(六)仕合せの世界
ど、と笑いがふきだす。劇場内には、観客の楽しそうな声があふれ、舞台上の役者たちは、なんてことない日常を歩くように、笑劇という名目にたがわぬ非日常を魅せていた。
日常と非日常を隔てる緞帳があがって、どれくらいの時間が過ぎただろう。
観劇しているあいだ、ソウはずっと夢見心地でいた。となりに父さんがいて、母さんとライが笑っている。こんなことなんて、もうずっとあたりまえだったはずなのに、どうしてか無性に愛おしくてたまらなかった。けれど同時に、大人になってしまった自分が、いまとなりにいる三人とずいぶんかけ離れてしまったような気がして、それがすこし寂しいように思えた。――感傷にひたるなんて、らしくないな。ソウは劇場内の笑みに混ざるように笑みをかたちづくりながら、手のひらのなかで苦笑した。それでもずっと、この幸せにひたっていたいと願っていた。
(――願う?)
ソウが首をひねったとき、割れんばかりの拍手が思考をさえぎった。舞台上で役者が横並びになって、腰を折る。ソウもまた、拍手を送った。内容はもう覚えていなかったが、父さんと母さんがいて、ライが笑っている。それだけで、十二分に幸せだと思ったからだ。
歓喜にあふれたこの空間に、赤い緞帳がくだり、照明が消える。ふ、と暗くなって、視界が暗闇に沈んだ一瞬、ソウはおもむろに、まばたきをした。数秒かぞえると、客席に暖色の光がふわりと広がった。観客はめいめいに立ちあがり、父へ、あるいは母の顔をして、あるいは紳士淑女然と、日常へ戻ってゆく。ソウはしばらく、そのようすを眺めていた。
劇中も、劇場を出てからもひたすらに腹を抱えて笑っていたのはやはり父で、相反して、劇場を出るとすっかり涼しい表情をしていたのは母だった。終わってからふてくされていたのはライで、その理由はと言うと――、
「だって、兄貴はニコニコしてるだけで、ぜんっぜん笑わないじゃん!」
だという。
「笑ってたよ?」
「嘘だ!」
ライはするどく抗議した。
「母さんでさえ劇中笑いすぎて過呼吸になりかけてたのに、なんで笑劇を選んだ本人が一番あっさり涼しい顔してんのさ! おれのが百倍、いや数万倍笑ったわ!」
「えー、面白かったよ?」
ソウはさらりと返した。
「て、いうか。ライ、数万倍とかわかるの?」
ちょっと意地悪を言ってやると、ライは口をとがらせ、またふてくされた顔をした。くす、と笑ってしまうと、これがさらに気にさわったらしく、ライは「笑うなよバカ兄貴」と顔を真っ赤にして怒った。
(大きくなっても、ほんとこういうところは変わんないなぁ)
こうやって怒ったり、口悪く言ってきたりするのは、ライがじゅうぶんに甘えている証でもあった。この事実がどうしようもなく愛おしくて、ついつい甘やかしてしまうのは、自分でも悪い癖だ、とさんざん思っていても、やっぱり、可愛くてしかたがなかった。
「俺、喉カラカラになっちゃった」
「話そらすなよ!」
「飲みもの買ってこようかな。ライはがなにいい?」
「甘いやつ。……ってそうじゃないけどありがとう!」
「どういたしまして。じゃあちょっと行ってくるから、ここで待ってて」
かるく手を振って、その場をはなれた。ソウはこの劇場のすぐ近くの広場に、おいしい飲みものを売っている店があることを知っていた。その店は、以前モモの買いだしにつきあったときに立ち寄ったところで、女性に人気の華やかな香りとゆたかな色彩のアイスティーやフルーツジュースが有名だ。
男ひとりで行くにはやや気が引けるものの、ソウには、ライがこれを受けとったときに喜ぶという確信があった。いつか街へ出かけたら、ソウはライに飲ませてやりたいと、記憶のはしにずっと留めていたからだ。
