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(六)ハッカ飴

「どうぞ」

「ナギさん、ありがとう」

 ハンカチを受けとったソウは、ベンチに横たわる黒影の前髪をそっとはらった。ひたいに手をあてる。

「ちょっと冷たいからね」

 湿ったハンカチをのせるが、黒影はわずかに眉間のシワを深くしただけだ。

「黒影ちゃん、ごめんなさい。ナギ、苦手だって知らなくて……」

 しゃがみこんだナギ。心配そうに顔を覗くも、黒影はやはり、どうにも口をひらかない。ナギは眉じりを下げたまま、こちらを見あげた。

 見かねたソウは、苦笑を浮かべながら、

「ナギさん。なにか、お昼ご飯お願いしてもいい?」

 お腹へっちゃってさ。おおげさにお腹をさすってみせる。

 ナギはすこし迷ったように沈黙していたが、ややあって、うなずいてくれた。

「なにか食べたいものはありますか?」

「かるいものがいいかな」

「わかりました」

 背中を見送って、ひといき。

 ソウは露店で購入したばかりの水に口をつけた。咽喉(のど)を潤しながら、横たわる黒影を見やる。彼女はうすいまぶたを閉ざしたままでいた。さきほどのナギに対する反応を見るかぎり本当に具合が悪いのだろう。……おそらく、まともに返事をすることもできないくらいには。

(けど、まさか頼ってくるなんて。意外)

 本人には、きっとそういった意図はないだろうが。黒影のほほにかかっている髪をそっとはらって、ソウはまた視線を外した。じっと見つめていると、視線がわずらわしいだのなんだのと言われかねない。――もっとも、いまの彼女に、そんな元気はなさそうだが。

 思うに。

 ソウはふと、往来を眺めた。昼時を過ぎて、また遊興を求めて外へくりだした人々の多くは、さんさんと降り注ぐ太陽を喜んで受け入れ、その光を瞳に輝かせては、また新しい刺激と興奮に身を投じようとしていている。片手に持った園内の地図にはいくつかの丸印がつけられ、興奮気味にそれらを見つめてから行くべき場所へつま先を向ける。あるいは露店を指さして、甘いクリームをたっぷりと乗せたデザートを前にくちびるを湿らせたり、子どもが親の手をひっぱりながら興味の先へかけ出したりと、ほうぼうにある刺激を楽しんでいるらしかった。

 そして、それらに絶え間なく与えられているのは、この一帯を満たす楽団の実に豊かな音色だ。どこもかしこも音が鳴り、人の声が響き、興奮が満たしきった夢の世界。

 誰かが、手放したのだろうか。遠い空の上で、ひとつ。風船が割れた。

 思うに、黒影という人間はこれらの状況の変化を微細に感じとっている。

 ソウが思っていたよりもずっと、彼女がひどく過敏な性質だということも……朝から晩まで、これだけ日柄を重ねてくれば、いくら個人に興味のないソウでもさすがにわかってくるものはある。過敏だということは、どのようなものでも感じ取ってしまうということだ。感受性が強いと言いかえてもいい。さらに言えば、疲労しているとさらに過敏に反応してしまうことは少なくない。そういった過敏さや警戒心は、本能に根ざした防御反応でもあるからだ。

 つまり。

 ソウは携帯用のボトルを置いた。可能性として、ソウのなにげない気遣いやナギの憂いが、悪い言いかたをすると黒影の負担になっているかもしれない、ということだ。もっとも、黒影の本心はソウの知るところではないのだが。

 人に合わせることに慣れているソウにとっては、他人へのささいな気遣いも、いまさらいちいち考えてしているものではなかったが、いま思えば、黒影の「わずらわしい」という意図も、理解できないわけではない。――ということに最近気がついた。

 おもむろに気配が動いて、ソウは視線だけ向けた。まだ身体がだるいのだろう。ひたいのハンカチを抑えるように身体を起こした黒影は、そのままうなだれるようにじっとしている。

