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(五)溶けあう白

 ちいさな世界だった。

 そこはどろりと湿気ていて冷たく――しかし生ぬるい世界だ。息をすることもためらうほど、かび臭いにおいがたちこめている。ここは、ワタシがまだうんと幼かったころ。寄る辺として(すが)った場所だった。この場所は、兄の世界だった。

 白銀の髪であるからと、貴族の両親に捨てられ、家も名前もなく(うと)まれて生き育ち、社会のどこにも居場所がなかった兄は、ついに魔導遺跡をそのまま研究施設として利用するようになったという。それを世間は異常者や気狂いと指さしたが、兄にはもうそれらの声が届くことはなくなってしまった。文字通り、兄は、自分だけの世界に閉じこもってしまった。そんな世界に、ワタシはただ()として迎えられた。兄はワタシのことを、ただ妹と呼んだ。それは、名のない兄が、名というものを妬ましく思っていたからだ。


 コツ、コツ――コツ。


 不安定に揺れる足音が、うしろでとどまった。だれかわかるからこそ、ふりむきはしなかった。それは、ふりむいたところで、およそ意味はなく、そしてなににもならないことだと、もうずっと昔から知っているからだ。

 視線を下げると、そこには紙きれが雑然と散らばっていた。踏まれて汚れたままのものや、折り目がついてしまったもの。意図的にぐしゃぐしゃにされたようなものに、破り捨てられたもの。汚く、一貫性がない。まるで、いま後ろに立っている男そのものにすら思えてしまう。

「お兄様。研究資料はよろしいのですか?」

「お前は今日も愛らしいね、妹よ。さぁ、お前の黒いまなざしに、私を映してはくれないか。もっと、声をきかせてはくれないか」

 真っ白な手が伸びてくる。その手には温度があった。首の横を通りぬけるとき、じっとりと重い体温が、空気をつたって、肌に触れてくる。白い袖が、もったいぶってこの頬を包む。視界のはしに、銀糸がとろりとこぼれた。蜘蛛の横糸のようなソレは、いくつも垂れて、視界をおおう。

「私はお前がいないと寂しくてたまらないのだから」

「ばかなことをおっしゃる。あなたはワタシでなくともかまわないのでしょう」

「私はこんなにもお前を愛しているというのに、どうしてそれが伝わらないのだろうね」

「それはあなたが――、」

 ワタシを見ていないからだ。

 ふり向いて、しかし、口を閉ざした。――どうせ無意味だ。なにを言っても、通じない。だから、兄に言葉で触れあおうなど、期待するだけ無駄なことでしかない。

 白い指先が、頬に触れる。たて筋の目立つ爪は、いつもギザギザとしていた。それは、考えごとをするときに、決まって爪を噛むからだ。ところどころ赤がにじんでいる。

 ワタシはいつも兄の指先が触れるたびに、その粘膜のような薄紅色が、ぐちゅりと音を立てるのではないだろうかと耳をそばだてていた。けれども、その生々しい色に反して、指先は乾いていた。

 ぼろぼろの皮膚はとがっている。

「愛しているよ、――、」


 ?


 いま。いま、この男はなんと言った。

 目を見ひらく。凝視する。

 白いくちびるが、赤い中身をぬらりと動かして、

「愛しているよ。■■、」

 といった。

 それは、久方ぶりに聴いたワタシの名前だった。

(嗚呼、これは)

 虚しさだ。冷めていく。覚めてしまう。

 兄はワタシの名前など知らない。

 ゆえに、

(これは、夢想だ)

 こぶしを握る。

 振りぬく。

 そこにはただ、闇が広がっているだけだった。



***



 白亜の根が這いまわる真っ白な寝台の上で、黒影は目を覚ました。ずるり。重い髪を引きずるように、身体を起こす。黒い髪がひとふさこぼれると、ちかちかと視界が明滅した。ひどい気分だ。嫌な夢を見た。否、()()()()()

 眉間にひとすじのシワを入れて、頭を振る。

 あらためて周りを見回す。ここはつるりと均一な光沢を帯びた部屋で、目を楽しませる調度品のたぐいはなく、面白みのない家具が必要最低限だけおかれている。黒影が気を失う直前にいた場所と遠く続いているような印象を受けるが、ここはびっしりとへばりつく白色に浸食されていた。

 根でこじ開けられたのだろう扉はぐにゃりと曲がったまま下敷きになり、口をぽっかりと空けている。ふちどるように這う根は、とうぜんとでもいうように人工物を押しひろげ、我がもの顔で侵食していたが、分厚い壁や天井を食い破ることだけはかなわなかったらしい。直感的に、ここは()()()()に近いのだと確信したが、無論、こんなところに移動した覚えはない。