広場へ出る。列ができていたから、記憶をたどるよりも先に、わかった。ああ、あの店だ。列のほとんどは休日の外出を楽しむ女性たちで、彼女らは会話に華を咲かせながら、宝石のようなジュースを心待ちにしている。
と、ふいに、腰元へ誰かがぶつかった。日頃から戦いの前線に身を置いているソウはたいしてぐらつきもしなかったが、相反して、しりもちをついたのは、やけに細っこい子どもだった。
「大丈夫?」
ソウが手をさしのべると、少年はびくりと身体をふるわせた。すぐさま周囲を見回して、走ってきた道を見るなり、急いで立ちあがると、そのままかけだして、向こうへ行ってしまった。
(どこかで会ったような……)
ソウはおもむろに自分の袖口を見つめた。土と血の染みがついている。さきほどの少年のようすが気にかかったものの、ライを待たせていることを思いだした。店に向かう前に、広場に併設された手洗いに寄って、汚れを落とすことにした。
公衆に口を開いた手洗いは、憂国の都市部ならどこでもあるようなタイル張りで、洗面台が三つ。そして男用の便器が並び、奥にひとつだけ清掃用具入れと向かい合う個室があった。ソウは一番奥の洗面台に向かった。
蛇口をひねるまえに腰元をみつめる。ほかに目立ってあとはついていない。袖口の汚れをおとしてから、ソウはあらためて手をあらった。手のひら、爪のあいだ、指のあいだ、手の甲、手首。それでも何となく気がかりで、もう一度すみずみまでていねいに手を洗う。汚れたことではなく、それを落とすことに熱心になっている自分に嫌気がさしはじめて、ようやく蛇口を閉める。
ハンカチを取りだす。やわらかな布地には刺繍が入っていて、すこしほつれているところもあった。ライが誕生日にくれた、ソウの宝物だ。
――どこかの国では、刺繍に願いごとをこめるんだって。
数年前。ぶっきらぼうにハンカチをつきだしたライはそんなことを言った。
――へぇ、どんな願いごとをこめたの?
ソウは訊ねた。
――兄貴が、無事に帰ってこれますようにって。兄貴は、兄貴だけは、いなくなってほしくないから。
ソウは、こみあげてきた懐かしさに微笑を浮かべた。
たった一人の、大事な家族だ。
「――……、」
ソウは、まばたきをした。
(たった、一人?)
ゴトン、と音がする。掃除用具入れのなかで、なにかが倒れたのだろうと、ソウは考えた。なんてことのない日常だ。ふつうの休日で、あたりまえにある時間だ。
(なんだ、この違和感)
喉元が軋むような心地がして、ソウは蛇口をひねり、一度口をゆすいだ。
ゆすいでも、ゆすいでも、魚の骨が刺さったような痛みが取れない。
(なんか、気持ち悪い)
味がしない水を、無駄づかいするようにたくさん流しては、口にふくんで、何回も吐きだした。
(だって、母さんがいて、父さんがいて、ライがいて、みんな笑ってて、ライだってふつうに外を歩いていて、それがあたりまえで、こんなに楽しくて幸せなのに、なんでこんなに――、)
ソウはふいに顔をあげた。鏡面に映る魔鉱灯の光が目に痛い。タイルの目地が規則正しくならんでいて、ひとつひとつのつるりとした四角形がびっしりと壁を埋めつくしている。
冷水がおびただしく手のひらを打つ。
痛いぐらいに、冷たいのに。
(俺が、いない)
ソウは鏡面を見て、愕然と一歩、後ずさった。
(なんだこれ)
ソウは手洗いをとび出した。
公園の池。店先の窓ガラス。そのどれにも、自分は映っていない。ソウは走った。いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。気持ち悪い。考えたくない。これはなんだ。なにが起こっているのかわからない。わかりたくもない。ソウはいっしんに走って、広い青色を見つけると、その背にすがるように、手を伸ばした。
「父さん!」
父さんはふりかえった。
