(三)妖魔
翌朝、ソウたちは地上を目指して移動をはじめた。レヴドの厚意に甘えたほうがいいだろうと判断したからだ。黒影はうなずかなかったものの、だからといって、反対を口にすることもなかった。
バリアブルに訪れてから、黒影の口数はずいぶん減ってしまった。――まるで、はじめて会ったときのようだ。二人を警戒しているのか、それとも、単純に人ぎらいなだけか。ソウの知るところではなかったが、黒いまなざしは、しばしばレヴドとエフを睨んでいた。このことを気にかけて、ソウはときおり声をかけてみたがほとんど無視されてしまい、けっきょくのところ、会話は肩すかしで終わってしまった。
相反して、よくしゃべったのはエフだった。彼女はこれまでの旅を聞かせてくれた。やさしい人に出会ったこと。悲しそうにしている人と言葉を交わしたこと。怒っている人が、とても苦しそうに見えたこと。楽しそうに笑っている人たちと、いっしょに遊んだこと。――彼女が話題にすることの中心には、どれも人がいる。
エフのめざましい変化について、ソウは内心、とても感心していた。きっとこれまでのあいだに、レヴドとのかかわりを通して、なにかしら変化や成長があったのだろう。子どもの成長はあっというまだ。
エフは明るくしゃべった。
「でね、わたし、訊かれたの。だからね、ママみたいになりたいって答えたの」
「ママはどんな人なの?」ソウは訊ねた。
「あのね、ママは、みんなをしあわせにするの。みんな、笑ってくれるんだよ」
「それが、お母さんのお仕事?」
「うん。だからね、ソウにも会ってほしい」
ソウはほほえみをかえした。
「会うのが楽しみだね」
「うん!」
エフはいっそう嬉しそうに、ほほを赤らめた。
しばらくのあいだ、四人は無機質な通路を進みつづけた。つるりと人工的な内部は、いつしか遠くから見たような朽ちた巨塔の重厚な外観とは似ても似つかない。ほこりっぽさや土の匂いはなく、清潔な印象で、内部はしんと冷えている。動植物の気配や、魔獣らが住処にしているようなようすもみられない。黒影は依然として不快そうにしていたが、ソウは一晩ぐっすり寝たからか、すっかり調子がよく、快活そのものだった。
「おい」
黒影が低い声で、呼びとめてきた。ソウが視線を向けると、彼女は白い眉間に、いっそう深くシワを刻んだまま、「道を変えろ」と言った。
「どうして?」
「瘴素が濃くなっている」
「ならこっちじゃ」
前を歩いていたレヴドは、横の細い通路を示した。人がやっとすれ違えるくらいの幅で、天井もこれまでよりやや低い。黒影やレヴドの武器が通るていどの高さはあるが――ここで戦うのは、難しいだろう。
「入り組んどるけぇ、はぐれんようについて来られ」
言いながら、彼は視線をわずかに下げた。ててて、とかるい足音がすぐついていく。レヴドは、無骨で粗暴な態度よりもずっと、エフのことを気にかけているらしかった。
おもむろに、ソウは訊ねた。
「ねぇ、レヴドが捜してる人って、どんなひと?」
「でぇれぇムカつくやつじゃ」
レヴドはふりむかないまま答えた。
「いつもへらへら笑いよって。……頭がええんか知らんが、大事なことひとつも言わんで、はぐらかすばぁしよって」
「大事なひとなの?」
「……向こうがどう思っとんか、知らんけどな」
入り組んだ細い通路に入ってすこし経ったころに、異変は起こった。まず黒影がわずかに顔をあげた。視線を左右に振ると、その場に伏せ片耳を地面につける。
「数は複数。これは人間か……?」
黒影が眉根を寄せた。
「否!」
彼女がばっと身体を起こしたその時。通路の扉のひとつに穴が空き、メキメキと折るように真っ白な手がいくつもとびだした。
「妖魔だ!」
黒影の低い声に反応するように、白いそれらはぞろぞろと穴から這いでては、のろまに立ちあがった。それらは、それぞれ一対の腕をもつ二足歩行の人型で、しかし、奇妙なことに全身は白く、溶けだした蝋のようなただれた肌をしていた。ぎ、ぎぃと節々を軋ませながら、どろどろと足をすべらせる。それらは、白い顔面が、ぐぁとひらいたかと思うと、咽喉を轢き潰したような音をどろりとこぼした。不可解な音階だった。そのうちのいくつかは、地面をするほど伸びきってしまった腕を引きつらせ、あるいは壁に頭をすりながら、ずるずるとこちらへ近づき、どう、とおし寄せてきた。