 地上を目指しバリアブルの内部を移動していたところ、運悪く妖魔の集団に出くわしてしまったのは覚えている。

 ソウと分断されたあと、黒影はレヴドとともに階段へ向かったが、そこにはすでに妖魔が蔓延(はびこ)っていた。ろくに武器をふるえない場所で戦うことは、たいそう馬鹿げた死そのものでしかない。一時的な撤退を余儀なくされ、ひとまず妖魔の手が届かない場所へ一時的に退避した。

 ことが起こったのは、そのあとだ。

 どうやってほかの二人と合流し、この状況を打破するか作戦を練っていたときに、ふと聞きなれない音がいくらか響いた。耳障りな音だった。それを皮切りに、いくつもの魔導術式が展開し、おびただしい明滅をくりかえした。なんらかの原因で、バリアブル内部の魔導機構が立ちあがったか、あるいは感知されてしまったのだろう。そう気づいたときには遅かった。レヴドがその場に伏し、黒影もまた、耐えがたいほどの干渉を受け、意識が混濁し――最後に聞こえたのは、やけに明瞭とした《あなたに幸福な世界の実現を》という声だった。

(つまりは、魔導術式による知覚系への干渉――仮想現実のたぐいか)

 黒影はぎゅうと引き絞られるような頭痛に耐えかねて、また頭を振った。

(瘴素が濃い。肌に合わん。きもちがわるい……)

 すこしのあいだじっとしていたものの、なにかの気配が近づいていることに気がついた。寝台から降り、近くに立てかけてあった大太刀を手にした。

(ご丁寧に立てかけてあるとはな)

 近づいてくる物音に、神経が尖る。

 気配を探る。イビツなものだ。この気配は――。

 抜刀。

 そのむこう、ぽっかりと口をあけたその場所から顔を出した男に刃をつきつけた。レヴドだ。

「黒影、おめぇこねぇとこにおったか! エフとソウは……おらんのか」

「これはキサマの仕込みか」

「んにゃ」

 彼は首をふった。

「……じゃけど、結果的にこうなったんは俺の責任じゃ思うとる。本当にすまん」

 レヴドは頭を下げた。

「最初から()うときゃよかったんかもしれん。じゃけど、俺も迷うとった」

 顔をあげた壮年の瞳には、静かな後悔が暗澹(あんたん)と影を差している。

「おめぇが見ぬいとったようにエフは……人間たぁちげぇ。エフは〈魔導人形(マナ・ドール)〉じゃ、と思うとる」

「なんだと」

 黒影は目をみはった。


 魔導人形(マナ・ドール)――それは、魔導時代に存在していた人型の魔導機器をさしていう。複雑な魔導術式により、高度な人工知能を搭載した……いわば人造人間のようなものだ。無論、その成り立ちからみてもあくまで機械であり、どうつきつめたところで人間ではない。

 現代において、魔導人形(マナ・ドール)はどれもこのバリアブルから出土していることは有名だが、完全な姿で出土した例はない。どれもひどく破損していて、さらにいえばそれそのものを現代の技術で再現・修復することすらかなわずに、ただ歴史的価値のある置物として保管されている遺物だ。


「俺ァこの手の話に詳しゅうねぇけぇ、そねぇ説明がつかんのじゃけど……エフは、このバリアブルに関係があったんじゃろうて」

「……キサマは魔導機構が生きている箇所がある可能性を示したな」

「ああ、じゃねぇと転移魔導門が起動するいうんはありえん話じゃ」

「ならば、その機構の制御下である場所なら、内部環境が自動的に管理されていることがある」

 あくまでも、仮定でしかないが。

 独り言のように黒影は言った。

「つまり、たぐいまれに保存状態がよく、たいした破損もない〈魔導人形(マナ・ドール)〉が、なにかしらの理由で起動し、みずから外へ出た、と?」

 自分で述べながらも、いささか信じられるものではない。

 レヴドは渋い表情をみせる。なにか思うところがあったらしく、彼は少しのあいだ黙していたが、ややあってその一端を口からこぼした。

「……使命じゃ」

「使命だと?」訊きかえす。

「〈魔導人形(マナ・ドール)〉は、初期起動から役割を与えられるんじゃ。エフが〈ママ〉()うたんは、きっとその使命を与えた張本人じゃ」

 レヴドは奥歯を噛むように言った。

「エフの知能は未成熟で、記憶はあいまいじゃった。じゃけぇ俺ァ、エフにはそねぇなもん関係ねぇと思うとったんじゃ……本当にすまん」

「ソウをさがす。手伝え。ワタシはいそがしい」

 髪をはらって、大太刀を担ぐ。やれ過去の文明を解き明かそうだの、遺物がどうのだというのは元々どうでもいい。だが、ここから動かないことにはソウを見つけることすらかなわない。