「おう、そんなに急いでどうした」
「顔が真っ青よ?」
母がとなりで、心配そうに首をかしげる。
「父さん、ねぇ、俺は。俺はどこにいるの!」
襟首を乱暴につかんで引きよせる。顔をぐっと寄せる。父の瞳を、凝視する。
「いるじゃないか」
ソウは、目を見ひらいた。
コルク色の温かいまなざしに映っているのは、まぎれもなく、幼い自分の姿だった。
「あ、ぁ……」
手を、はなす。
「なんで、どうして」
両手で顔をおおった。そのひょうしに、手のひらの火傷痕がつっぱった。父が亡くなってから、初めて魔導武具を手にして、そして、ついた雷撃傷。この手の傷を見て、母は「ごめんね」と泣いた。どうして母さんが謝るのかがわからなくて、困惑した。そんな優しい母も殺された。
「兄貴、大丈夫?」
後ろからライの声が聞こえると、不思議なほどに肩のふるえはぴたりと止まった。
背筋を伸ばす。
ふりむく。
笑みをたずさえる。
「ああ、ごめん。心配かけたかな。ちょっとびっくりしてさ」
「もう、兄貴」
ライは頬をふくらませた。
「ちょっとはおれを頼ってよ。おれだってもう子どもじゃないし――、」
その瞬間、耳を塞ぎたい衝動にかられた。
「学校も卒業して、こうやって毎日働いてるんだからさ」
コトリ、となにかが倒れた音がした。
誰のものともわからない置き去りのジュースが、誰もいないベンチの上で倒れたらしかった。容器は身をまわして、地面に転落した。わずかにたわんで、跳ねて。ひろがった染みのうえで、みずみずしく揺れて、静止する。ぬれたベンチから、ぽつ、ぽつ、とこぼれた甘い汁が、うすい表面を波立たせた。
胸を張ったライは、おそらく笑っているのだろう、とソウは感じた。おそらく、というのは、ライの表情がまるでわからなかったからだ。胸を張って笑うライの明るい笑顔なんて、みたことがない。だから、わからない。世界が遠のいていく。すりガラスの先に、世界は冷たく消えてゆく。記憶を、自分の言葉が叩く。
――たとえばだけどさ。白が受けいれられる時代がきたとして、もしその時に生まれていたら、
もしもの話だ。
たとえば、父さんが生きていて。
母さんだって殺されたりなんてしなくて。
ライが、おびえることもなく外を歩ける、なんてことがあったとしたら。
――幸せに、なれたのかな。
――もしちがう時代に生まれていたら、その人はもう、別の人かもしれませんね。
(ああ、)
わずかに、ソウは目を伏せた。
(そうか。そんな未来があったとしたら、そこに居るのは俺じゃない)
唇を噛んで。
(ここは、いまの俺の居場所じゃないんだ)
否定する。喉のずっと奥が、ぐ、と詰まって、にぶい悲鳴をあげている気がした。気持ちが悪い。ここは自分の居場所じゃない。自分がいていい場所じゃない。なにもかもがちがう。だから、気持ちが悪い。飲み下せない。――このままでいい、なんて、思えそうにない。
幸せなのに。あるべき幸福の形は、ここに在るのに。
受けいれられるわけが、ない。
稚拙にくずれていく幸福を前に、ソウはうつむいた。
たしかな幸福だ。
きっと、望んでいた世界だ。
《なぜあなたは、幸福を否定するのでしょうか》
《なぜ自らがそぐわないと否定するのでしょう》
さしこんだ声は、肉声のようになめらかだったが、どこか単調としていた。美しい音色のように、どこか神聖な気配すらただよっていて、言ってしまえば、人間のものとは思えない。
「アンタか。俺に、こんな夢を見せたのは」
《これはあるべき幸福です。あなたが享受すべき幸福です》
《あなたは幸福であるべきです。それは人間が求めるものであり、否定すべきものではありません》
頭蓋をなんども叩くようなその声に、むしろなにもかも預けてしまっていいようにさえ思えてしまう。
「……そうだったのかも、しれないね」
