(三)星追い魚
ソウは目を大きくして、夢の国を見つめた。入国のときに乗ったゴンドラから見た夕暮れの景色と、街の上を走る魔鉱客車から見る夜景はまるでちがう。荒野にぽっかり空いた虚は、ひとたび夜闇に包まれてしまえば、さながら星空に浮く空中都市だ。藍色の夜空を架け渡る無数の光はどれも美しく、そのうちのひとつの色帯にそって、客車は夜空をなめらかにすべってゆく。虹色の奔流に呑まれては、また夜空がひらけ、そのさきの光に呑まれる。体験はめまぐるしい。
「この〈魔鉱航路〉は、客車と航路、お互いの魔導術式の性質を反発させることで、この浮遊しているような、なめらかな移動を可能にしているのですよ」
もちろん、航路から外れないような安全設計や、密閉された客車内の環境整備も、魔導術式によってほぼ自動的になされているのだとナギは続ける。
「中央区島にある制御塔……シンボルタワーのことですね。そこでは多くの人々が、魔導術式の整備や監視をおこなっているんですけど、観光名所としても有名なんです」
「ナギさんは参加したことあるの?」
「さすがにないですねぇ」
そこまで言うと、ナギは「あれを」と言い、パッと窓外を指さした。つられて、ソウと黒影もまた同じように星空へ視線を向ける。
「わぁ」
ソウは声をあげた。光の帯をするりとよけながら、めいめいの光の群れが夜を翔けたからだ。細長い蛍光を宿したそれらは、皆いちように銀色の腹をひるがえし、ぐるりとつむじを巻いた。かと思うと、さらに上空へ。螺旋を描きながら大きく広がった。雄大な星空を自由に翔ける美しい魚たちは、ながいひげをゆるやかになびかせながら、薄く透明な翅で夜風にのる。まるで、この客車と泳ぐのを楽しんでいるようだ。
「星追い魚。魔幽大陸の固有種ですよ」
「魔種でもなんでもない魚が、空を飛ぶの?」
ソウは訊ねた。ナギがうなずく。
「ええ。彼らは回遊魚の一種で、時期がくるといっせいに空へ飛びだし、ああやってつがいを探すのですよ。不思議なことに、彼らには性別がない。つがいになった彼らは、ふたつがひとつに。混ざりあうことで、はじめて成体になるんです」
ナギがしめした空には、つがいになったばかりの個体がいた。ふたつの個体は、しなやかなひげを絡ませ、翅を共鳴させながら、しばらく遊泳していた。そのうちに、群れからそっと離れ、遠い星空へ。ぽつ、と消えていく。
「空を移動する間に、ひとつになっていくんだね」
ソウはつぶやいた。
「きっと、長い旅だ」
「ええ。彼らは、はるか空の果てで、ようやく海へ還り、卵を産み、その尊い一生を終えます」
星空を悠々と泳ぐ魚たちは、どこまでも自由であるように見えた。
「本当に、おどろくことばっかり」
旅が始まって、大変なことはいくらでもあった。これからもおそらく、幾度となく大変なことはあるだろう。ソウは考えた。いま過ごしているこの時間が、途方もない現実だ。未来への道筋は、あまりにも遠い旅路で、たまに、故郷への道が細くなって潰えてしまうようにさえ思うこともある。
けれども。
信じられないほどの美しい光景を、こうして目の前にして、感じられることが、大人になってからもあるなんて――、考えてすら、いなかった。
これまで、日々はいつも摩耗してゆくだけの作業に過ぎなかった。それは、自分が社会の一部だからだ。日ごと、季節のうつろい。多少の差異はあれども、やることはあまり代わり映えもしないものごとで、かといって、退屈だという暇はない。なにかと忙しいからこそ、新しさや変化をともなうものごとは、いつのまにか億劫になって、あまり興味もわかなくなり、そのうちに、意識のうちからすっかりなくなっていた。
「〈白の境界線〉に入ってからもだけどさ。崖から落ちちゃったり、補給地点が魔種に襲われたりしてさ。けっこう大変なことも多いけど――、」
こういう光景が見られるなんて、思ってもなかったよ。
そんなふうに言いかけたときだった。
「?」
おもむろに。
「魔種に、襲われた……?」
ナギが首をかしげた。
「それって、なんの話です?」
空をすべる魚の背すじが、ぴかぴかと明滅している。
光って、暗くなって。
また光って、暗くなる。
「ナギさん、なに、言ってるの」
ソウは、わるい冗談だよね、と笑ってみせた。
「だってナギさん。目の前の人を助けられなくて、泣いてたって」
「だから、なんの話ですか?」
明滅する光に照らされてもなお、翡翠色の瞳は変わらなかった。
星空は次第に暗くなっていった。それは、星追い魚がそれぞれにつがいを見つけ、遠い未来へと進みはじめたからだった。ぽつぽつと残っているいくらかの魚は、いまだに星空をさまよっている。まわりにはいくつも同じようにさまよっている魚がいたが、どれも、おたがいを認識できていないように、ずっとずっと、ぐるぐる、ぐるぐるとめぐっていた。
群れとも呼べなくなった彼らは、つがいを見つけられなかった彼らは、いったいどこへいくのだろう。
どこへ、いけるのだろう。
「ナギさんはさ、どうして旅をしているの?」
「ナギは――、」
そのとき、夜空にひときわ大きな花火が打ちあがった。ド、とひらいた音がして、つづけて、ふたつ、みっつと咲きひらく。ナギの声は、華やかな空気の振動のなかに消えてしまったから、わからない。
「――……」
「わぁ、奇麗ですね!」
ナギは無邪気にはしゃいだ。
「ソウくんも見てくださいよ。こんなにすごいの、一生に一度かもしれませんよ?」
ソウは目を瞠った。
気がつけば、おなじ客車に乗りあわせただれもが、目の前の盛大な花火に心奪われ、ナギと同じように、その瞳に輝きを咲かせていた。いつもなら、きっとソウはすぐにでも調子を合わせていただろう。だが、どことなくずれて、かみ合わなくなっていくこの感覚が、はたしてナギのせいなのか、自分のせいなのか、わからなくなってしまった。
「補給地点は魔種に襲われ壊滅した。それはたしかなことだ」
低い声が、すげなくさしこんだ。ソウはふりかえる。りん、と鳴いた鈴の音が不安定に揺れている。黒影は、光の氾濫が届かない暗がりにいた。彼女は、きらきらと反射したまばゆい光を厭うように、目を細めた。
「おかしいのはナギだ。ヤツの記憶が不安定なことはいまに始まった話ではないと、キサマも知っていただろうに」
彼女の黒いまなざしは、夜よりも、ずっと暗い。
「どうした。いつものように、その他大勢と同じ顔をしないのか」
黒影は嘲るように笑った。
ソウは口をひらきかけたものの、なにかをいうことは、あきらめた。それをすることに、いまはなんの意味も見出せなかったからだ。おもむろに、窓外を見上げる。また、花火が咲いた。
いつのまにかいなくなった星追い魚。
思いかえす人間は、もういない。