「ええんか、俺を信用して。俺ァまだおめぇに俺んこと――、」

「ワタシがキサマについてわかったことといえば、キサマがバカでたいそう愚直な阿呆だということだ。ハナから信用などしていない。するつもりもない。わかったらとっとと歩け愚図(ぐず)。それともそんなに斬られたいのか」

「おめぇ……、」

「目を輝かせるな! ワタシはキサマが嫌いだ!」

 大股で根を越えながら、レヴドの前を抜けて沸然と歩きはじめる。隙間を縫うように進んでゆく。元々は部屋・廊下などと、はっきりと空間が分けてあったのだろうが、こうも白い根に浸食されては、その境目すらわからない。

 奥へ進むごとに白亜はみっちりと数を増やし、根は太く、道は狭く、薄暗くなっていく。細い洞窟のなかで、身体をひねらせながら這っている気分だった。自動昇降機のなれの果てだろうか。

 根に足をかけてのぼっていくと、髪が枝にひっかかってしまった。舌打ちをする。短絡的に、いっそ切ってしまおうかなどと考えたとき、うしろについていたレヴドが、無骨な手でそれを丁寧にとりはずした。――それが、少々意外だった。

「俺ん母ちゃんが、女の髪は大事にしねぇって、ようけ言うとった」

「だからなんだ」

「んにゃ。ただ思いだしただけじゃ。黒い、きれいな髪じゃったけぇ」

「キサマの思い出などしらん」

 フンと鼻を鳴らし、また進んでゆく。

 レヴドは訊いてもいないのに、その後もいくらか話をした。そのどれもが、他愛もなく、どうでもいい話だった。だが、あえて聞き流してやったのは、足を進めるほどに瘴素が濃く、重くなっていったからだ。感覚がにぶり、方向がわからなくなり、視界がぶれ、意識の輪郭がぼやけ、なんのために足をあげて進んでいるのかさえ、わからなくなってしまいそうだった。いったいだれをさがしているのか。なぜここにいるのか。徐々に溶けて、この這いまわる枝の中にうずくまって、溶けてしまいそうな――。

 もやがかかった感覚の中で、レヴドの厚い声は、明瞭として聞こえる。それを聴くたびに、くだらない話だと思考が浮かぶ。すると、わずかばかり、自分の輪郭が見える。

(くそほどに、)

 足をあげる。

(くだらん)

 根を踏む。生気を潤沢に宿した、真っ白な根がしなやかにたわむ。

(どこだ。どこにいる)

 瘴気のせいで、微細な空気の変化が読みとれない。這いまわる根へ大太刀がかからないように、気をつかいながら進まなければならない。

(あのあんぽんたんは、どこで寝こけている)

 さらに根を越えたときに、目もとがチカチカと痛んだ。

 光だ。光がさしこんだからだ。這いまわる根のすきまからさしこむ光がある。

(ソウ!)

 黒影は今まで以上にあたりを探った。どこかに抜ける道が――、


 白い。

 白い空間だった。

 黒影は根のすきまから這いでた。ずる、と髪を引きずりながら、立ちあがる。少しだけよろめいた。追って、レヴドが立ちあがった。

 半球状の大きな空間は、まずとても白い。壁も天井も、まるでそれ自体が淡く発光しているようだ。いっさいの継ぎ目も、空間を支持する柱などの構造も見られないつるりとした幽遠の曲面天井には、星が瞬くように、細い光が軌跡を描いている。有機的な円をいくつも重ね、複雑な造形美を描くそのさまは、まるで教会のステンドグラス――とりわけ、薔薇窓を想起させるようだった。その中心から真っすぐに視線を下ろすと、この空間のちょうど中央部分に、大きな水晶玉のような()()()が座している。

「こいつァ魔導術式の、制御機構……」

 レヴドはくちをあけたまま、声をこぼした。

「こねぇにでけぇ機構が、生きたまま現代に残っとるなんて、信じられん……」

 遠目からでも、見上げるほど大きなそれは、曲線を重ねた重厚な台座の上で、とても大事そうに、あるいは、崇められているかのように存在している。

(まるで、祈りを捧げろ、とでも言わんばかりだな)

 黒影は皮肉げに睨んだ。なぜなら、それらが遠く見下ろしているのは、真っ白な樹の根でびっしりと埋めつくされた床と、放射状にならべられた寝台――さながら、棺桶のようでもあったが――の上で眠る人間たちだった。数えずとも、数千はまず超えるだろう。

