(三)彼
《ああ、まったく。まったくの油断です》
彼はひとごみを足早に抜けながら、ひとりごちた。
《記憶が触発される可能性はじゅうぶんにある、ということはわかっていました。であれば、やはり最初からなにか理由をつけて回避したほうがよかったのか――しかし、それもまた不自然でしょうか。
すでに黒影ちゃんは勘づいている。あの子は非常に聡いから、下手な動きをすればどうなるかわかりません。さすがにいきなり首をとばされたりはしない……と思いたいのですが。不意打ちされれば、なすすべがありません。もちろん、ソウくんだってにぶいわけではない。ただ、他人にそこまで興味がないからいいのですよ。あの子は俺を、利用してくれるでしょうから。その保護下にあるかぎり、命の保証は、彼にとって有益な範囲で、いくらかされるわけで》
屋外に出て、周辺を一瞥する。記憶を探りながら、人がすくないほうへ。
迷うことはない。なぜなら、すべて覚えているからだ。
《とはいえ、けっして愚かではない。ソウくんが俺に気づくのも、時間の問題でしょうね》
たどりついた場所は、記憶と寸分たがわない小さな休息所だった。
否、ちがう部分はいくらかあった。たとえば、樹が大きく伸びていて、枝ぶりもたくましくなっているとか、外観のくたびれた具合であったり、あるいは以前そこになかったテーブルが設えられたりしていることなどだ。
ちかくに人の気配がないことを確認してから、長椅子のひとつに、どっと腰かける。ああ、と大きくため息をつく。肩をおとす。
「こまった――いえ、言うほどこまっているわけではないのですが」
三つ編みに触れる。と、すこしからまっている部分があることに気がついた。
きっと、ナギがうっかりしていたのだろう。ナギはこういう細かなところに気がつかない。そういう、おおらかな性質をもっているからだ。あっけらかんとして朗らか。善性を信じ、情にもろく、すぐに泣く。
彼は、髪留めをとると、からまっていたところまで三つ編みをひらいた。それを指先でほどこうとして、手をとめる。やっぱり、やめることにした。気づかないことにしたほうが、ナギらしいだろうと考えたからだ。からまったところをそのままに、また三つ編みをつくりなおして、髪留めをとめる。
彼はまぶたを閉じ、しばらくのあいだ、じっと黙っていた。
夕暮れの冷えた風が頬をなでる。肌が冷えたころに、ようやく、彼はうなるように眉根を寄せた。
「うーん、だめです」
思案。くせのように三つ編みをいくらかなでて、ほいとなげる。まぶたをひらき、そのままがっくりとうなだれた。
「合流するまでに俺を起こしたかったのですが、それでは記憶の処理がどうもまにあいそうにない。こまりました。また、俺が俺のふりをしなければいけません。面倒くさいこと、このうえないじゃないですかぁ。俺はそういう仕様じゃないんですよ、んもう」
頬杖をついて、半眼のまま空を見つめる。彼はまた、ため息を重ねた。
「もういっそどっか行っちゃいましょうかねぇ」
面倒くさいし、とぼやいて。
「なんて、まぁそれもまたそれで面倒ではあるのですか」
苦笑。
「さて、」
左耳のピアスに触れながら、また思案。
「ひとまずあと半日は俺がうけもつわけですが――おや?」
ふと、空を見上げたとき、
暮れの空を横切った、大きな影があった。それは両翼をもち、長い尾をたずさえ、ばさり、ばさりと、羽音を立てる――大きな魔竜だった。
「あれはまたずいぶんと大きい。いやぁめずらしいですねぇ」
けらけらと笑い声をあげて、数秒。
「笑ってる場合じゃないですね⁉」
大声をあげて立ちあがった。つまずきながらも、いそいでかけだす。
「この方角は――まずい」
魔竜はドリミアルの中枢――中央制御塔へ、真っすぐに向かっている。