 ソウは、もうひとつ別のボトルを横に置いた。

「水、飲んだら?」

 ややあって、ボトルに手をかけた黒影は、くちをわずかに湿らせただけのようだった。

「お昼は?」

「いらん」

「そ、」

 ソウもまた、自分のボトルをかたむけた。最近、自分でもおどろくほど、口数が減ってしまった。彼女が求めていないから、という実に端的な理由ではあるものの、しばしば沈黙を共有する時間も、この奇妙な間柄にもすっかり慣れてしまった。心地がいいかと問われれば、さすがに首を振るだろうが。では逆に、たいそう居心地が悪いかといわれると、そうでもない。

「君、ああいうの苦手なんだね。意外」

「身体を縛りつけられてはどもならん」

 背もたれに自重をあずけて、黒影はわずらわしそうに青空を見上げた。

「へぇ」

 ソウは適当にうなずきながら、園内地図を広げる。

「あ、ほかにも気球レストランとか、観覧車とかもあるけど」

「叩っ斬るぞ」

「冗談だよ。許して」

 ソウは軽く笑って地図を閉じた。

「ゆるさん」

「どうしたらゆるしてくれる?」

「自分で考えろ」

 へぇ、とソウはまた笑った。

「それって、信頼?」

 黒影が、わかりやすく眉間にシワを寄せた。

「うそうそ。冗談だって。君って、すなおだよね」

「キサマほど気色悪くはない」

「そりゃどうも」

 ソウはかるく笑いながら、懐から小さなつつみをとりだした。ひらくと、ふわり、と爽やかな香りが広がる。半透明の飴玉が、風にゆれた木漏れ日できらきらと光った。

 指先でひと粒つまんで、となりの黒影へ。口にほうりこんでやると、彼女は「なんだこれは」と、ほっぺたに飴玉のかたちを浮かせて、怪訝(けげん)な顔をした。

「ハッカの飴だよ。ちょうどいいかなって思って」

 自分のぶんもつまんで、ソウは口のなかでころがした。ほのかな甘み。冷涼な香りが、鼻に抜ける。

「露店で買ったんだ。昔からこれが好きでさ。――近所の子はみんな、甘いほうがいいっていうんだけど、俺はこういうほうが食べやすくて」

 黒影はさらに、眉間にシワを寄せたらしかった。

「甘味は嫌いか」

「ううん」

 首を振る。

「嫌いってわけじゃない。好んで食べたりしないだけで」

 黒影がわずかにかしげた。もしかすると、ナギと甘味を食べたときのことを思いだしているのかもしれない。ナギが甘味を食べるときは、ソウもまた、甘味をいっしょに食べていたから、ふしぎに思っているのだろう。

「ナギさんって、甘いもの好きでしょ。で、いろいろ食べてみたいって、おたがいに味見したりする。俺はいつも、なにを注文するか迷っちゃうから、それなら、ナギさんも楽しめるものを注文したら迷わなくていい」

「キサマの意思はないのか」

「それが俺の意思だけど……」

 黒影が、さらに口もとをへの字に曲げてしまった。また、なにか怒らせてしまっただろうか。どう返答するのが正しかっただろう、といまさらながら考える。

「わからん」

 端的に、黒影は言った。今度はソウが首をかしげる番だった。

「なぜキサマは自制する?」

「自制? もしかして、俺がぜんぶ我慢してる、って思ってるの」

「ちがうのか」

「まさか」

 ソウはかるく笑った。

「どうしたいって、そんなのいちいち考えてなんかないよ」

 つつみを閉じて、また懐へしまう。

「なにかを決めたり、迷ったりするのって、けっこう疲れるんだよ。だからさ、君とかナギさんみたいに、あれしたいこれしたいって、なんでも意思がはっきりしてて、自分でぜんぶ決められるのって、すごいことだと思うけどな」

「ではキサマはなにがしたいんだ」

 ソウはすこし考えた。なにがしたい、というような物事は、とりたててなかった。ナギみたいに美味しいものを食べることが特別に好きなわけでもなければ、黒影のように、戦いや死の淵に意味を見いだしているわけでもない。

 たしかに、自分で作った料理を、ライに美味しく食べてもらえたら嬉しいというのはあるだろう。頼られることも悪い気はしないし、けれども、やりたくてやっているというよりは、いつも、どれも、必要だからやっている。望まれるから応えているだけだった。