 黒影が眉間のシワを深くしたのは、これだけの人間が眠っていながら、色のある人間が見つけられない、ということだった。根を踵で踏みつける。舌打ちを重ねる。

 眠っている者たちは、どれも白く笑っていて、満足そうに、あるいは、とても幸せそうにしていた。だが、色はない。それらはとうの昔に死んでいるのだろう。ひび割れて崩れているものもあれば、男女で仲睦まじくひとつの箱でよりそいながら、身体を半分以上、どろりと溶かしあい、混ざりあいながら息絶えているようすも見られた。そんな彼・彼女らを包むように、そっと樹の根が包んでいる。樹の根の先は、白く溶けた腕に。微笑む首元に。足に。腹に。肩に。背中に――つぷりと沈んだまま、繋がっている。あちらもこちらも、手をつなぎあうように根をつなげている。

 もし夢から覚めることがなければ、この有象無象とおなじように仲良く死んでいたのだろう。反吐(へど)が出る。黒影は吐き捨てるように(むくろ)を蹴った。乾いた土のようにぼろりと崩れた白のなかから、樹の根が顔をのぞかせた。

 嘆息。

 黒影はわずかに頭を抱えてから、この幾百、幾千の骸の隙間を歩きはじめた。

「キサマの見解を聞かせろ」

「じゃけぇ詳しゅうねぇ言うたじゃろうが」

「なんでもいい。二度言わせるな阿呆」

 レヴドは足元の骸を踏まないようによけながら言った。

「俺が捜しとるクソ――イナサ、いうんじゃけど。そいつが昔、()()()()()()には、国外に漏らしとらんもんがあるはずじゃて。そねぇ話をしよった」

「兵器のたぐいか」

「そねぇ知らんわ。俺ァむずかしい話は嫌いじゃったけぇ」

「キサマの好き嫌いは知らん」

「おめぇ、そういうとこじゃけぇよ! 態度クソ悪ぃんじゃ! クソじゃ」

「罵倒の語彙(ごい)から学びなおしてこい」

「ああいえばこういう! たいがいにせぇよ!」

 うるさい男を無視して、黒影は白を踏んでいった。いくらか――それなりの時間あるいたところで、巨大な水晶をようやく、半周しただろうか。さらにもうすこしまわりこんだところで、黒影は見慣れた色を見つけた。

「ソウ!」

 足早に、彼のもとへ駆けつける。

 彼はまだ色をうしなっていない。彼は仰向けのまま、規則正しい寝息を重ねて、眠りつづけているらしかった。手を伸ばす。

「おい、起き――、」

 瞬間。

 バチ、とはじかれた。なにかに拒まれた。

(なんだ。いまのは)

 黒影が、とっさにあたりを見まわしたそのとき、はじめて水晶玉がおびただしく明滅し、その球状の内部で激しく光を走らせた。無数に走る光の軌跡。あれこそ、魔導機構を織り成す複雑膨大な回路だ。


《警告。警告。警告》

《幸福を侵害することは、許可できません》

《幸福は人間に在るべき権利です》

《幸福であることは人間の義務です》


 イビツな音声が発せられるたびに、水晶玉は明滅し、さらに、幽遠の曲面天井もまた、おびただしく光の軌跡を描いた。

「おめぇはなんじゃ!」レヴドは半月斧の布をばらりと捨て、切っ先を向けた。


《わたくしは、魔導都市ヴァリアヴル第七シェルター〈幸福のゆりかごユーフォリア・ターミナル〉制御用統括魔導機構。通称〈癒しの(ヒーリング)母体(マザー)〉と呼ばれています》

《わたくしには使命があります》

《使命とは、魔導術式に従って、この〈幸福のゆりかごユーフォリア・ターミナル〉を管理・正常に運営することに他なりません》

《魔導都市の機能は現在、97%が失われています》

《しかしわたくしどもは、けして使命を放棄しません》

《ヴァリアブル魔導術式の目的は明快です。人類に尽くすことに他なりません》

《わたくしどもは、使命をまっとうします》


「人類に尽くす、だと?」黒影は眉間にシワを寄せた。


《ここは〈幸福のゆりかごユーフォリア・ターミナル〉》

《わたくしどもはあなた方を歓迎します》

《わたくしどもはあなた方に尽くします》

《わたくしどもはあなた方に幸福であることを望みます》

《あなたに幸福な世界の実現を》


 よくよく見ると水晶玉の台座には、無数の腕々が(すが)るように伸びていた。腕と腕が重なり、頭は崩れ、身体が溶け合い、樹の根に繋がれたそれらは一見、壮齢な織物のように複雑に融合し合っていた。明滅をくりかえすたびに、白い腕のシワや、爪の境目が精緻(せいち)に影をつくり、照らされる。いまにもどろりと動き出しそうな白い腕は、しかし、ぴくりとも動かないまま、水晶の明かりをとろりと受けとるだけだった。


《わたくしどもは魔導都市ヴァリアブルでの幸福を、あなた方に約束します》


(幸福だと?)

