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(八)奇妙な夢

 この夢を見るようになったのは、母が亡くなってからだ。

 過去の光景でもなければ、願望とも言いにくい。見まがうほどの現実味はないけれど、自分のなかにある記憶やものの印象が基盤となってつくられているのだろうとわかる部分がいくつもある。


 なだらかな丘陵地帯の中に、ぽつんと建っている小さな家。

 二階建ての納屋を人が住めるように改築したそこには、ソウが、ライと二人で過ごしてきた十三年あまりが詰まっている。

 一階にはソウが毎日立っているキッチンがあり、使い勝手が良いように整えられていて、カウンターの先には、元々この家にあったリビングテーブル。四人掛けだが、いつも二人しか座らない。薪ストーブは寒い冬を越える必需品だ。使い古したソファは、たいていライがだらりと寝転びながら雑誌を読んでいて、ローテーブルの向こうには、すぐ庭に出られるような大きな掃きだし窓がある。

 春になると、庭先でギンヨウアカシアが風に揺れるから、休みの日に家の掃除をしながら、たまに眺めるのがなんとなく染みついた習慣でもあった。

 家には階段がふたつある。ひとつは二階へ上がるためのもので、上にはソウやライの寝室がある。もうひとつはキッチンの勝手口から家の裏へ出たところにある、地下へ降りる石畳の階段だ。貯蔵庫には、近所の人がくれたワインなどを保管していて、いつもひんやりと、やわらかな冷気を閉じこめていた。

 夢の中で、ソウは決まって石畳の階段を降りている。ひと一人が通れるだけの階段で、現実なら十数段下りるだけでじゅうぶんに扉へ行ける。しかし、夢のなかでは、奇妙なことにうんと長い。下っていくうちに、あたりはどんどん暗くなって、まるで滝の底から寒さが這い出てきたような冷気が足もとに触れはじめる。そのうちに肩まで冷えきってしまう。

 白い息も見えない暗がりで、壁を頼りに地下室の扉をさがした。

 ようやく見つけた扉をひらく。と、灯りがこぼれた。ソウはあわてて駆けこんで、その光を小さな箱へ戻す。鍵を閉めて、うっかりまたひらいてしまわないか、ゆがんで隙間が空いていないか、光が漏れるような穴がないかとじゅうぶん過ぎるほど、なんどもなんども確認してから棚へ戻す。たまに不安になって、また戻っては再三確認したりもする。

 真っ暗な地下室には、沈黙を守る小箱が、無数にならんでいた。それらはすべて、ソウがていねいに光をとじこめて、保管しているものだった。

 ぼう、と光が浮き出ると、ソウはまた箱へ戻しては、確認して棚へ置くことをくりかえした。何回も、何回も、くりかえす。光をいそいで箱へ入れて、閉じる。こぼれないように、溢れないように、どこかへ逃げてしまわないように蓋を閉じて、ていねいに鍵をかける。そうしないと、どこからか懐かしい声が聴こえてくるからだ。温かさが触れるからだ。だから、必死に箱へ閉じこめる。大事に。大切に。そうしないと、きっと壊れてしまう。壊されてしまう。


 光がぜんぶなくなると、地下室はすっかり暗くなった。ソウは自分の手のひらをいくらか動かした。それすらも見えない暗闇だとわかって、ようやく、安堵の息をこぼしながらうずくまる。だれも見ていない。だれの声も聞こえない。自分の声も聞こえない。顔も、手のひらも見えない。

 たった、一人。

 なにも見えず、なにも聞こえない暗闇のなかでなければ、立ち止まることが許されなかった。ひとたび光に照らされてしまえば、自分はソウという人間として、あるいは優しい兄として、あるいは頼れる先輩として、あるいは、あるいは、あるいは――……。そんなふうに、ふるまわなければいけない。笑い声が聴こえれば、たいしてふるえない心がかすかに覚えている「情」のカタチを見よう見まねで作って、共鳴させる。

 誰かが悲しい顔をしていれば、かつて母がしてくれたように、そっとよりそって話を聴く。頑張ったね、それは辛いね。なんて、ソウの中ではすでに形骸化してしまった無意味な言葉を、さぞ、いっしょに心を痛めているというふうに口から吐きながら、目の前の人間の、涙を溜めた目じりを淡々と眺めたりする。

 気持ちが悪い。

 ソウは長く息をこぼした。真っ暗なら、こんな自分の姿を認識しなくていい。いちいち他人を気にしなくていい。――だから、もうしばらく、このままで。

 夢のなかで、どれくらいそうしているかはわからないが、そのうちに、遠くから弟の声が聴こえてくると、ソウはようやく立ちあがって、日常に戻る。


――そんな、奇妙な夢だ。


 しかし、どうしてか今日はちがった。

 気配がした。

 匂いがする。温かな日差しを浴びたようでいて、どこか清涼感のある香りに、ソウは思わずふり向いた。


――黒影、どうして。


 彼女は黙って立っているだけで、なにも言おうとはしなかった。ただ、すこしだけ眉間にシワをよせている。


――りん、りん、りん。


 ソウはまた、ふり向いた。鈴の音が聴こえたからだ。地下室のいちばん奥に、ぼうと灯りが浮かんでいる。その灯りはふわふわと浮かび、明滅しながら輪郭を描き、いつも腰元に提げている猫の面に変わる。一瞬、ソウは息をとめた。足がすくんで動かなくなりそうだった。けれど、無理やりに動かして、すぐに駆けよった。


