(八)夢想と現実
この男は、こんなふうに泣くのか。
そんなことを、漠然と思った。人間が泣くさまを見るのはけっして初めてではなかった。だが、それらはどれも興味の範疇になく、およそどうでもいいことだった。
自分の倍以上の――齢三十を超えた大人が泣くようすを、こんなにも間近に、まのあたりにしたのは、初めてだった。人が泣くときは、およそこうだろうという印象を漠然ともっていたが、彼がむきだしにした感情は、ひどく静かなもので、それらのあらゆる印象とはかけ離れている。
身体を起こした彼の、目じりにたまっていた雫が、ぽろ、ぽつ、とたった二滴。彼の青色を濡らした。その二滴は彼の纏う厳正な青と、それに返りついた赤色のなかに、すいこまれてしまった。そこに、彼の感情がすいこまれてしまうのではないかと危惧したが、彼はしばらく、うつむいたままでいた。
彼がまばたきをすると、ぽつ、とまた彼の心がこぼれた。
黒影は寝台に腰かけたまま、この秩序然とした混沌の世界を眺めていた。
織物のような手の群れが、夢想にすがるようにして死んでいる。死ねばそれまでだ。その先に現実はない。――それら個々の感情など知ったことではないが、しかし彼らは夢想を選んだ。意識的あるいは無意識的に、夢想を自らの現実と定め、死をもって現実にしてしまったのだろう。
わずかに空気が動いて、視線だけを動かす。寝台から降りたソウが、すぐ近くに立てかけてあった魔導武具を背負ったのが見える。
「いいのか」訊ねる。
彼はふりむかなかった。その背中にかかったなめらかな金糸がゆれたとき、りん、と鈴の音が響いた。
「俺は帰るよ」
ソウは極めて短く、ただそれだけを言った。いつものような清涼さはなく、しずかな息をそのまま手のひらにこめたような響きだった。
明滅をくりかえす水晶玉――魔導機構を横目に、ソウはいくらか歩くと、そっとしゃがんで、エフを見つめた。エメラルドグリーンはもう動くこともなく、ただひとつの現象として、白い光の明滅を反照するだけだ。
黒影は「そんな自動人形など捨て置け」と言ったが、ソウはなにもいわずに彼女を抱きかかえ、立ちあがった。彼は自分が眠っていた寝台へ向かいながら、訊ねてきた。
「レヴドは?」
「あのバカは――、」
輪郭のはっきりとしたまなざしが、やわく溶けてひびわれるさまが思い起こされる。
「最期までバカだった」
「そっか」ソウは短いあいづちをうった。
「……ワタシは好かん。あのように、かってに出しゃばってかってに重荷を託して死ぬ気狂いなど。ワタシは嫌いだ」
ソウはエフを横たえながら、わずかに視線をさげた。
「友だちに、なれそうな気がしたんだけどな」
「は、お得意のなれあいか?」かるく嗤ってやると、「いや」ソウは短く否定した。
「嫌いにはなれないな、って感じただけだよ」
そこまで言って、ソウはようやく――水晶を正面に見あげる。
水晶はもうずっと、同じことをくりかえしていうばかりだった。レヴドの干渉を受けたことによって、不具合が生じたのか――それとも、ハナから不具合があって、それが露見したのか。水晶はちかちか、ビカビカと明滅し、狂ったように喚いていた。
《幸福は人間に在るべき権利です》
《幸福であることは人間の義務です》
「君が――、エフの中心かな」ソウが訊ねる。
《わたくしは、魔導都市ヴァリアヴル第七シェルター〈幸福のゆりかご〉制御用統括魔導機構。通称〈癒しの母体〉と呼ばれています》
《わたくしには使命があります》
《使命とは、魔導術式に従って、この〈幸福のゆりかご〉を管理・正常に運営することに他なりません》
《魔導都市の機能は現在、97%が失われています》
《しかしわたくしどもは、けして使命を放棄しません》
《ヴァリアブル魔導術式の目的は明快です。人類に尽くすことに他なりません》
《わたくしどもはあなた方を歓迎します》
《わたくしどもはあなた方に尽くします》
《わたくしどもはあなた方に幸福であることを望みます》
その声は、そのうちいくつも折り重なっていった。息をつく間もなく、白い世界には単調で、しかし肉肉しい音が連続してゆく。声が不規則に重なり始めると、それらが発する光も、魔素の流れもまた不規則に、イビツになっていった。
ブツブツと途切れたかと思うと、その背景で聞きとれないほど早口になったり、にぶく音がブレたりする。
《わたくしどもは 《幸福を》放棄しません》
《幸福で《あるべきです》《幸福は》