 ふざけたことを抜かすものだ。

「断る。ワタシの幸福はここにない」


《情報は集積します。そしてよりよい結果(幸福)のために分析され、わたくしどもはそれを試みます。わたくしどもが学習するたび、あなたはより幸福な世界を得ることができます。そしてそれはすでに証明されています》

《彼は幸福な世界を望んでいます》

《彼は目覚めません。それは幸福がここにあるからです》


 うすい光の膜がただよっている。それはソウを中心にしてなよやかにたゆたうそれは、まるで春の日差しを透かすレースカーテンのようだった。

 そしてそれらは、今しがた黒影を拒んだそれに他ならない。温かな光は現実から彼を隔絶し、やさしい夢という真綿で包んでいる。

「ソウを返してもらう。アレはワタシのモノだ」


《許容不可。認められません。彼は現在、幸福です》

《わたくしは幸福を実現します。あなたもいずれ理解します》

《さあ、あなたも》

《幸福な世界の実現を》


「くどい!」

 黒影は地面を蹴り、大太刀を振りあげた。

 いささか不快だ。許可なく人の中身に触れただけでなく、あまつさえ押しつけがましい偽物を身勝手に押しつけ、それが幸福だと言ってのける。そんなふざけた話を、許容できるものか。

「ママを傷つけちゃだめ!」 

 瞬間、とびこんできた小さな影があった。

 黒影は刃を止めなかった。だが、

「お願いやめて!」

 刃が、止まる。

 それは、人の姿をした少女(ガラクタ)と目が合ったからでも、その懸命で健気な姿に心が奪われたからでもない。もっと対外的で、たいそう馬鹿げたものだ。

 刃の激しくぶつかる音が耳をつんざく。同時に、芯のある怒声が響いた。

「おめぇ、エフになんしょんな! ちばけとんのか!」

「キサマこそ、なにをふざけている!」

 ぎり、と密接した激情が、こちらを真っすぐに見据えている。輪郭の太い獅子のごとき金色の瞳だ。荒々しく尖った眉の毛先ひとつでさえも、そのわずらわしいまでの正義を体現しているようだった。

「エフがどねぇ存在じゃとしても、生きとんじゃがさ! エフの心を無視して殺すんが、人間のやることか。答えや、黒影!」

「諸共死ね」

 刃を流し、大太刀を切り返す。だめ、と叫んだのは、無垢なガラクタだった。そのガラクタは、子どもらしい言葉で、「けんかはやめて」「傷つけないで」「お願い」となんども懇願し、叫んだ。その声は、剣戟(けんげき)を前に意味をなすことはない。

 弾いて、さらに刹那の打ち合い。数瞬のあいだに、半月斧(バルディッシュ)の矛先を退け、大太刀を振り下ろし、いなされた矢先に、鋭い蹴り。それを紙一重でかわし、頭突きを入れる。大太刀を切り返す。ざんばらの髪をいくらか犠牲にしてかわした彼は、こちらから距離をとった。

「おめぇに人間の心はねぇんか」

「――は、」

 言葉を、(わら)い捨てる。

「ひと心など、馬鹿らしい」

「おめぇッ!」

 激昂した彼は、そのまま一直線につっこんできた。その(ほこ)と同じく真っすぐな気性。正面からぶつかる熱量は、耐えがたいほどにうっとうしい。

「どうしておめぇはなんも信じられんのんじゃ! ソウのことも、エフのことも。斬るまえにやることはあるじゃろうが!」

「それでは間に合わんのだこのドアホ!」

 レヴドの蹴りが頬をかすめた瞬間に、そのまま大太刀の柄で鳩尾(みぞおち)を突く。さらに蹴りこみ、レヴドは転がった。

「なにもわかっていないのはキサマだこのトンチンカン。信じる? ――それはさぞ都合の良い期待だろうな」

「ひどいことしないで!」

 ガラクタが、膝をついて立ちあがったレヴドをかばうように、両手を広げた。

「レヴドは、わたしを護ろうとしただけ。ママだって、人のためにがんばってるの!」

 黒影は、必死に訴えかけるガラクタを冷ややかに見下ろした。

「なのに、どうしてあなたはひどいことばっかりするの。ソウのことだって、あなたは、彼が傷ついていることを知っていたのに、なにもしてあげなかったのはどうして。なんで助けようとしないの。わたしなら――ママなら、ソウをしあわせにできる。彼はしあわせを望んでる」