うつむいたまま、ソウは静かに答えた。
独り言ちる。まぶたを閉じる。
「うん。きっと、十年くらい前なら、きっと、幸せでしかたがなかったのかもしれない。父さんが亡くなって、母さんが殺されて、ライは幼くて……あの時ならこういう未来を、望んだかもしれない」
うすくひらいて、ソウはクセのように笑った。
「母さんが殺されて、十四年が経ったんだ。――俺はね、それだけの時間、ライを見てきたし、いっしょに過ごしてきたんだ。そりゃ大変だよ。毎晩母さんって泣きわめくし、おねしょするし、学校にも行かないし。大きくなっても、ろくに料理も掃除もできなくて、不器用で悲観的で、泣いてばっかでさ」
手のひらの傷痕を、ソウは眺めた。
「みんな言うよ。お前は自分の人生を歩けって。言いかたは優しいけど、ライのことを捨てろって、みんな言うんだ」
手をにぎって、ひらいて。それを何度かくりかえす。乾いた傷痕がつっぱって、それでもソウはまだ、にぎって、ひらいてをくりかえした。
「俺がいなかったら、ライは大人になれたかな? 料理もできるようになって、働いて、頼ってよ、なんて、ヘタレなくせに生意気に胸を張ったりしたかな?」
手が、止まる。
「わかんないよ。そんなライなんて、俺は知らないんだ」
なにもなくなってしまったこの空間のなかで、ソウはようやく顔をあげた。
色彩のない世界だった。
とくべつ明るくもなくて、たいして暗くもない。
そのずっと遠くに、もう手の届かない幸せな世界が、ぼんやりとうかんでいる。
「俺は、母さんを見殺しにして、ライと生きることを選んだんだ。ただ、たった一人の家族を守りたかったんだ。だから、こうやって生きてきた」
姿の見えないソレは言う。幸福はあなたの権利だと。
姿の見えないソレは言う。幸福は実現可能だと。
姿の見えないソレは手をさしのべる。
《あなたは幸福であるべきです》
りん、と鈴の音が響いた。
「なら、否定してくれるなよ」
ソウは嗤った。
「なぁ、どうしてだよ。どうしてみんな、否定するんだよ。俺が選んだ道だ。選んで、十四年も積み重ねてきたんだ。それを否定してくれるなよ! なんで、ライを悪く言うの。ライが悪いっていうなら、その原因を作った社会の偏見のほうが、よっぽどまちがってる! けどそれを言えるほど社会は寛容じゃない。簡単に踏み潰されて、ぜんぶ排斥されることだってある。それを目の前で見てきた。目の前で殺されたんだ! 無謀に戦えば死ぬんだ。殺されて、なくなっちゃうんだ。
だから考えた。慎重に生きる必要があった。他人の信頼と社会的な信用が必要だった。白ってだけで排斥されるこの世の中で、弟を守れるだけの何もかもが欲しかった。当たり障りなく、誰からも信頼されるような人間である必要があった。隙を見せて、親しみやすさを演出する必要があった。 母さんが殺されたときみたいに、もしなにかあったら――そのときに、誰かが味方になってくれるように人間関係を構築する必要があった。
俺は俺のために、自分を捨てたんだ。考えて、行動して、分析して、改善して、考えて行動して分析して改善して考えて行動して分析して改善して考えて行動して分析して改善して――そうやって、俺はたったひとつの大事なものを護ってきたんだ! ふざけるな!」
ソウはしあわせと呼ばれる何もかもを睨んだ。
「かってにひとの大事なものを……生きてるライを。生きてきた父さんや母さんを、まるで偽物みたいに、ぜんぶまちがってるみたいに――俺の大事な家族を、理想だ幸福だって言って、都合よく否定するなよ!」
――りん。
鈴の音が、聴こえる。
ソウはまた、うつむいた。
腰元の猫面を、そっとなでる。
「たった一人の、家族でさ……」
鈴の音が、反響する。
「俺はもう、ライを独り残して、幸せになんてなれないんだよ」