――ソウ、お前なら大丈夫だ。


 父さんの声が聴こえる。


――お願い。


 母さんの声が聴こえる。


――兄貴、早く帰ってきてね。


 (ライ)の声が、聴こえる。

 いそいでお面を手に取って、腰元に結ぼうとする。大丈夫。大丈夫だよ、と声にする。だが慌てたせいだろうか。うまく結べない。大丈夫。毎日やっていることで、なんら難しいことはなくて、だから、おちついてやればできる。大丈夫、大丈夫だ。おかしくなんてない。大丈夫。できる。大丈夫。


――ソウ。


(大丈夫)


――ソウ。


(できる)


――兄貴。


(大丈夫だから)

 声が反響する。ぐるぐるとまわって、とりかこむようにあちこちから聞こえる。いくつも重なって、曖昧になっていくのに、自分を呼ぶ声だけ、明瞭に聞こえる。もちろん、だれが何を望んでいるのかだって、簡単にわかる。それに応えればいいだけ。できなければ、変えていけばいい。簡単な話だ。

 なのに、吐き気がする。


ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。

ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。

ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。


 暗闇が押しのけられて、めいっぱいの光で満たされる。そこは、明るくて、平和な場所だ。ふと足元を見つめると、自分の影だけが、どこにもなかった。


ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。

ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。

ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。


ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ、ソウ――――……。


 返事をしなければいけない。笑みをかえさなければいけない。応えなければいけない。どれから? 優先順位は? はやくしなきゃ。ああ、ちゃんと笑えているだろうか。笑みのかたちはこれでいいんだっけ。うなずくタイミングはこれであっているはずだ。いつも通り。はやく。はやくはやく。

 足が、すくむ。

 声が出ない。

 正しい、はわかっている。

 正解だって、わかる。

 なのにどうして。


――俺が、わからなくなっていく。


「……ソウ」

 夜の波間のような声が、真っすぐに届いた。彼女はいつのまにか、だれよりもずっと近くにいた。二人の影は重なっている。

 黒影はソウの手首をにぎっていて、触れた肌から彼女の温度がやわく伝わってくる。彼女は温かかった。ぶるぶると情けなくふるえているのは、自分の手だった。

 そして、気づく。

 この手は、なによりも大切なはずの形見を振りあげている。今まさに、石畳へ叩きつけようとさえしていた。

(俺は、なにをしようと、して)

 愕然と目を見ひらく。膝がわなないた。息つぎがうまくできなくて、苦しくなって、身体から力が抜けていく。指先は冷えきっていた。ふるえているのは、きっとそのせいだ。

「は、はは、……なんだよ。これ。なんで、俺」

 手もとからすべり落ちたお面が、りんと鳴く。 

「ちがう。ちがうんだ」ソウは否定した。「きらいなわけじゃない。いやなわけじゃない。守りたいんだ。だからそのために生きてて、だから、ちがうんだ」

 ずっとずっと、聴こえている。

 誰かが自分を呼ぶ声。

 誰かが期待する声。

 鈴の音。

 もう一度、鈴の音。

 今度は目のまえで、明瞭に響いた。さしだされた猫面は、黒影の手にあった。

 彼女の瞳は、なにも映していないような、ただただ真っ黒な瞳だった。


――ああ、そっか。


 彼女とは、ただ殺しあいをするためだけに、繋がれている関係に過ぎない。

 なぐさめの言葉もなければ、情愛もない。家族にも恋人にもなれず、けれど、友人というにはあまりにも折り合いが悪い。きっと、仲間にだってなれないだろう。つまりそれは、彼女にとっても、自分にとっても。相手がどんな人間で、どうあろうとも、なにも関係ないということで――、

(それで、いいんだ)

 ソウは傷だらけの手をつなぐように、そっと重ねた。

 お面を受けとって、いつも通りベルトループへ結ぶ。今度はちゃんと結べた。大丈夫だ。――いつもどおり、また歩ける。

 ソウは顔をあげた。ありがとう、といいかけて、

(あれ……)

 二、三度まばたきをする。黒影が、いつもとなにかちがう気がしたからだ。

(黒影って、こんな顔してたっけ)

 目のまえにいる彼女は、いつもどおり片手を腰にあてて、斜にかまえたような立ちかたをしている。くちはへの字に曲げていて、眉間にシワが寄っている。しかし、不機嫌そうというよりも、もっとちがうような――。

 片方だけ、眉頭が上がっている。もしかして、なにかこまっているのだろうか。だとしたら、いったいなにに。面倒ごとは斬り捨てればいいと言わんばかりの彼女が、いったいなににこまるというのだろう。