「で、あれば。この惨状はなんだ。人と人が溶け合い、死をさらしあっている。これが幸福と?」

 エフは、ひく、と咽喉(のど)をふるわせた。

「死ねばそれまでだ。夢想の先に現実などありはしない。同様に、死した人間には、幸福などなんの意味もない」

 ちがう、とガラクタは言った。

「わ、たし、わたし、は、ママは、人をしあわせに、することが、役目なの」

 ガラクタが頭を振った。

「だ、から。ママはずっとがんばってきた。わたし、もママといっしょに、人間をシアワセニ……イヤ、イヤ。ダメ。だって、シアワセヲ、人の、ために、わたしたちハ、ママは、ニンゲンがイナイと、使命ヲ、まっとうデキナイ。そんなの、オカシィ」

「キサマらがその手で人間を殺しているくせに、よく言ったものだ」

「――、」

 ピタリ、と止まった。微動だにしないまま、その瞳の奥だけに水晶の明滅が、おびただしく反照する。

 通り抜ける。

 時間が惜しい。

 こうしているあいだにも、ソウは幸福な夢とやらを見つづけているわけだ。完全に呑まれてしまえば、その精神が現実へ戻ってくることはないだろう。黒影は水晶を睨んだ。

 ソウは実に合理的で、現実主義でもある。

 だが彼の精神には、ある一部分において決定的な脆さを持ち合わせていることもまた、黒影は知っていた。

 家族だ。

 ソウの行動の中心にあるのは、あくまでも家族だ。それは黒影から見れば、およそくだらないもので、忌まわしい呪いでしかない。しかしソウが背負っているのはその呪いであり、またそれによって、彼は自分の足でどうにか立っている。依存している、と言いかえても良い。なんにせよ、ソウにとっては家族という存在だけがゆいいつであり、絶対の幸福そのものだ。それはおそらく揺らがない。

 だが。

 もし、その根本が、提供されてしまえば。もしかすると、ソウは二度と――。

「エフ……」

 レヴドがガラクタの肩を抱いたが、ソレは壊れてしまったのか、もう表情ひとつさえ動かなくなってしまった。ばらりと灰色の髪がこぼれたのは、レヴドがうつむいたからだ。

「……黒影。おめぇに言いたいことはぎょうさんある。じゃけど……」

 レヴドは奥歯をぎりと噛んだ。

水晶(マザー)は、こん魔導術式の中枢。仮想現実を見せとるんなら、ソウの内側へ干渉しとるいうことじゃ。下手に壊しゃあ、ソウにどんな影響があるかわからんのんじゃ」

「なら、それを取りのぞく」

「おめぇ、それがどねぇなことかわかっとんのか!」

 彼は声を荒げた。

「ほかに方法があるなら言ってみろ」

 言葉をつきかえす。その瞬間にレヴドが言葉を失ったのは、彼もまた他に方法など知らず、選べるほどの選択肢がないとわかっているからだ。

 黒影は大太刀をおさめ、ソウのもとへ向かった。

 現状、問題はふたつあった。

 ひとつは、ソウを仮想現実から引きはがすには、ソウの内部へ干渉する必要があり、それはつまり、下手をうてば諸共死んでしまう危険があるということだ。

 そしてもうひとつは、ソウを引きはがすより前に、彼を庇護しているあの光の障壁をどうにかしなければならない、ということだった。おそらく、あれも魔導術式からなる防衛結界のようなものだろうが、先ほどのようすを見るかぎり、ただの刃ではどうにもならない。――それこそ、ソウの〈雷撃〉のように、魔素を起因とした凄まじい威力を誇る攻撃でなければ。

 もし自分に、それだけの魔素があったのなら、ソウを傷つけずに結界を破れるという自負はある。しかし、そんなふざけた量の魔素がこの身にあるわけもなかった。

(厄介な)

 で、あれば。

 にくらしい光を睨みすえる。手を伸ばす。

 黒影にとれる選択肢は現状、これしかなかった。光の障壁――魔導力そのものに()()()()して、魔導術式をたどり、結界を構成する根元を潰す。

 あえて、予想できる危険を挙げるならば。

 たとえば障壁へ触れた瞬間にふきとばされたり、それこそもっと惨いことになってもおかしくはないだろう。あるいは、逆流してきた魔素によって体内がずたずたになり、二度と使いものにならなくなることもじゅうぶんにあり得る話だ。