「平和に過ごせたら、俺はそれだけでいいんだけどな」

 ぽつり。小さく言葉をこぼしたときだった。

「黒影ちゃあああああああああん!」

 質の良い園内音楽をさえぎってつきぬけた声は、ナギのものだった。見れば、お昼ごはんの包みを片手になぜか子どもをひとり引き連れている。ナギは少年に包みをあずけると、諸手を広げ、

「元気になっで良がっだでずぅぅぅぅぅぅぅぅぅうう!」

 と黒影に向かって一直線に突進し、

「へぶらっ」

 案の定、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔面は、黒影の硬い靴底でさえぎられた。腕を組んだままナギを見下げると「気色の悪い」と一言。そのまま身を引いて、立てかけていた大太刀を担いだ。

「えへぇ、いつもの黒影ちゃんですねぇ」

 嬉しそうに、ナギは袖で顔をぬぐった。

「で、その子は?」

 あらためて男の子へ視線を向ける。彼は十歳くらいの年頃で、髪は短く、小麦色の健康的な肌をしていた。うしろ頭で手を組んだまま、どこかふしぎそうに、これまでのナギと黒影のやりとりを見ていたようで、おもむろにソウと目が合うと、彼はにかっと明るく笑った。

 ナギは言った。

「なんだか、迷子らしくて」

「そっか。じゃあ総合案内所に連れて行ったほうがいいかな?」

「ナギもそう思ったのですよ」

 ソウはしゃがんで、その子に目線を合わせた。

「はじめまして。俺はソウ。ナギお兄さんの友だちなんだ。俺とも友だちになってくれる?」

 そこまで言ってから、言葉が通じないかもしれないということに気がついて、ソウは頬をかいた。ナギに通訳を頼もうか、と考えたとき、

「そっちのは?」

 少年は、独特の抑揚とともに黒影を指さした。ソウは目を丸くしたが、すぐに笑みをたずさえて「あっちは怖いけど、悪い人じゃないよ」と言葉を返す。少年はへぇ、とてきとうにうなずいて、「怖いのに悪くないの? 変なの」と歯を見せて笑った。


***


 迷子の少年――カイを連れて、三人は総合案内所へ向かうことにした。カイは、一言で表すなら、とても明るい性格だった。幼いながらも、ソウたちと合流するまでにすっかりおちついていたのは、彼の前向きな気性があり、おしゃべり好きなナギと話が盛りあがったかららしい。

 人ごみではぐれないように、とソウが手をさしだすと、彼はふしぎそうにソウの手のひらを見つめた。「なにこれ」と火傷痕をにぎにぎとさわる。そんな少年に対して、これが火傷痕であり、もう痛くないことを説明すると、どうやら納得したのか、それ以降、とくに気にすることはなかった。もう片方の手はナギとつなぎ、楽しそうにとび上がる。少年の調子にあわせて、ソウが腕をあげてやると、さらに楽しそうに笑った。

「でね、」

 カイはまたおしゃべりを始める。

「おれの名前って、ウミがユライなんだって。ウミって、でっかくて、空とおんなじ色で、おっきいんだって!」

 ソウは、くす、と小さく笑った。ライのことを思いだしたからだ。小さい子どもは、よく同じ意味の言葉をいったり、くりかえしたりする。頭の中で考えながら、一生懸命に伝えようとするようすは、とてもほほえましい。

 カイは二人の間でもう一度とび上がる。

「だからね、おれ、おっきくなったらウミに行くんだ」

「すてきな夢だね」

 ソウが微笑むと、カイはきょとんと首をかしげた。

「夢じゃないよ。だって、おれ、いつか本当に行くもん。夢はゲンジツじゃないんだって。ばあちゃんが言ってた」

「海はとっても楽しいですよ」ナギが片手を大きく上げた。

「ナギはウミ、知ってるの?」

「ええ」

「教えて……あ、やっぱだめ! 自分でたしかめる」

「ナギがおしゃべりしても変わりませんよ?」

「それでもだめ!」

「ははぁん、さてはカイくん、楽しみはとっておく派ですね」

 ナギはにやりと笑った。

 


