彼女の手を握りながら、そのまま眠った。
夢の中で、ソウは黒影を捜し続けていた。うなされて何度も目覚め、握った手があることに気がつく。彼女に呼吸があることを確認すると、ソウの意識はまたうつらうつらと夢の狭間に足を踏み入れる。深く眠ったら、知らないうちに彼女が白亜化してしまうんじゃないだろうか。いなくなって、そのまま父のように帰ってこなくなるんじゃないだろうか。そんな不安が胸のうちを掻く。すこしでもなにかを怠ってしまったら、後悔してしまう気がして。
「ソウくん」
温かい声が、頭をなでる。
「大丈夫ですよ。ナギがいます」
その手は不安を赦すように、ソウの頬をつつんだ。
朝が訪れた。
いくらか身体の軽くなったソウは、起きあがっていちばんに、となりの黒影の見やった。容体はおちついているようだが、顔色が良いとは言えない。
「おはようございます」
温和な声のほうへ向く。ちょうど、ナギは朝食をこしらえていたらしい。あたりには香ばしい匂いがたちこめている。
「ナギさん、黒影は……」
ソウの問いに、ナギは黒影を見る。その顔つきには、彼女の容態がかんばしくないことが表れている。
「薬も飲めていません」
「どうにか助けられないの?」
「いまは黒影ちゃんの体力を信じて、回復を待つしか……」
伏せられたまつげが、沈むように閉じた。すこしの思案と沈黙を経て、翡翠色の瞳に明哲な光が宿る。
「……あるいは」
「なにか方法があるの?」
ソウは訊ねた。
「いえ、しかし……」
言い淀んだ彼はソウを見つめた。退くようすはないと悟ったのか、ややあってひかえめに言を放つ。
「黒影ちゃんの体内に蓄積してしまった瘴素を、直接取りだすんです」
「それって、どうやって」
「以前、ソウくんの魔導力が暴走したときに、黒影ちゃんが止めてくれたことがあったでしょう。あれと似たようなことをやるんです。
古くは魔導時代にあった魔素交合と呼ばれるものが起源で、一部の人々でおこなわれていた特殊な伝達手段です。接触してお互いの魔素をやりとりするんですけれど、これによって、相手の体内に蓄積した瘴素をいくらか取り除くこともできるんです」
「なら」
「俺は推奨しません」
彼ははっきりと言った。
「どうして?」
「あまりに危険だからです。黒影ちゃんに接触して取り除いた瘴素は、そのままソウくんの体内へ流れこみます。ただでさえ瘴素濃度の高い白の境界線で何日も過ごしたソウくんの身体が、同じように瘴気症を発症しない保証はありません。そのまま白亜化する可能性だって……第一、ソウくんと黒影ちゃんでは、保有している魔素の量がちがいすぎます。それはつまり、魔素の量に差があるほど、身体への負担が大きくなるということです。
黒影ちゃんのように繊細な制御ができるならまだしも、いまのソウくんでは……正直なところ、成功は見こめません。失敗はそのまま後遺症につながり、最悪の場合は二人とも死ぬことになります」
「だから捨て置けと言ったのに」
さしこんだ声に、ソウはふりむいた。荷台の板が軋む。
荷台で横たわっていたはずの黒影はいつのまにか身体を起こし、鋭くこちらを睨み据えていた。うすい身体は浅い息をくりかえし、顔色はいつもよりいっそう悪い。
「黒影、薬を……」
「いらん」
駆け寄ったソウを拒むようにして、黒影は地面に靴底をつけた。立てかけていた大太刀へ手をのばし、それを支えに立ちあがる。
「いま飲んでも、どうせ吐き戻す」
「ならせめて休んで」
「ワタシをのうのうと殺してくれるな」
「このままだと死ぬから言ってるんだろ!」
ソウは声を荒げた。そんなぼろぼろの身体で大太刀を抱えて、どこへいくというのだろう。
「であればどこで死んだとて同じこと。死に方くらい選ばせろ」
「まだ死ぬと決まったわけじゃない。お願いだからいまは――、」
そのとき、黒いまなざしが、ふ、とソウをとらえた。
「ならば」
静かな声だった。
「キサマが、ワタシを生かしてくれるのか」
瞬間、彼女に襟首をつかまれる。りんと鈴の音が警鐘を打ち鳴らす。ソウはわずかに身を引いたものの、逡巡が判断を鈍らせた。彼女を振り払うことができず、地面に倒れこんだふたつの身体が、乱暴に重なった。
無感動な漆黒は、ただこちらを淡々と見下げていた。値踏みするようでもあったが、それほど期待しているようでも、失望を浮かべているようでもない。かすかな軽蔑が冷たく根ざしているだけの瞳だった。
彼女はなにも求めていない。
枯れた指が首筋へ影を落とし、頬に触れた。その瞬間、ソウは彼女がなにをしようとしているのかを悟った。魔素交合だ。彼女の気配が、皮膚の内側へもぐりこむように触れる。
「黒影ちゃん、だめです!」
旅人の制止さえ、どこか遠く聴こえる。
「ほら、ワタシを拒んでみろ。死にたくはないのだろう?」
「ッ……」
ソウは身じろぎをした。彼女の言うように、いますぐに拒まなければ、きっと二人とも死んでしまう。見えないものに首を絞められている気分になり、呼吸が苦しくなった。ギリと絞めつける気配に、身体がもがく。
黒い髪がどろりとこぼれるようにおおいかぶさり、空の色はさえぎられる。髪のすきまからさしこんだ光だけが、蒼白の輪郭を際立たせ、同時に深い影をもたらした。うすいくちびるは、ほとんど色がない。
「皮肉なものだな」
ちいさく、ちいさくこぼれた声だった。
「黒、影……?」
薄くぼやけていく視界の中で、ソウは黒影を見上げた。どうしてか、彼女の表情には哀しみが差しているように思えてしまったからだ。静かな諦観だと感じた。
「もういっそ」
呼吸が鼻先に触れる。
黒影は言った。
「いっそ、ワタシもろとも死んでしまえ」
彼女の長いまつげがぼやけて。
ソウのまつげに重なった。