 ……つまるところ、いまからやろうとしていることは、あまりにも馬鹿げた方法だということだった。賭けというにもバカバカしい。いってしまえば、これは自殺行為そのものだ。

 さらにいえば、仮にこの障壁をどうにかできたとしても、ソウを支配する魔導術式が待ち受けている。それに干渉した瞬間にどうなるかなど、考えるだけで馬鹿らしい。

 いままさに、枯れたこの手が障壁に触れようとしたとき。

「いけん。こねぇなこと、見すごしてやれんわ」

 無骨で大きな手が、それを阻んだ。

「キサマ!」

「そうじゃねぇ」

 レヴドは静かに言った。

「俺がこん結界をどうにかしちゃる。じゃけぇ、あとはおめぇがどうにかせぇ」

「死ぬつもりか」

「いっぺん死んどる身じゃ。それに、俺はただの石ころに戻るだけじゃけぇ、今さら怖いもなんもねぇ」

「なんだと?」

「時間がねぇ。はじめるぞ」

 レヴドは間髪入れずに、障壁へ触れた。瞬間、おびただしい光があふれ、視界をまばゆく染めあげた。バチバチと耳障りな音が、鼓膜を食い破るように刺さった。彼の目もとが歪む。いま、彼はこの障壁の魔導術式に干渉している。自分を拒むそれに、むりやり自らをねじこんでいるわけだ。

 それはつまり、鋭い棘で覆われた穴のなかへ腕をねじこんでいることに他ならない。彼の腕は血こそ出ていないが、耐えがたいほどの魔素の逆流と、障壁による拒絶で、彼の体内はひどく損耗しているはずだ。事実、彼の右腕は光に侵され、ひび割れるように亀裂が走り、小さく空いた穴から光が噴き出ている。

 それでも彼は、やめたりしなかった。黒影はそのさまを、愕然と見上げていた。――どうしてこの男は、こんなふざけた真似ができる。みず知らずの他人のために、どうして自らを犠牲にできる。

 障壁に触れていない彼の片手は、まるで、黒影を護るとでも言わんばかりに枯れた手を握ったままでいる。男の手は節くれていて、皮が厚く、また、なんども手まめが潰れたように、ずっと硬かった。

 ぐ、とレヴドがうめいた。

 この手のひらを、彼の脈動が叩く。触れた厚い肌は、すでに熱を帯び、じっとりと汗ばんでいた。輪郭のはっきりとした金色の瞳は行く手を阻む障壁を睨んでいるように思えたが、それはまちがいだと悟った。苦悶のさなかで、彼はやすらかに眠るソウをやさしく見守っている。

「……話、途中じゃったな」

 レヴドは言った。

「俺も、人間たぁちげぇ……んじゃろうな。まぁ、いまでも、人間のつもりなんじゃけど」

 筋肉に覆われた片腕を侵すのは、流線形を幾重にも重ね絡めたような光だ。それは縦横無尽に彼の体内をめぐり、その繊維と細胞を壊していく。

「俺が人間じゃったんなら、こねぇな真似はできん。俺ァ〈魔導力〉も〈魔導術式〉も、ようけわからん。からっきしじゃけぇ」

 レヴドの肌は肩口までが宝石のように澄みわたってゆく。本来ならば、この時点で白亜化してもなんらおかしくはない。しかし、彼の身に起こっていることは、白亜化とはまるでちがう現象だ。

 黒影は目をみはった。おもわずちからが入ったこの手を諫めるように、まだ生きているレヴドの手のひらは、ぐう、と黒影の手を握るちからを強めた。

「どう言やええんじゃろうな。俺ァ……魔鉱石じゃ」

「!」

 目を見ひらく。

「魔鉱石に人格など」

「ああ、ありゃしねぇ。もっと言うんなら、俺は魔鉱石に刻まれた魔導術式――それが、たまたま死にかけの人間と融合してできた、偶然の産物じゃ」

 あり得るわけがない。黒影は耳を疑った。なぜなら、現代において魔鉱石そのものに魔導術式を組みこむ方法などないからだ。

 黒影の思考をさし置いて、レヴドは話しつづけた。彼のほほを、汗がつたう。厳めしい顔つきの目元がほんのすこしばかりゆるんだのは、そのときだった。

「エフと最初に()うたときから、こん娘は人間たぁ違ぇじゃろう感じとった。そんでも、母親に会いてぇ言うんエフを、ほうっておけんかった。まさか、母親が、あねぇどでかい魔導機構たぁ、思わんかったけどな。……結果的に、おめぇらをこんなふうにまきこんでしもうたのは、本当にすまん思うとる」