 いくらかおしゃべりをしているうちに総合案内所へついたが、そこにカイの保護者はいないようだった。

「もうすこし待ってみようか」

「ばあちゃん……カミカクシだったらどうしよう」

 うつむいて、カイは暗い顔をした。

「神隠しって、ドリミアルの?」

 カイはうなずく。

「ばあちゃんがね、話してたんだ。むかし、大好きだったひとが、いなくなっちゃったんだって。カミカクシだって」

「きっとおばあさんも、君が神隠しにあったかもって、心配してると思う。だから、ここでいっしょに待っていよう。きっとすぐ見つかるよ」

 ソウは励ましの言葉をかけたが、少年はますます不安の色を濃くするばかりだった。ほっぺたがこぼれそうなくらい下を向いて、くちをつむり、おちつかないようすで服の裾をつかんだり揉んだりしながら、小さな肩はどんどん丸まっていく。あっという間に目じりに涙がたまり、いまにもおちてしまいそうだ。

「ね」

 ソウはかがんで、自分の肩を指さした。

「高いところなら、見つかるかもしれないよ」

 少年を軽々と持ちあげる。そのまま肩に乗せると、カイは一転して、大きく目を輝かせた。

「わ、高い!」

「だろ?」

 ソウは軽く笑った。

「ちょっと走ろうか」

 ナギに荷物をあずけて走りだす。すると、カイは肩の上できゃっきゃと子どもらしい高い声をあげて喜んだ。

「わ、わ、すげぇ! はやい!」

 ソウは微笑んだ。一時しのぎにすぎないが、不安な時間を長く過ごすよりは、きっと良いだろう。

「もっと、もっと速くして」

「残念、回るよ」

「わぁぁ!」

 カイがソウの頭にしがみつきながら笑った。そのとき。

「ばあちゃん!」

 大きな声をあげて、カイはソウの肩から飛びおりた。かろやかにかけだして、まっすぐに向こうへ向かってゆく。人ごみがとぎれた先。おろおろとあたりを見回していた老婆が、ぴたりと動きを止めた。やせたまぶたを大きくひらいて、走ってきた孫を抱きしめる。

 二人の再会を温かく見守りながら、ソウはナギとほほえみをかわした。

 ややあって、カイは老婆の手を引いて戻ってくると、

「お兄ちゃんたちが遊んでくれたの」

 と言った。

 老婆は深々と腰を折った。

「どうもごめんなさいねぇ。孫がお世話になって」

「いえ、見つかってよかった」

 ソウは笑みをかえす。ナギが「良かったですねぇ」というと、カイは「うん!」と元気にうなずいた。

 カイはいままでのことを話したくてたまらなかったのだろう。ねぇ、ねぇ、としきりに老婆の袖を引いて、指をさした。

「でね、こっちがソウで、あっちがナギ」

「ソウさんに、ナギ……ナギ?」

 その瞬間、痩せて垂れたまぶたが、大きくもちあがる。ナギを凝視して、しばらくのあいだ、老婆はまるで息をしていないのではないかと周りを心配にさせるほど、ぴたりと静止していた。

「ばあちゃん?」

「ああ、ああ、なんてこと」

 老婆はくちびるをふるわせながら、しわがれた両手で顔をおおった。そしてまた、おそるおそる、ナギを見上げる。しわだらけの乾いた手を伸ばす。そのうちに、彼女はぼろぼろと大粒の涙をこぼした。指先をナギの肩に触れさせ、何度も確かめるように輪郭をなでては、しきりにナギを見つめ、ああ、ああと咽喉(のど)から嗚咽(おえつ)をこぼした。

「ナギさん……、戻ってきたのね。ああ、よかった。あなたが無事で……どれほど夢に見たことでしょう。どれほど待ったことでしょう。ナギさん、ナギさん。ナギさん……わたしは、あなたにずっと会いたかった」

「えっと、」

 ナギはとまどった声をあげた。

「ナギはたしかにナギですけど、」

 こまったように微笑みながら、頬をかく。

「人ちがいではないかと……だって、」

 ナギは言った。

「はじめまして、ですよね?」

 老婆は、目を見ひらいた。そんな、と枯れた声だけが、小さく消えた。

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