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(四)幸福のゆりかご

 さまよっていたのだろうか。

 わからない。

 ここは、どこだろう。

(いったい何が起こってるの)

 ソウはあたりをみまわした。――なにも、ないような。それでいて、悪寒が止まらなかった。なにも見えないのに、視界がぐあんぐあんと激しく揺れているような気がして気持ちが悪い。


――……、


(いま、なにか)


――……、


(声が――、)


「兄貴ってば!」

 大声がつきぬけて、ソウはふりかえった。刹那、視界がひらけ、それまで茫洋としていた世界の何もかもが明瞭になった。

 鼓膜を叩く雑踏。温かいものの、すこし乾いた市街地の風。建物が輪郭を帯びて、空と街をすみ分ける。街角のカフェテリアは、もうずっと前に、母とライ、ソウの三人で、たった一度だけ行った思い出の店だ。オープンテラスでは、婦人の笑い声があがっていた。どれも、どの人も、武器をもたず、土や血に汚れてもいない。

 戦いとは縁遠いその世界に、ライが立っていた。

「どうしたんだよ。ぼうっとして、らしくない」

 輪留めの頭巾(クーフィーヤ)を被ったライが、ぷぅと頬をふくらませて立っている。その瞬間、ソウはライを抱きしめていた。

「わ、わ! 兄貴、どうしたの」

 ライの背丈が、自分(ソウ)をこえたのはいつだっただろう。気がつけば、ライはぐんと背が伸びていて、顔つきもぐっと父さんに近づいた。けれども、ライが子どものようなまなざしで見上げてくるようすばかり覚えているのは、いつも彼が自信なさげに背中を丸めているからだ。

 なにも言わないソウの腕の中で、ライはおろおろと身じろぎをした。

「どうしたの、兄貴。泣いてるの? えっと、おれ、どうすればいい?」

(知ってる。ライはこんなにやさしい。俺だけが知ってる)

「兄貴、大丈夫?」

 声変わりを終えても、話しかただけはいつまでも変わらない。声は父さんに似たけれど、豪快さはなく、ぼそぼそと繊細に話すのが、ライだった。

 ちゃんと、声が聞こえる。温度がある。ライは息をしている。生きている。たしかな現実感が、腕の中にある。

 ソウは、そっと腕をほどいた。

「俺が泣いたのなんて、見たことないでしょ。なんでライが泣きそうになってるのさ」

 に、と笑ってみせると、ライが

「ばかぁ」

 と目じりから大粒の涙をこぼした。

「心配して損したぁ」

「はは、ごめんごめん。ちゃんと、いつも。俺はライの兄ちゃんだよ。これからも、ずっと」

 ふところからハンカチをとりだして、ソウはライの目じりにあてた。

「泣き虫だなぁ。で、ごめん。なんの話してたっけ?」

 ライはおとなしく目じりをぬぐわれながら、ずず、と鼻をすすった。

「だからさ。これから観劇する演目、なにがいいかって話だよ」

 ぷぅと頬を膨らませる弟は、すこし強い口調でいじっぱりをよそおうが、それが涙声であることも、鼻がと目もとが赤くなっているさまも、まるで隠せていない。それがなんとも可愛らしくて、ソウはつい失笑してしまった。

「そんなの、ライが好きなのにすればいいじゃん」

 するとライはさらに怒った。

「もう、せっかくの休みなんだから、家族で観に行こうって言ったじゃん。母さんは音楽劇、父さんは冒険活劇、おれは推理劇。みんなでどれかひとつを観ようって決めてたのに、観たいのがばらばらで困ってるから、じゃあ兄貴が観たいのにしようって、話をしてたんじゃん」

「え……」

 そこでようやく気づいた。ソウとライを温かく見守っているまなざしがあることに。

「ソウ、冒険活劇は男のロマンだ! 冒険活劇を観よう」

「いやそれはどうでもいいけど。って、そうじゃなくて」

 ソウは目をしばたたかせた。

 青。青色だ。空の青色に、ほんのりと灰色をまぜたような色。そのジャケットは、父が休日、街へ出かけるときに必ず袖を通す一着だった。ソウは信じられないような心地でいた。なぜこんな気持ちになるのかがわからないまま、目の前で豪快に笑う父を注視する。レイヤードネックのシャツを着ていても分かる分厚い胸板に、太い首。ライとよく似た、指先でまるく描いたような目じりに包まれているのは、温かみのあるコルク色の瞳。それが、きょとんと丸くなる。

「どうした? ソウ?」

 記憶と寸分たがわない、温かく深い声。

「あなたの幼稚(ようち)さにあきれてるのよ」

「だはー! そりゃまいったね。俺よりソウのほうが大人か!」

 さしこんだ怜悧(れいり)な声に、父は、胸を張るように腰をそって大きく肩を揺らしながら、口を大きくあけ笑い声をあげた。がっしりとした鼻梁をくしゃくしゃにする破顔は、まるで、顔のぜんぶを中心に集めてこねたようで、ソウはこの表情を見るのが、むかしからずっと好きだった。

 それをあきれた表情で見ているのは、ライと同じように輪留めの頭巾(クーフィーヤ)をまとった母の横顔だ。頭巾はギンヨウアカシアの花の柄。憂国の春の風習にならって、父が贈った一枚で――、

「ソウはなにが観たい?」

 ギンヨウアカシアが風にゆれるように、布地がひらりとたゆたった。絹のようにさらりとした細い髪が、陽ざしを透かして熱をつつむ。ああ、覚えている。知っている。父さんがとなりにいるときだけ、母さんはこんなふうに、不安も憂いもなく、うんと幸せそうに笑うんだ。

「ほら、兄貴。チケット買わなきゃなんだから、早く」

「やっぱ冒険活劇だよな?」

「「ちょっと黙って」」

 母とライが声を合わせてつきかえした。

「押し売りしないで」

「兄貴が言えなくなるでしょ」

「もうすこし考えて発言なさってください」

「いっそ、父さん一人で観てきなよ」

 矢継早にたたみかけられた父は、大きな肩を内側に巻くように縮こまって、涙目をこちらに向けてきた。

「ソウ……。ライとソラさんが、ひどいんだ」

「いや、うん……まぁ……。っふふ、あはははっ」

 笑うことを我慢できなかった。

「笑いごとじゃないぞ~」

 父さんが頬をぷぅとふくらませる。

「ほんと、父さんのその顔、ライとそっくり」

「いっしょにすんなよ」

 ライがふてくされて言うが、父とおなじしぐさをしていることに、どうも気づいていないらしい。

「なんでしぐさまでそんなにそっくりなの。だって二人は二年しかいっしょに――、」

 ソウはぴたりと言葉を止めた。歩きはじめた三人の背中を見つめる。魚の小骨がのどに刺さってしまったときのようなちいさな違和感が、ソウの足を留めた。

(なんだっけ)

 ソウはクセのように左腕をさげ、腰元に手を伸ばしたが、そこにはなにもなかった。いつもあるはずのものが足りない気がして、ますます首をかしげたが、目の前で三人が笑っている姿を見ると、そんなことはどうでもいいように思えてしまった。

(せっかく、家族そろっての休日なんだから)

 ソウは、どうしたのと訊ねるライへ、なんでもないよ、と答えて、かけよった。

 だって、いま目の前(ここ)に、いつか見た幸せのつづきがあるのだから。

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