《《わたくしどもは》権利 《義務》《幸福を》望みます》
ソウはいつものようにほほえんだりすることもなければ、公正然とたちふるまうようすでもなく、ただ、それを静かに見あげていた。
《あなたに《〈幸福のゆりかご〉》を実現》
《あなたに《使命》《を望み》《幸福な《世界を》
「もういいよ。もう、いいんだよ」
ぽつり。ソウは言った。
「君はもう、休んでいい」
《――……、》
ふたつ、明滅した。すこし間があいて、またひとつ。ふわ、と光って。暗くなって。
また、ぼんやりと光を灯す。魔導機構は――マザーは、理解できない、とでも言うように、なんどかそのゆるやかで鈍い明滅をくりかえした。
ソウは言った。
「君だよね。ドリミアルで、俺と黒影を助けてくれたのは。あのとき君が助けてくれなかったら、俺は生きていたかわからない。
君が俺たちを助けてくれたのは、君にも誰かが必要だったから、だと思ってる。それでも、命を救われたことは事実で……だから、ありがとう。……それと、さっきはごめんね。君にひどいことを言った。
俺はたしかに、しあわせな夢を見させてもらった。父さんと母さんに会えたことも、ライが笑ってることも、ちゃんと、本当に、嬉しかったよ。だけど俺は、ずっとここにいるわけにはいかないんだ。ごめんね。どうしても、これだけは、もう譲れない」
《わたくしども》は《使命》あなた方 《義務》に尽くします》
「いままで人に尽くしてくれてありがとう。――君はじゅうぶんすぎるほどがんばってきた。だから、もう休んでいい」
その瞬間、ふつ、と肉肉しい声が消えた。
次に響いたのは、なめらかな諧調だ。
《休止命令を受諾します》
《安全基準を確認します。――問題ありません》
《幸福のゆりかご、第一区画、停止。続けて第二区画を停止します》
《魔素回路を切断。魔導元素の供給停止まで、三十秒――》
《全自動人形およびマザーを停止します》
《全工程を通過しました》
《幸福のゆりかご、停止確認。終了まで二十秒――》
《願わくば、愛しき人類に、未来への希望と幸福があらんことを》
《おやすみなさい。良い夢を》
――……。
「……おやすみなさい。良い夢を」
ソウはいちどだけ、ゆっくりとまばたきをした。ふりかえった彼は、目じりをほんのすこしゆるめただけの、弱い微笑をたずさえていた。
「黒影、ありがとう」
「なにがだ」
「また、助けてくれたんでしょう?」
「戯言を」
「はは、わかってるよ。約束があるからね」
彼はかるく笑った。
りん、とまた鈴の音が鳴る。
「ゆくぞ」
大太刀を担いで背を向けると、彼もまた「ああ」とうなずいて、歩きはじめた。扉をくぐる前に、足をとめたらしい。一度だけふりむいて――ソウは黒影のとなりにならんだ。
それから、ソウは二度と、白い世界をふりかえらなかった。
***
空の青が、目に刺さるほど痛いように感じた。
地上へ出ると、乾燥した風が髪をさらった。荒野のただなかにそびえたつ巨塔を背に、青々とした――枝葉はとうぜん白く、たいしたおもしろみも情緒もあったものではないが――草木の香りが、鼻孔をくすぐる。土の香りがする。風が頬をなでる。陽光の熱が肌に触れ落ちる。嗚呼、ここは外だ。長く遺跡にこもっていたわけでもないというのに、無性に懐かしく感じられた。
どれほど白くとも、ここは外だ。
「なんだか、ひさしぶりに感じちゃうな」
ソウは苦笑した。
「遺跡の近くには補給地点があるって、ナギさんが言ってたよね」
歩きながら、ソウは言った。
「治安が悪いって言ってたから、ちょっと心配だけど。そこに寄って、それから急いでドリミアルに引き返そう。そんなに離れてないし――、」
ソウはさらに、今後のことについていくらか考えを話した。いちいちそれらにあいづちをうつことはしなかった。彼の背中を眺めながら、重い脚で地面の枝葉を踏んだ。だんだんと遠くなっていくような気がしたのは、彼が早く歩いているからではない。
ワタシが、遅いのだ。
ソウがなんのきなしにふりむいた。
「黒影?」
彼はかしげた。
それには答えなかった。
ふと、地面が歪む。否。こんなふうに、枝葉を踏んだだけで大地が歪むことはほとんどありえない。自分が体勢を崩したのだ。思考から身体が乖離してゆく。まどろみがおとずれる。――嗚呼、いまさら。
「黒影!」
(いまさら、そんな顔をしてくれるな)
彼の言葉を最後に、世界は暗転してしまった。