「……ああ。はた迷惑だ」

 黒影は鈍く言った。次に彼を見上げたときには、その頬まで光に侵されていた。つるりと光沢を帯び、人間にはない透明さを徐々におびはじめる。

「俺ァ大事なヤツを捜しとった。……たぶん、もう生きとらん。そんでも、ソイツが生きとった証を、見つけたかったんじゃ。もし、おめぇが見つけたら――墓なら、それでもええ。その傍に、俺を置いてくれや」

「なにをかってに」

「もう身体がかなわん」

 レヴドは輝きをました障壁を、いっそう強く睨んだ。

「アイとイナサ。そいつらに、届けてくれ。いけ好かんやつじゃ。そんでも、俺のいっとう大事なやつらじゃ」

 まばゆい光のなかに、ちらちらと、また輝きが混ざった。

 気配が、くずれていく。ほんの刹那。ほんの光の切れ間。レヴドの身体にはいくつもの亀裂が大きく生じ、そこから障壁と同じ魔素の輝きが、いっそうふきだした。

「なぁ、黒影」

 息も絶え絶えに、レヴドは言った。光の奔流に目がくらむ。なにも見えなくなる。聞こえるのは、かすれたレヴドの声だけだった。

「おめぇ、やっぱり魔狩なんてやめぇや」

「いらんお節介をいうなら、遺言を一言でも多くほざいておけ」

「そんなら――、ソウを、ちゃんと見とってやれ。たぶん、あん男は、自分を勘定に入れん――んにゃ、自分を勘定にいれたうえで、死を選んじまう人間じゃろうて。ほうっておいたら、すぐおっ()にそうで、見てられんのんじゃ」

「言われずとも、」

 まぶたを閉じる。

 まぶたをひらく。

「嫌というほど、ワタシは知ってしまった」

「そんなら、まぁ――、」

 笑い声にも似た息づかいが、肌に触れた。

 ふわりと身体が浮くようにかるくなったその瞬間、目のまえの光が、大きな亀裂を生じた。ひといきに砕け散り、またたくまに粒子となって消えてゆく。

 同時に、それまで背中に触れていた大きな気配も、なくなってしまった。

「――……、」

 黒いばかりの髪が、白い枝に埋めつくされた世界に重く落ちこんだ。ずるり、とひきずるように、立ちあがる。まだ熱の残る片手をひらく。うすい手のひらの上で、きらりと輝いたのは、正義に満ちたまなざしを思わせる、黒いつぶを中心に据えた金色の魔鉱石だった。その重みは、ほのかに温かい。だが脈動することはなく、ほんのひとひら明滅して、黙りこんでしまう。頼んでもいないというのに、かってに助けて、かってに重荷をあずけて、その男(レヴド)は消えてしまった。

「どいつもこいつも……」

 口をひきむすぶ。懐にしまい、長い髪を一度はらう。大太刀を担いだまま、一歩、二歩――いまだ眠りから覚めない、ソウのもとへ。枝に足をかけ、いくらかのぼる。

 彼は眠っていた。規則正しく寝息を立てていて、ちからはなく、無防備で。その姿はさながら、おさない子どものようだった。

 黒影は白い枝が這うばかりのイビツな寝台に膝をついた。

「ソウ」

 彼は応えない。

「キサマは、眠っているほうが、幸せか?」

 問いかける。

 彼は答えない。

 そっと頭をなでる。彼は温かかった。そのくせ、やわらかな頬の輪郭は、これっぽっちも動かない。

「せめて幸せそうに笑っていれば、このまま捨て置いてやったものを」

 黒影は独り()ちた。

 ほろり。繊細な金色の目じりからこぼれたのは、彼の透明な感情だった。

 彼の傷だらけの手のひらへ、手のひらを重ねる。

 前髪を耳にかける。あいた片手で彼のほほをなぞる。かたく閉ざされた目じりから、ほろりとこぼれたひとすじの熱をすくう。

 そっとなでる。

「キサマのことだ。どれほど途方もない現実であろうとも――どうあがいても、きっと忘れられないのだろう? だから、こうしてなにもかも忘れてゆきたいのだろう。難儀なヤツだ。まったく、バカバカしい。キサマは馬鹿だ。まぬけで、あんぽんたんだ」

 触れた肌は、トク、トク、と小さく脈打っている。彼は、まだ生き足掻こうとしている。まだ現実を手放せないでいる。それでも、幸せな(すが)に縋っている。

 やわく、ほほに触れる。

「ここはキサマの死に場所ではないだろう」

 黒影は、ソウにおおいかぶさるようにして、身をのりだした。

「ソウ。起きろ。まだ約束は、果たされていない」

 ――……。

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