 すると、黒影のくちもとが、わずかにうごいた。


 あ ん ぽ ん た ん 。



 ***



「あんぽんたん……?」

 広い寝台の上で、ソウはおもむろに目を覚ました。悪趣味なシャンデリアが輝いていることをのぞけば、室内は暗い。――まだ夜中、だろうか。

 ソウはぼうとかすむ視界に青白い横顔が浮きあがっていることに気がついた。すぐに黒影だとわかったから、いまさらおどろくこともない。気配に気づいたのか、彼女は寝台に腰かけたままこちらを一瞥(いちべつ)して、またすぐに興味を失ったように視線を戻した。彼女の手元にはマヌーゲルで買った本が正しく開かれている。めずらしい、と思ったのは、彼女が大太刀を抱えていないことだった。

 暗い部屋の隅にぽつんと置かれた椅子の上。そこには、黒影が使っていたのだろう毛布が中途半端に置かれたまま、壁際に大太刀が立てかけてある。

 はらり。めくられる紙にそえられた彼女の指先を、ソウはしばらく眺めていた。背筋はすぅと伸びたまま、膝元に視線を落とす切れ長の黒。音のないかすかな身じろぎをしたときに、彼女の前髪がこぼれる。それをなにごともなく耳にかけて、長い髪のひとふさをクセのように背中へ流すと、その身体の線にしたがって、すとん、と寝台へおちる。

 彼女を眺めているのは、どうしてか有意義に思えた。黒いまなざしが本の文字を追う。薄い身体が呼吸をする。書物をめくる音だけが、この天涯のなかに響く。

「なんだ」

 彼女は視線を落としたまま、声だけをよこした。

 ソウは横髪を耳にかけた。

「いや。その本、どんな内容かなって」

「……じつに馬鹿げた話だ」

 興が削がれた、とでも言うように、彼女は本を閉じる。

「ぜんぶ読めたの?」

「キサマ、物語に興味などあったか?」

「ないよ」

 端的に返すと、黒影の眉間にますますシワが寄った。

「本は勉強以外で読んだことないし。あ、でも新聞とか、ライが読めって言った雑誌とかは目を通すかな。ライはさ、おんなじ話題をおなじ目線で共有したいって言うんだ。俺がたまにそっけない態度をとってみると、すぐに拗ねて『だから恋人ができないんだ』って、決まったようにまくしたてる。じゃあそれを改善すれば恋人できるかな、って返したら、すごく不安そうな顔をする。なんだかかわいいだろ? そういうの」

「気色悪いぞ、キサマ」

「かもね」

 さらりと流して、ソウは身体を寄せ、黒影の手元をのぞきこんだ。

「って、いうか、小説なんだね。それ」

 羅列する言葉はやはり、魔幽(まゆう)大陸独特のもので、見ただけではなにもわからない。

「なんか意外だな。黒影って小説も読むんだ。どんな話が好きなの? 今までに読んだなかで面白かった本の話とか聞かせてよ」

「矢継早に。なんなんだキサマは」彼女はめずらしく、とまどっているらしかった。

「ただの日常会話だけど」

 黒影は眉間のシワを深くしたまま「気色が悪い」と引き気味に言った。

「え、なんで」

 今度はソウがとまどう番だった。いつもなら心底不快そうに罵倒してくるはずの黒影が、なぜ引いているのかわからない。あらためて理由を訊ねようと口をひらきかけたところで、どこからともなく音楽が流れはじめる。響いた音に、二人の興味は窓外へひきつけられた。

 黒影は視線を向け、ソウは寝台を降り、窓際へ寄った。どうやら、街頭の音響装置から、音楽放送が始まったらしい。やわらかな弦の音が、まだ暗い街へ音を伸ばし、ほろんほろんと窓をたたいてゆく。そのうちに、建物にほろほろと明かりが灯り、街の気配が動き始めた。ソウはサイドテーブルに置いていた懐中時計をひらいた。――朝の七時だ。

 そこでようやく、ソウは、ドリミアルの夜明けは遅いとナギが得意げに話していたことを思いだした。それはこの都市が、大きな窪地の、それも(うろ)の中にあるからだ。朝を告げるのは、日の出ではなく、毎日きまって流れる音楽放送で、それらは街角の音響装置や、各家庭の放送機器を通じて人々の暮らしに届いているらしい。

 さらによく観察してみると、昨晩とちがって、街路のぎらついた魔鉱看板の明かりはすっかり眠り、閑散とした路地をしっとりと見守る魔鉱灯は色彩を規則正しく統一していた。もちろん、空に〈魔鉱航路(マナ・レール)〉があることは変わらないが、これだけでも印象はずいぶんちがって見える。

「おはようございますぅ。おや、ソウくん。お早いですねぇ」

 間延びした声に、ソウはふりむいた。

「おはよう、ナギさん」

 ソウは笑みをかえした。ふと黒影を見やると、彼女はもう壁ぎわの椅子に戻っていて、大太刀を抱え、まぶたを閉じていた。おもむろに、ソウは自分が寝ているあいだになにか夢を見ていたことを思いだしたものの、それがなんだったのかまでは、もう思いだせなかった。

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