「ここじゃ長物で戦えん! こっちじゃ!」
ひとつ、蹴りもどしたレヴドは、交差する別の通路を示してとびこんだ。黒影、エフもまたそれに続き、ソウは、その瞬間に襲ってきた白い腕をかわした。妖魔の腕はそのまま壁にぶつかると、生肉を叩きつける音よりも、もっとねっとりとした音をたてておし潰れた。しかし、それはすぐに落ちくぼんだ真っ白な双眸をこちらに向けた――ような気がした。折れた腕を皮だけで引きずりながら、温めたチーズのようにただれた脚が一歩、ずるりともちあがる。
(妖魔を見るのは初めてだけど――、痛覚がないのかな)
不合理に上半身を揺らしながら迫ってくるそれらを背に、ソウもまた脇の通路にとびこんだ。先を走る三人の背を追いかけながら、同時に、頭の中でこの道がつながる場所――昨晩、レヴドが見せてくれた地図――をひらき、道順をたどる。つきあたりあたりを右に。そこをまっすぐに進み、交差路を二つ超えると、階段があるはずだ。
案の定、レヴドは階段へ向かっているらしかった。すこし遅れながらも、レヴドと黒影を追うのは、エフだ。交差路をひとつ超えたところで、ソウは、エフに追いついた。瞬間、もうひとつ先の交差路に、無数の白。エフの足が止まる。
(まずい)
刹那の逡巡。このままでは挟まれてしまう。この通路では、魔導武具を抜いて戦うこともままならない。それも、まだ幼い子どもを護りながら、なんて。それこそ、数に負けるのは明白で、雷撃を使おうものならもろともおさらばだ。
ソウは、ごめん、と言いながらとっさにエフを抱きかかえた。
「レヴド! 迂回して階段に向かう!」
それだけ言って、後方の交差路に戻り、左の通路へとびこんだ。エフが小さく叫んだ。レヴドの声も、すぐに聞こえなくなった。
白い足音がどこまでも追ってくる。ソウは覚えているかぎりの順路を組み立てて、たどっていった。しかし、そのことごとくが、白い軍団に阻まれる。それらはそれぞれ身体を折りつぶしあいながらも、まるで人間が知人に会ったときのようにして、ごく自然に腕をあげ、「あ゙ア゙」とそれぞれに顔面から音を漏らしてみせた。もちあげられた腕は、鈍い音とともに、ねじれた関節をゆらし、そしてすぐに寄ってくる。
(どこから湧いてくるんだ!)
ソウはふいにとびだしてきた一体を前に、太腿の武器携帯用革鞘からナイフを引きぬき、その喉元をかききった。なめらかに刃が滑り、一瞬、かたい骨に擦れる感触が手のひらについた。そのまま斬り流し、手もとを濡らした水気をひと振り。赤い点描が、つくりものの壁に生物の軌跡を描き、そのうちいくらかはつぅと垂れこめた。
エフを抱きかかえたまま、ソウはすぐにまた走った。護らなければいけない、という思いにかられてしまったのは、不安げにしがみつくこの小さな手が、ライを思いださせたからだ。とうぜん、エフは弟ではない。
あくまでも自分の目的は、一刻も早く、そして無事に故郷へ帰ることだ。――魔幽大陸へこの身一つで投げだされてから、今日この瞬間まで。時間が経つほど、ソウはライの安否が気にかかるようになり、すぐに戻れないという事実も、日増しに募る焦燥も、だんだんと大きく広がっていた。やがて、無自覚がひそかな自覚へと変わるほどには、内在していた余裕を着々と蝕み、それがひどく神経をとがらせ、摩耗しつつあった。ライは今どうしているだろう。誰かにいじめられていないだろうか。泣いたりしていないだろうか。ご飯は食べているだろうか。
まだ、自分を必要としてくれているだろうか。
ソウはゆく手を阻む白の首元に、刃を押しつけた。壁に打ちつけるように、ねじこむと、いくらかじたばたと喚いた白い手足は、なんどもビクビクと痙攣して、そのうちに、ぶつり、と動かなくなる。どくどくと滴る色を横目に、また、走る。
(だから、こんなところで道草をくっている時間はない)
白。また白だ。かわして、避けて、逃げて、殺して、また白。白を殺しながら、考える。
(じゃあ、なんで俺は、こんなところにいる?)
(それは、俺がとびこんでしまったからだ)
(バカみたいに、あの夕暮れで手を伸ばしてしまったからだ)
赤色が散るたびに、あの夕暮れを後悔してやろうと思ったが、あの咆哮ほとばしる熱が、内側を灼くように、この指先まで鼓動する。あのとき黒影の手をとったことに、今ここで難癖をつけてやろうとしているのに、それができないでいる。
右に左に。しばらく走り続けたところで、ようやくおびただしい気配から離れ、ソウは息をきらしながら、物陰に背をあずけた。熱い。咽喉がひりつく。水がほしい。ドクドクと血をめぐらせる身体をなだめるようになんども呼吸をくりかえす。周囲の気配を探り続けた。先ほどのように多くはないが、まだ、ちらほらと湿気た重ぐるしい気配が徘徊している。
「ソウ……」
りん、と鈴の音が聴こえて――ようやく、ソウはエフを抱きかかえたままでいることを思いだした。彼女は、心配そうにこちらを見あげていた。
「ごめん。怖かったよね。レヴドともはぐれちゃって」
エメラルドグリーンの瞳に、ソウはほほをやわらかく、目じりをゆるめてみせた。
「すぐ会えるように、頑張るから。もうすこしだけ応援してくれる?」
しかしエフは、ふるふると首を振った。うつむいてしまった彼女をまえに、どうしたものか、とソウは熱気から冷めてきた思考で考える。口をついて出たのは、まだライが幼いころ、ソウが口癖のようにいっていた言葉だった。
「――大丈夫。俺がいるよ」
レヴドの代わりには、なれないけど。
ふと、エフが視線をあげた。
「そばに、いてくれるの?」
「あたりまえだよ。こんなところに、ひとり置いていくなんてできない」
ソウはほほ笑んだ。
瞬間。
《承認しました》
反響した、声。なめらかな肉声のようでありながら、単調さを否めない無機質な音だった。
「いま、なにか」
まばたきをしたとき、ソウの首元へ大きくエフが抱きついた。
「うれしい。うれしい。うれしい。ずっといっしょにいて。そばにいて。そうしてくれたら、わたしはずっとそばにいられるよ」
ザァ、と血の気が引いて、急激に寒さがにじむ。
ソウはとっさに彼女をつきとばしそうになったのを、どうにか留めた。
「ま、まって。急にどうしたの」
「はじめてあったときから、ずっと、ソウのことをたすけなきゃって、おもってたの。こんなにつらそうで、くるしそうで。だから――、」
「エフ。なんの話をしているの? 君はいったい」
エメラルドグリーンの双眸は、いつになく爛々と輝いていた。彼女のまなざしは、疑いようもない正義にあふれている。
「ソウがいっしょにいてくれるなら、わたしもママも、ぜったいに、ソウをしあわせにできるよ!」
「待って、俺は、」
ブツン。
それまではっきりと聞こえていた声も、音も、なにもかもが乱暴に途切れた。目が眩む。白いからなのか、明るいからなのかはわからなかった。最後に聞こえたのは、《ようこそ。ここは――、》という、だれのものともわからない、どこか遠くて、けれど頭のなかを直接なぐられたような、肉薄した音だった。




